島津好江さんのお話から見えてきた戦中・戦後の武蔵野の朝鮮人
昨年の夏あたりから、「武蔵野の朝鮮人」について新たに調べ始めています。拙著『朝鮮戦争と日本人 武蔵野と朝鮮人』(クレイン、2021年10月)をまとめている中で、新たにわきあがってきた疑問点、これまでも残されていた疑問点などなど、まさに、いくつもの点をとにかく調べはじめました。
その経緯を、今後、こちらでも書いていこうかと思っていますが、
まずは、ご本人も武蔵野に長く住まわれており、ご実家は代々ずっと武蔵野、関前に暮らしてこられた島津好江さんの聞き取りから見えてきたことを『戦争のきずあと・むさしの』第71号に掲載していただきましたので、こちらでもシェアしたいと思います。
島津さんからは武蔵野の朝鮮人についてはもとより、島津さんの目からみた武蔵野の戦前戦中戦後のありようをお聞きしています。
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島津好江さんのお話から見えてきた戦中、戦後の武蔵野の朝鮮人
昨年2022年の10月から、12月、今年の5月と三回、島津好江さんから武蔵野の歴史、とりわけ、「武蔵野の朝鮮人」についてお聞きしている。
武蔵野の朝鮮人については、梁裕河さんが武蔵野市女性史の編纂委員をされていた時に、ほとんど残されていない公文書や種々の記録をたどり、同時に、在日朝鮮人女性をはじめ何人もの方々から聞き書きをされてまとめられている。武蔵野に朝鮮人が多く集まってきたのは中島飛行機武蔵製作所の存在が大きいこと、製作所内の労働の実態、関連の土木作業などに従事した朝鮮人労働者やその家族についてなど、これまで明らかにされてこなかった武蔵野の朝鮮人にこうして光があてられた。(『武蔵野市女性史 通史編/聞き書き集』2004年、『あのころ そのとき:国策に絡め捕られて』むさしの市女性史の会、2013年など)
しかし、それでもまだまだわからないことが多く、武蔵野の朝鮮人についてはさらなる調査が必要だ。そのように考えていた時に、吉田守さんから島津さんからお話をお聞きしてはどうか、と声をかけていただいた。これをきっかけに吉田さん、梁裕河さん、私の3名で島津さんからお話をお聞きしている。
武蔵野の関前に代々暮らす島津さんのお話はどれも大変興味深い。1933年生まれの島津さんは4、5歳頃からの記憶をもとに朝鮮の人たちのことを語ってくださる。その時々の情景の描写力は素晴らしく、そこにあった一人ひとりが今ここによみがえるように伝わってくる。そこには重要な事実も多くあり、精査や調査が必要なため今の時点でお伝えできることは限られるが、ここではこれまで疑問だったことを解明へと近づけてくださったお話をお伝えしたい。
旧関前、現在の八幡町3丁目は中島飛行機武蔵製作所の門前に位置し、ここには中島の土木関係の仕事を請け負う飯場があった。そして同地には戦後「関前朝鮮学校」がつくられた。
朝鮮学校は、日本の植民地支配からの解放後(敗戦後)、日本にいた朝鮮人たちが真っ先に取り組んだ、子どもたち、二世たちに向けた民族教育の場であった。旧関前にも一時期、朝鮮学校があったことは当時撮られた一枚の写真や何人かの証言により明らかにされていた。
これまで、関前朝鮮学校は、子どもたちが通う学校だったと理解されてきた。しかし、一昨年、改めて解放直後の在日本朝鮮人聯盟(以下、朝連)の資料を確認したところ、朝連武蔵野支部管轄の初等学校は一校であり、それは三鷹町下連雀にあった武蔵野初等学院である可能性が高いことがわかった。下連雀と関前は近接するエリアであり、同時期に二つの初等学校があったとは考えにくく、また初等学校として関前朝鮮学校の名前は朝連資料には見つけられなかった。だが、解放直後に撮られた先述の一枚の写真には確かに学校の看板があるのだ。どういうことなのか・・・。すると、1947年9月の朝連の別の資料に、「関前朝鮮学院」という幹部養成のための「青年学院」の記述を見つけた。改めて写真をよく見ると、看板の前には人びとが立ち、文字は「関前朝鮮学」までしか見えない。つまり、「学院」と書かれていた可能性は大きいのだ。子どもたちの学校というよりも、幹部養成の学校だったのではないか。(詳細は、拙著『朝鮮戦争と日本人 武蔵野と朝鮮人』クレイン、2021年を参照されたい)
だが、子どもたちが通っていたという証言もあったと聞く。私は、どなたか、当時の学校のことをご存知の方はいらっしゃらないだろうか、と切に願っていた。そこへ、当時、関前朝鮮学校のすぐ近くにお住まいで、かも、この学校や飯場のこともかつて話されていた島津さんからお話をお聞きするチャンスに恵まれたのだった。
改めて、関前朝鮮学(校)の写真をお見せしながら当時のことをお尋ねした。すると、島津さんは、
「これはね、違いますね」
「・・・国民学校になったら、それがなくなって、全部、第二小学校に行ったの」
と語られた。私たち3人は、戦後の朝鮮学校が戦時中の話につながったので面食らってしまった。そこで再度島津さんに確認した。戦時中に朝鮮の子だけ集めた学校があったのかと。すると島津さんは、「そう。塾みたい」な学校が戦時中あったのだと言われた。島津さんが以前に話された子どもたちが集っていた学校とは戦後のそれではなかったことがわかった瞬間である。新たな事実に私たちは大変驚き、また興奮した。これにより戦後の朝鮮学校が子どもの通う学校ではなかったことにダイレクトには繋がらない。しかしそれでも関前朝鮮学(校)の解明への大きな一歩であった。同時に、戦中の「塾みたいな」学校という新たな課題もできたが、これは収穫でもある。
記録の残されていないマイノリティの歴史を再構成するには、小さな点をたよりにしてそこを掘り下げ、別の点と繋げていくしかない。そのような中で島津さんが言葉にされる記憶はとても貴重だ。今後も、まだまだお聞きしたい。
お聞きした重要な事実の一つに、境の浄水場の朝鮮人労働者のことがある。島津さんによれば、「朝鮮人技師」と呼ばれていた比較的お給料の良い労働者と、飯場で働く朝鮮人労働者とがいたようだ。これもまた情報が乏しい。現在、水道関係の文書や当時の新聞などを調査中だが、苦戦している。もし何かご存知のことがあれば小さな情報でもお寄せいただけたら大変ありがたい。