朝鮮戦争と日本人 武蔵野と朝鮮人
はじめての著書である
『朝鮮戦争と日本人 武蔵野と朝鮮人』
が2021年10月15日に出版されました。
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日韓会談への態度を通してみた日本社会党の朝鮮認識 ―党機関紙/誌の分析(1950-65)―
日韓会談への態度を通してみた日本社会党の朝鮮認識[1]
―党機関紙/誌の分析(1950-65)―
Japan Socialist Party’s Redefinition of the Korean Question: Its Policy and Attitude towards the Diplomatic Normalization Talks
五郎丸聖子
【論文要旨】
本稿は、日韓会談に異議を唱えたにもかかわらず日本社会党(以下、社会党)がなぜ植民地支配の責任追及を二次的とさせたのかという問いをたて、1950年から1965年の社会党の朝鮮認識と日韓会談への態度、さらに日韓会談への対応を通じての朝鮮認識の変化の有無を検討しようとするものである。
1950年代前半の社会党は日本の経済自立のためアジアを重視した。そのアジアとは中国と東南アジアで、同じアジアの一部であるはずの朝鮮半島は重視されなかった。朝鮮戦争の勃発は社会党に朝鮮半島への公式的態度表明をさせたが、それは不介入に力点がおかれたもので朝鮮半島との間には一定の距離が取られていた。
ところが、1955年に対日外交を呼び掛けた朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)に対して社会党が応答したことにより、社会党と朝鮮半島との関係は転機を迎える。社会党の朝鮮半島政策は、あくまでも冷戦に加担しないという中立主義を根底にもった南北等距離外交路線であり、南北朝鮮の平和的統一が望まれた。だが、大韓民国(以下、韓国)とは李ライン問題の解決が争点となる一方で、韓国以上に経済的躍進が見られたことや日本に対して好意的態度を示した北朝鮮に対して社会党はポジティブな印象を持ち始める。こうして次第に社会党は北朝鮮に接近し、一方で日韓会談への反対態度を明確にしていった。
このような党内の朝鮮半島政策に影響を与えたのは、訪朝議員であり日朝協会の会員であった。彼らの多くは、党内にできた対朝鮮半島外交専門機関の「朝鮮問題対策特別委員会」のメンバーでもあった。日朝協会、「朝鮮問題対策特別委員会」というラインが党内の朝鮮半島政策に影響を与えた。
北朝鮮との交流を契機に在日朝鮮人の問題にも関わっていった彼らは、大村収容所収容者の歴史的背景と置かれた現状の厳しさ、在日朝鮮人の日本社会における苦境を知り、在日朝鮮人の帰国事業へ積極的にコミットすることになる。在日朝鮮人の苦境の原因が過去の植民地支配と現在の日本政府の政策にあることに気づき、また在日朝鮮人の「祖国」への帰還要求の態度を目の当たりにしたことは、彼らの中で植民地支配の責任をとることと「祖国」北朝鮮へ帰国させることを同一視させた。
1962年に北朝鮮政府が日本政府へ向け植民地支配責任を初めて明確に追及した12.13声明は、社会党をはじめとし日韓会談反対運動の担い手に植民地支配の捉え方においてインパクトを与えた。声明以降、反対運動勢力において植民地支配の責任に関する論考が出現し始める。その執筆者は社会党の石野久男、日本共産党の寺尾五郎が中心であった。両者は日朝協会の会員であり、そこを拠点に北朝鮮、在日本朝鮮総聯合会(以下、総連)とともに日韓会談反対運動を担い続けていた。
寺尾は、1961年に日本朝鮮研究所を創設していた。寺尾と共に同研究所を支えた藤島宇内は、12.13声明以前の1961年に、雑誌『思想』に発表した論考「『日韓交渉』の思想と現実」の中で、植民地支配の責任に対する日本人の自覚の薄さを指摘している。こうした藤島の問題意識は、寺尾をはじめ日本朝鮮研究所においておそらく共有されていただろう。すなわち12.13声明以前から研究所内に植民地支配の責任意識は存在していたと考えるほうが自然である。とはいえ、社会党、日本共産党の機関紙/誌において植民地支配の責任への言及が増えたのが12.13声明以降であったことも確かであった。
石野や寺尾は、日韓会談反対運動の中で、日韓会談の問題が日本人の切実な問題としてではなく対岸の朝鮮の問題とされてきたことを次第に問題視するようになった。つまり大村収容所問題、帰国運動へのコミットなど、北朝鮮、総連の運動を支援するというそれまでの日韓会談反対運動のスタンスを克服するべきだという考えにいたったのである。
その課題克服のモデルとして意識されたのが日本で最初の広範な大衆運動であった安保闘争であった。当初は日韓会談の問題を安保闘争のように日本人の問題として捉えることが目指されたが、次第に安保闘争のような大衆運動の再帰だけが至上命題となっていく。日韓会談反対運動は、①東北アジア軍事同盟(NEATO)の完成、②日本独占資本の韓国進出、③朝鮮の平和統一の阻止と南北の分断状態の固定化、これら3つへの反対が主要スローガンとして展開された。だが次第に日韓会談反対運動においてアメリカの軍事戦略に巻き込まれることの脅威がより争点化され、多岐にわたった日韓会談の他の争点は捨象されていった。
その一方で、社会党の石野久男や日本共産党の寺尾五郎が「日本人として」の日韓問題への取り組みにこだわり、藤島宇内が「人民の立場から植民地問題を見なおした感覚」が日本人に乏しいことを問題視したように、日韓会談反対を唱えるならば植民地支配の責任意識を持つべきだとする人々が一部に存在していた。そのことは日本社会における植民地支配の責任への気づきの契機の一つにはなった。
だがそれは同時代的な潮流になることはなく、冷戦という状況にひっぱられた日韓会談反対運動は植民地支配の責任追及を後景に退かせることになった。冷戦分断に加担しないことを外交方針として掲げてきた社会党が冷戦の文脈にあった日韓会談に反対したことはある意味当然の帰結ではあったが、逆説的にそれは冷戦の論理という枠組みにとらわれることにもなったのである。
[1] 本稿は、明治学院大学大学院国際学研究科提出(2014年)の修士論文に加筆修正を行った。(『明治学院大学大学院国際学研究科紀要 第14号』2015年に掲載されたものを転載)
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目次
第2章 日韓会談中断期―日本と朝鮮半島との関係における諸問題
第1節 北朝鮮の対日外交政策転換と「在日朝鮮人運動」の路線転換
第2節 統一社会党の対朝鮮半島政策―北朝鮮への接近と日韓会談への態度変化
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序章
1945年8月の日本敗戦と同時に、1910年から始まった日本による朝鮮の植民地支配は終わった。朝鮮半島では、分断国家が成立し、朝鮮戦争が1950年に勃発した。当時の国際社会は、米ソ対立を頂点とした資本主義陣営と社会主義陣営に二分される冷戦状況であった。このような中で日本は、1951年9月にサンフランシスコ講和条約を締結し国際社会に復帰する。
だが、かつて日本の植民地であった朝鮮半島との関係修復は独立後の外交課題として残された。講和条約調印直後、アメリカ主導のもと、日本は朝鮮半島の分断国家のうち南側の大韓民国(以下、韓国)との間で国交正常化交渉(以下、日韓会談)を開始した。戦後の日本と朝鮮半島との関係を規定したのはこの日韓会談である。
交渉における韓国側の主張は、植民地支配を不法かつ不当と捉えた上でその清算を要求するものであった。一方の日本は、植民地支配を当時の国際法上合法かつ正当だと捉え、植民地支配終了に伴う清算は資産等について日韓双方でなされるものだとした。
以上のような認識相違によって交渉は紛糾し遅々として進まなかった。だが最終的には日韓両国間でのいわゆる「大平・金合意」により、請求権交渉は政治的に妥結したとされている。この合意以降、請求権交渉の重点は、日本の植民地支配に対する評価から請求権と経済協力を連関させた方式へと移行した。
韓国国民からの批判が想定されたことから、韓国政府は「請求権」という名目を主張することで請求権交渉に植民地支配の評価の痕跡を残そうとした。だが韓国政府が国内でどのように説明しようと、日本が韓国に供与したのは経済協力方式であった。こうして植民地の支配側と被支配側が一致した形での清算はなされることなく日韓会談は終わったのである[1]。
ところが、1990年代以降に急増したいわゆる戦後補償裁判にみられるように、日本の植民地支配の責任は、時を経て被害当事者から問い直されることになる。
日韓会談は政府間交渉であったが、これを日本国内の他のアクターはどのようにみていたのだろうか。日韓会談に対する反対運動(以下、日韓会談反対運動)は日本社会党(以下、社会党)、日本共産党が中心となり起きたが、その中で植民地支配の責任追及が二次的な扱いであったことはすでに明らかとなっている[2]。
社会党、日本共産党は、90年代以降の補償裁判の際、外からの問い直しを国内議論に結びつけていく上で重要な役割を果した[3]。とくに社会党は、政権を担った時期に国会決議と村山首相による談話[4]によって植民地支配への加害意識と謝罪の意思を示している。
このように90年代以降に朝鮮の植民地支配の責任を政府へ追及することになる社会党が、日韓会談期間においては日韓会談に異議を唱えつつも、植民地支配の責任追及を二次的としたのはなぜだったのだろうか。
以上のような問題意識から、本論文での課題は社会党が戦後体制の中で朝鮮半島をどのように見ていたか、日韓会談へいかなる対応をしたのかということの歴史的検討となる。
本論文では、日韓会談期間を戦後の日本と朝鮮半島の関係が設定された時期として捉える。このような視点にたつと、日韓会談が、冷戦の文脈で下された日本と朝鮮半島の関係における一つの選択だったことが浮彫りにされると同時に、朝鮮に対する植民地支配が日本と朝鮮半島の間に生じた問題であったことが改めて確認できると考えるからである。
本稿の課題に関連した先行研究は、社会党の外交政策研究と日本における日韓会談反対運動研究とに大別することができる。社会党の外交政策研究は、吉次公介(2001)[5]とペテル・デュラナ(2012)[6]の研究が挙げられる。吉次は、社会党が左右両派に分裂していた1950年代前半を対象に、両社のアジア外交政策の相違点がいかに両社の国際情勢認識、安全保障認識と密接に連関していたかを分析検討した。ペテル・デュラナの研究は、社会党が朝鮮半島政策を南北等距離と決定しながらも次第に日韓会談反対の姿勢を明確にしていくまでの過程を、党内における左右対立との関係や北朝鮮との交流などを踏まえて丹念に追ったものである。これらの研究は政策の形成過程やその変遷を外的要因と党内部の勢力変遷から考察したもので、自民党の外交とは異なるオルタナティブ外交の可能性と限界を明らかにすることに重点がおかれた。だが社会党の朝鮮認識が朝鮮半島政策にどのように関与したかという切り口の考察は十分になされていない。
次に日韓会談反対運動における植民地支配の責任意識に注目した研究として、畑田重夫(1965)の研究が挙げられる。1962〜65年までを対象に反対運動勢力としてその中心的担い手であった日本共産党、社会党、総評(日本労働組合総評議会)のほか、日朝協会、日本朝鮮研究所の動向を整理した上で、運動の中で植民地支配についての反省が欠如している点が指摘された[7]。また吉澤文寿(2005)は、1962年後半から1965年の条約調印後までを対象とし運動全体の展開過程と各主体の運動論理を分析した。その上で、運動全体をみたとき植民地支配の責任への関心は低かったが、一方で日本朝鮮研究所のようにその問題を克服しようとした立場もあったことから、むしろ植民地支配の責任に向き合う日本人を拡大させたとして運動を評価した[8]。両研究では反対運動の展開過程を整理した上で、社会党、日本共産党、総評といった中心的担い手による反対運動において植民地支配の責任追及が二次的だった点が明らかにされたが、なぜ植民地支配の責任追及が二次的となったかについての検討は十分になされていない。
最後に、朴正鎮(2012)aは、社会党、日本共産党、日朝協会らの反対運動における立場と行動を考察するとともに、日韓会談と日本の反対運動に対する北朝鮮の認識と対応を検討することで多様なアクターの意図が絡まり合った日本の日韓会談反対運動における固有の力学を明らかにした[9]。また、辛貞和(2000)は、日本の北朝鮮外交政策を1945年から日朝国交正常化のための政府間交渉が決裂した1992年まで検討した。その中で政府・自民党のほかに社会党、日本共産党と北朝鮮との関係を考察することで、日本国内の北朝鮮政策をめぐる諸政治勢力間の力学を明らかにした[10]。本稿における北朝鮮と社会党、日本共産党を中心とした日本の反対運動勢力との関係に関する部分は、朴論文と辛論文によるところが大きい。
これらの先行研究に対して、本稿では戦後の日本と朝鮮半島との関係を構築した日韓会談に対してその中心となって異議を唱えた社会党が、なぜ植民地支配の責任追及を二次的な扱いとしたかを解明していく。1950年から65年において社会党がいかなる朝鮮認識を持っていたか、日韓会談へどのように対応したか、そして日韓会談への対応を通して朝鮮認識の変化はあったか、以上3点を党の機関紙/誌の分析を通して考察する。
機関紙/誌を使用するのは、社会党の党としての朝鮮植民地支配、日韓会談、対朝鮮半島に対する対応、政策とともに社会党員による手記やコラム、論文など様々な形態が収集可能だからである。
左右分裂以前の1950年から52年については機関紙『社会新聞』を使用する。分裂期である1952年から55年は、左派社会党の機関紙『党活動』、また左派社会党系の大衆紙的機関紙『社会タイムス』、 右派社会党の機関紙『日本社会新聞』を使用する。統一後の1955年から65年については、機関紙『社会新報』(1955年発刊)と機関誌『月刊社会党』(1957年発刊)を使用する。これらの機関紙/誌から、社会党、社会党員がいかなる朝鮮認識を持ち、日韓会談にどのような対応をし、そのことを通じて朝鮮認識に変化はあったかという視点で記事やコラム等を広く収集、分析する[11]。この分析検討を通じて、なぜ植民地支配の責任への追及が社会党において抜け落ちたのかを明らかにする手立てとしたい。
なお、朝鮮認識の「朝鮮」という地域を指示する用語は、領域的な朝鮮を意味すると同時に、そこを出自とする人々すなわち在日朝鮮人も想起させるものとして捉える。この地域認識は植民地主義の遺物として、戦後日本社会とくに本論文で扱う対象時期である1950年代から60年代には色濃く存在していたからである。
第1章 日韓会談にのぞむ社会党―朝鮮半島との関係―
第1節 日本社会党と朝鮮
社会党は、1945年11月2日に大きく3つの流れがあった戦前の社会主義運動が合流する形で単一社会主義政党として結成された。3つの流れとは、日本無産党系(日無系)、日本労農党系(日労系)、社会民衆党系(社民系)であり、これらは敗戦に至るまで、ときには他の分流を巻き込んで相互接近、反目、離間を、またあるときには各党派内における確執と内紛を経験しながらすさまじいまでの離合集散を繰り返した。
戦後、社会党結成をリードしたのはいわゆる右派といわれる社民系有力者の西尾末広らである。党発足のプロセスにおいては、右派と中間派の日労系が比較的早い時期にまとまった一方で、左派の日無系は客分的な立場に置かれていた[12]。この点に関して西尾末広は以下のように回想している。
この間旧社民系と旧日労系の中には、加藤、鈴木らの旧日本無産党系は排除すべしという強い意見があったが、最初の出発としては、単一社会主義政党ということでなければ、大衆の魅力がないだろうというのが、水谷、平野両君の意見だった。私は社民系の意向は一応考慮したが、日無系は少数派だから、これは押えて行けるだろうと、二人の意見に賛成し、左派を入れる方針をきめた[13]。
このように社会党の結党は、右派リードにより左右両派の対立を内包する形で行われた。このことは後の路線闘争および派閥活動へとつながっていくことになる。
左右両派の対立の深刻さを最初に表面化させたのは、1949年の第4回定期全国大会(以下、党大会)にむけての運動方針起草委員会でおきた右派の森戸辰男と左派の稲村順三による理論闘争である。その争点は、党の性格と社会主義革命方式に関してであった。党の性格を「国民政党」とした森戸は、議会主義のルールに則って暴力無産階級独裁の共産党方式と闘うべきことを主張した。これに対して稲村は、党の性格を「階級政党」と位置づけ、革命による社会制度変革を目指すべきとした[14]。結局、真っ向から対立した両者の主張は、後の党委員長勝間田清一により、本来合体しえない「国民政党」と「階級政党」を「階級的大衆政党」とすることで調整された[15]。左右両派の根本的対立が存在する中で、社会党はなんとか「単一社会主義政党」としての歩みを進めたのである。
社会党にとって1950年6月に勃発した朝鮮戦争は、安保・外交についての具体的な態度表明と朝鮮半島の2つの分断国家への態度を迫るものであった。同年7月5日、中央執行委員会(以下、中執委)は「朝鮮問題と社会党の態度」(以下、「態度」)を決定している。ここでは、①朝鮮戦争の直接的原因は北朝鮮による武力統一の試みにあること、②武力行使による侵略を排し国連による法と秩序の維持を精神的に支持すること、③占領下にある日本は占領軍の命令に服する以外になく、その服従義務を越えて国連に積極的に協力しようとする政府の態度は不謹慎であること、④朝鮮戦争は勃発したが対日講和条約についてはあくまで全面講和の方針をとることが表明された[16]。
北朝鮮と交流のなかった社会党にとって、①の表明は比較的容易であった。②③では、吉田政権が国連軍に積極的な協力をするのは不謹慎とする一方、社会党は国連軍の行動を「精神的に支持する」すなわち「実質的に支持しない」という態度をとった。このように、「態度」は朝鮮戦争への積極的介入を否定するものであった[17]。これが「朝鮮事変不介入の決定」と呼ばれたこともそれを示している。そしてこの決定は、左右の対立を回避し合意できた最低ラインであった。
だが朝鮮戦争への態度をめぐる玉虫色の決着は左右両派のフラストレーションを誘発することになっていく[18]。米ソ冷戦のなかで中立的立場を堅持したい左派と、共産陣営の侵略に対して西側陣営との関係を強化すべきとする右派との意見の乖離は、次第に左右対立を深刻化させた。講和条約および日米安全保障条約の調印をめぐり、これに反対する左派と賛成する右派はついに1951年10月に分裂することになる。
1950年7月、社会党は、「我らはなぜ全面講和を主張するか」を発表した。ここでは全面講和論の二大支柱として、非武装中立による安全保障と「一定水準の生産と雇傭を可能ならしめる経済的自立」が掲げられ、これを日本が独立国家として存続していくうえで「最少限度必要とする絶対的条件」と位置付けた。また経済的自立のためにはアジア全域との貿易が必要であり、アジア貿易は全面講和につながる問題であるとした[19]。経済的自立が独立国として絶対必要であり、経済的自立のためにはアジア貿易が不可欠であり、さらにアジア貿易のためには全面講和でなければならないという主張である。
1950年6月の『社会新聞』では、中国、インド、東南アジアとの貿易は、国際的中立主義の貫徹によってのみ可能だとしている。社会党は、アジアにおける中立主義の台頭を鑑み、アジア貿易を生命線とする日本も中立主義を貫くべきであり、そのために全面講和が必要だと考えていた[20]。また、アジア貿易の復帰を目指すには、戦後処理が不可避の課題だと考えていた。
日本が国際復帰にあたり連合国と締結したサンフランシスコ講和条約では、賠償に関しても規定された。アメリカを中心に起草された同条約は、当初、連合国の賠償請求権を認めない内容であった。これは、アメリカが反共政策遂行のために日本の経済復興を最優先にしたためだが、フィリピンの強い反対の結果、戦争の被害を受けた連合国との任意協定による賠償は認められることに修正された。
戦争責任に連なる賠償に関して、講和条約14条(a)項では「日本国は、戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきことが承認される」として日本の賠償義務を認める一方、日本がその義務を「履行するためには現在十分でないことが承認される」として役務による賠償と日本の在外資産の連合国による処分権を承認したのである[21]。
このようにサンフランシスコ講和条約で規定された賠償内容は、「生産物賠償」方式[22]となった。当初のアメリカ草案に多少の修正はあったものの、日本に対して非懲罰的で寛大な内容となった。それはアジアにとって「日本が過去の行為に対して相応の罰を科せられることなくアジアに復帰することは許しがたい」との感情が残されるものであった[23]。
以上の賠償方針に対して社会党は、1946年には、アジア太平洋戦争の「責任ある敗戦国」として罪を率直に認め可能な限り賠償に応じるべきとの方針を示していた[24]。だが、講和問題が議論される頃になると、「経済的自立の為賠償の絶対的打ち切り」を左右両派で主張するようになる。分裂直前の51年秋、左右両派でほぼ一致した見解は、「日本経済の実情から賠償の打切りを主張し、更に被害国に対しては、アジアの民主的経済復興に技術熟練を通じて、或いは又機械、器具、工具等の供給を通じて貢献し、アジアの低い生活水準の引上げに協力することによってのみ賠償にまさった効果が期待出来る」というものだった[25]。
こうした主張の背景には、当時の日本経済の状況をふまえたとき、アジアの賠償要求全てに応えることは極めて困難だという判断があったのだろう[26]。だが日本の経済自立を重視するあまりにアジアへの賠償責任を後景に追いやることになった[27]。
1951年初頭の第7回党大会では、講和条約と安保条約をめぐって抜き差しならない内部抗争が繰り広げられた。同大会では鈴木茂三郎が左派で初の党委員長に選任され、委員長を支える中執委は左派優勢の構成となった。こうした人事面での優位性は、右派との激しい論争の末に「再軍備反対決議」が可決されたことに象徴されるように、政策面とりわけ安保・外交に関して左派が右派の主張を圧倒していくプロセスに現れた。前年50年7月、マッカーサーが発した警察予備隊創設指令を社会党は承認していたが、半年後のこの大会では、左派のイニシアティブにより「再軍備反対」が明確に打ち出されたのである[28]。これにより、従来の「平和三原則」[29]は、「再軍備反対」が加えられた「平和四原則」(全面講和、中立堅持、軍事基地反対、再軍備反対)へと発展した。この「平和四原則」は、これ以降、社会党の安保・外交政策を導く最重要指針となっていく。だが当然、これは右派にとって容易に受け入れられるものではなかった[30]。
社会党が講和・安保両条約について最終的な態度決定に具体的に動きだしたのは、講和条約調印後の批准国会(臨時国会)召集の二週間ほど前であった。和田博雄を委員長とする外交委員会は、両条約についての会議を9月末から数回実施した。同委員会での議論は、左右の対立が収斂するどころか、もはや妥協不可能な状況であることを確認させるものであった[31]。左派は、あくまで非武装中立を追求すべきとし、アメリカの戦争に巻き込まれる可能性を生む講和・安保条約に反対だとした。その背景には、第三次世界大戦は不可避ではないが、米ソ対立とアジア情勢は緊迫状況とみる悲観的判断があった[32]。これに対して右派は、冷戦状況においては西側陣営の一員として、一定の実力(筆者:軍備)を持ち共産主義に対抗すべきとし、独立を実現するためには安保・講和条約には反対すべきではないと主張した。また右派は冷戦下では局地戦の危険が多く、講和・安保が朝鮮戦争の全面戦争化や日本への波及を意味するものではないという情勢認識に立っており、左派とはこの点が全く異なっていた[33]。
外交委員会では、国会において両条約に賛成票を投じるべきとする右派と、両条約に反対票をと主張する左派に分かれた。そこへ、党内的にまとまりやすい「講和条約賛成、安保条約反対」を打ち出した中間派が現れたことで三案が中執委へと持ち込まれた[34]。その後、中間派との妥協により右派は、「講和条約賛成、安保条約反対」態度をとるが、それは左派との対立を解消するものではなかった。
こうした状況の中で開催された1951年10月23日の第8回党大会は大混乱となった。講和・安保両条約の批准に対する態度をめぐり左右両派が激しく対立し、ついに社会党は左右に分裂した。以後、左派社会党と右派社会党という別々の政党として55年の再統一まで行動することになる。
ところで、左派が、党分裂に及ぶまで「両条約反対」を貫いたのには、日本労働組合総評議会(以下、総評)の存在が関係していた。左派への総評の後押しが、両条約問題に対する左派の行動を先鋭化させていったのである。
総評が戦後労働運動に登場したのは、朝鮮戦争勃発直後の1950年7月11日であった。GHQとアメリカ政府の強力な指導の下、「反共」の旗を掲げて、加盟組合員が組織労働者のおよそ40パーセントにおよぶという一大ナショナル・センターとして総評は誕生した[35]。草創期の総評はアメリカに従順であったが、結成一年を経ずに急転換をとげる。1951年3月の第2回大会において、GHQおよびアメリカ政府が企図した国際自由労連への一括加盟案を廃案にすると同時に、社会党が第7回党大会で決定した「平和四原則」を行動綱領に入れて「総評の意志」とすることを決定したのである[36]。すなわちアメリカおよび吉田内閣の単独講和に全面講和をもって対決するとともに、自由主義陣営の労働運動とつながることなく、むしろこれに敵対する姿勢をみせたのである。こうした転換は当時マスコミで「ニワトリからアヒルへ」といわれた[37]。
このように路線転換した総評は、社会党左派に対して講和・安保両条約反対を強硬に申し入れ、党分裂も辞さぬ覚悟をもつよう迫った。第8回党大会が開かれた10月23日の夜、総評内の労働者同志会は、社会党左派の青年部と会議を持ち、以下の重大決意を社会党中央に伝えた。「社会党が臨時大会で、白青(筆者:講和条約賛成、安保条約反対)を決定した場合、社会党を勤労者の政党と認めることはできない。そのときは新しい労働者党を結成する」[38]と。総評はこうして社会党左派を威嚇しつつ、「分裂を恐れずたたかえ」と檄を飛ばしたのである[39]。
大会以前に開かれた中執委では、右派が中間派に歩み寄って作られた統合案すなわち「講和条約賛成、安保条約反対」と、左派の「両条約反対」を採決に付し、右派・中間派の統合案が大会への原案として可決された。わずか二票差による右派・中間派の勝利だった。左派にとって最後の頼みは、代議員数において自派優勢が見込まれる大会であった。中執委原案を大会で通そうとする右派・中間派と、「両条約反対」の修正案を可決させようとする左派は衝突し、社会党は両条約への党議未決定のまま極度の混乱のなかついに分裂という結果を迎える。右派・中間派は右派社会党(以下、右社)を結成し、左派は左派社会党(以下、左社)と呼ばれる独自会派をつくっていった[40]。
分裂後の両派社会党(以下、両社)は、朝鮮戦争をはじめとした朝鮮半島に対する政策をどのように検討していったのだろうか。両社のアジア認識を確認し、その上で両社がアジアの中で朝鮮半島をどのように位置づけていたかを明らかにしていきたい。
対米従属状況に反発する左社は、自主中立外交による独立の達成をその外交目標の一つに掲げ、安保条約の廃棄と経済的自立が必要だと主張した[41]。また経済的自立のためのアジアとの関係改善を「対米従属」状況改善の重要な手段だと位置付けた[42]。このようなアジア認識を持つ左社の外交理論には「第三勢力」論、すなわち「隣国に敵をつくらず」「中立こそ最大の安全保障」という考え方があった[43]。「第三勢力」の担い手としては、①社会主義インター[44]に結集している労働者階級と社会主義勢力、②民族独立の感激が強く、その支配階級が極度に反動化していない新興独立諸国、③地域を問わぬ、真の民主主義者と平和主義者が考えられていた[45]。当初、左社は、①を重視し、イギリス労働党など西欧の社会主義勢力に注目していたが、しだいにアジア諸国を重視するように変化する。
アジア社会党会議[46]が、社会主義インターから別団体として1953年に設立されたことは、西欧とアジアの社会主義勢力の間に決定的な亀裂を生じさせていた。左社は、結成準備会からオブザーバーとして参加するなど植民地制度の打破を掲げるアジア社会党会議を全面的に支持し、社会主義インターからは距離をおくことを選択した。
左社がアジアの中で特に重視していたのは中国との関係改善であった。それは日本の経済的自立のためには中国貿易が不可欠だと考えたからである。そこには、「中国の市場が固まってからではもうおそい、コンクリートが固まってからでは、蓮の実も育つまい」との帆足計の発言からもわかるように[47]、中国市場が諸外国に抑えられないうちに日本も中国市場に進出すべきだという思惑があった。また、東南アジアについても日本の経済発展にとって欠くことのできないものと捉えられていた。つまり日本にとっては「中国貿易か東南アジア貿易かではなく、両方とも不可欠で断じて一方によって他を代替するものではない」と、左社は考えていたのである[48]。
上記のアジア認識をみてもわかるように、左社にとって朝鮮半島政策は主要な位置にはなかった。朝鮮半島政策としては、朝鮮戦争の休戦が成立した53年に安全保障の観点から以下の方針を打ち出している。①外国軍隊の同時撤退と、②全朝鮮の民主的統一政権樹立と平和国家建設への協力、③朝鮮の中立の共同保障の実現、④中立の統一朝鮮との国交正常化[49]。以上のように左社は、朝鮮の安全保障について関係諸国による共同保障に立脚した中立を積極的に主張し、「米韓安全保障条約や北鮮ママ・中・ソ間の軍事的提携の方式」には反対した[50]。実際に、左社の鈴木委員長は、統一朝鮮の非武装中立による安全保障という政策提案を中米英ソの大国首脳宛てに書簡で要求している[51]。また、国交正常化に関しては朝鮮の「民主的統一政権」とのあいだでおこなうべきだと考えた。
一方、右社の基本的な外交方針は、片面講和を肯定しつつ、不完全な独立状態の日本は自主独立外交を掲げ、安保条約改正と経済自立をもって独立の完成を目指すというものであった[52]。曽禰益が、片面講和が戦争につながると捉えるのは「き憂」であり「日本がアジアの孤児になるなど考えられない」[53]と左社を批判したように、右社は片面講和・日米安保がアジアとの関係を阻害しているとは捉えていなかった。
「独立後日本の外交方針」によれば、経済的独立のためには「特に中国及び東南アジアとの通商並びに賠償問題の解決」が必須であることを右社は謳っており、この点は左社と同様であった[54]。だが、共産主義を掲げる中国への態度は左社ほど積極的ではなく、東南アジアのほうに力点が置かれていた。中国貿易に消極的だったのは、朝鮮戦争に参戦した中国に対する警戒心からである。朝鮮戦争休戦以前、右社は、中国承認論を掲げる左社を「容共」的だとして強く非難しているほどであった。
だが、こうした対中政策は、53年度運動方針では朝鮮戦争が終わり次第中国を承認すべきと変更された[55]。翌54年1月の第12回党大会には、中国との国交は自由世界、民主主義陣営との協力並びにサンフランシスコ条約体制の基本、即ち独立と安全保障の基本的条件を脅かすことなく自主的に改善に努めることを表明するまでに変化した[56]。このように当初は反共主義の観点から中国へは消極的な姿勢であった右社も朝鮮戦争休戦以降は積極姿勢を見せ始めたのである。
だが、右社のアジア認識の背景には、基本的には西側陣営重視、反共主義という外交、安全保障の方針があった。このため、右社は国際社会主義勢力を西欧とアジアとに分裂させることにつながるアジア社会党会議には批判的態度をとり、社会主義インターとのつながりを重視した[57]。後進国が先進国の資源供給地となることを問題視し、植民地的な搾取経済機構につながるとの考えを示しつつも、アジアのみの団結が、西欧先進国との提携を困難にさせることも懸念[58]するなどアジアに対して一定の距離を置き、あくまでも西側陣営との連帯を重視したのである。
朝鮮半島に対しては、53年の外交方針で朝鮮の将来像を以下のように示している。すなわち、①高度の民主的国家としての平和的統一、②侵略者である北朝鮮に対する処罰、③西側陣営との連帯にもとづく韓国の安全保障、④大韓民国とのあいだの速やかで合理的な条件による国交回復と日本海漁業問題の解決である[59]。注目されるべきは右社がここで日韓の国交回復をはじめて呼びかけていたことである。
以上のように、右社は反共主義の観点から西側陣営との関係重視の枠組みの中で、中立主義や共産主義を掲げて植民地支配からの脱却をめざすアジア諸国との関係を模索していた。一方、左社は中立主義を掲げアジアとの接近を試みた。他方、両社は経済的観点でアジアを見ていたことから、中国や東南アジアを重視しながらも、朝鮮半島の優先順位が高くない点では一致していた。だが基本的に朝鮮半島に対しては、もっぱら、中立主義か、西側陣営との連帯かという安全保障政策の観点で捉えており、それは国交正常化に対する態度にも反映した。つまり、朝鮮半島における平和的な統一を望むという点では両社の一致を見たが、左社が中立の統一朝鮮との国交正常化を目指したのに対し、右社は韓国との国交回復を呼び掛けた。
第2節 初期日韓会談への態度
サンフランシスコ講和条約調印直後、日本は、朝鮮半島の分断国家のうち南側の大韓民国(以下、韓国)と国交正常化交渉を開始することになった。日本の独立に伴って生じる在日朝鮮人の法的地位問題に腐心していたアメリカが、この問題の討議を目的に日韓会談の斡旋に乗り出したことがその契機となった[60]。日本側は、在日朝鮮人の法的地位問題のみの討議を主張したが、最終的には韓国側の意向を受け、外交関係の樹立、在日朝鮮人の法的地位、請求権、漁業、海底電線、通商航海条約を議題にすることが決定される。そして予備会談(1951年10月20日~11月28日)、第1次会談(1952年2月15日~4月24日)、第2次会談(1953年4月15日~7月23日)、第3次会談(1953年10月6日~21日)と交渉が続いた。
ところが第3次会談において日本側全権代表の久保田貫一郎が「日本の植民地支配は多くの利益をもたらした」と発言したことにより会談は決裂し、その後4年半にわたる中断期を迎える事態に陥る。本稿ではこの中断期以前の日韓会談期間を初期日韓会談と呼ぶことにする。
日韓会談で行われるべき最大の課題が日本による朝鮮の植民地支配の清算であることは、両国の共通認識であった。だが前述のとおり、植民地支配の捉え方かつその清算の仕方についての認識が両国で全く異なっていた。そのことは久保田発言による会談決裂へとつながっていた。
初期日韓会談の中で、日韓間にはもう一つ大きな問題が生じていた。いわゆる李ライン問題である。韓国は、1952年1月18日、李承晩大統領の名で漁業資源の保護を目的とした「大韓民国隣接海洋の主権に対する大統領の宣言」を発し、公海上にラインを設置した。日本でこれは李リ承晩ショウバンラインないし李ラインと呼ばれた。本稿では以下、李ラインと呼称することにする。
日本政府は、李ラインについて、一方的に設定された排他的な海洋資源独占ラインであり国際法における公海自由の原則を破棄するものだとして受け入れがたい旨を主張した。このため李ラインを無視する形で日本の漁業は続行された。
戦前に世界でも有数であった日本の漁業は、李ライン設定の以前の占領下においても操業区域が厳しく統制されていた。これはマッカーサーラインと呼ばれた[61]。マッカーサーラインはサンフランシスコ講和条約発効(1952年4月)をもって失効した。李ライン宣言は、このマッカーサーライン撤廃に先立ち1952年1月に出されたのである。
その後、1952年9月27日には、李ラインとほぼ重なる水域が、朝鮮戦争における軍事的意図から国連軍によって防衛水域として設定され一般船舶の航行が制限された。これはクラークラインと呼ばれた。
韓国政府は、李ラインを無視する形で漁業を続行する日本漁船の出漁を、発砲および拿捕などにより圧迫していった。これに対して日本政府は自衛手段だとして巡視船および監視船の強化対策をとったが、韓国側はこうした日本側の態度に警告を発した。さらに韓国政府は「海洋主権宣言」に基づいて1952年10月「海洋侵犯取締令」を発布し、李ラインを侵犯した場合は法によって処罰すると正式に発表した。こうした韓国側の強気な態度の背景にはクラークラインの存在があった。李ラインとクラークラインの水域がほぼ重なっていたため、李ラインの正当性はクラークラインに実質的に支えられていたのである。

日本政府の国連軍への対応に業を煮やした左社は、防衛水域撤回の要求を決定し、外務、農林の両相に対して強硬な申し入れを行った[62]。52年11月の『党活動』では以下のとおり日本の漁業者の目線に立ち、日本政府の対応の弱さを指摘した。
「政府は従来、李ラインの一方的設定に対しては、公海自由の原則をふみにじるものとして、これを無視する態度をみせてきた」が、こと国連軍が相手となると「三万数千にのぼる漁民の死活問題にも拘らず、全く手も足もでない…政府の『ノー・コメント』の態度は李ラインと防衛水域において二重にしめつけられている漁民を絶望的な焦慮につきつけている」[63]
1953年7月27日の朝鮮戦争休戦協定に伴って、戦時における韓国防衛を目的としたクラークラインが撤廃されて以降も、日本漁船は韓国海軍により次々と拿捕された。これに対して、日本政府は11月27日に「韓国周辺及び東シナ海方面公海におけるだ捕事件対策強化措置要綱」を閣議決定し、同海域に常時6~9隻の巡視船をしょう戒させた[64]。一方、韓国政府は12月12日に「漁業資源保護法」を公布し、拿捕した日本漁民を「処罰」するための国内法を整備した。
韓国に拿捕された日本人漁船員の増加は、日本の対韓世論を悪化させていた。特に、李ラインに侵犯したとして日本漁船大邦丸の漁労長が韓国警備艇に銃撃され死亡した大邦丸事件は、日本社会に衝撃を与えた。同事件は各メディアで大きく取り上げられ、日本社会における韓国非難の声が大きくなる契機となった。
こうした事態を受け、両社は、53年2月、「大邦丸事件に関する声明」を発表している[65]。声明は、日韓間の正式交渉再開を要求するものであった。さらに左社の野溝書記長、佐多外交委員長は、同年9月29日、韓国の崔圭夏総領事と会談し、鈴木委員長ら3名連署で李大統領あての要請書を総領事に手交している[66]。要請書は以下のような内容であった。
資源乏しき弱小国として共通のなやみと地位に立たされている…このなやみは両国の係争ないし武力によつては解決するものでは断じてない。…弱小国である両国が生きんとするには、強大国の政治経済の矛盾とその支配性から脱却し、アジアを中心とする国交調整の条約を締結し、自由に且つ友愛に充せられた自主貿易を展開することこそが、両国の生きる唯一すじの道である[67]
この要請書は李ライン問題という「係争ないし武力によ」る韓国の態度に否定的であると同時に、「強大国」(筆者:米ソ)に対するアジア小国の抵抗という共通の立場にたち両国の友好を呼び掛けている。ここから、「第三勢力」として朝鮮半島を見ていたと考えることができる。ただしペテル・デュラナは、左社が韓国を「第三勢力」と位置付けたのは例外的対応だったと分析している。新興独立諸国のうち「民族独立の感激が強く、その支配階級が極度に反動化していない」国が「第三勢力」だと定義されていた中で、韓国はそれを満たしていなかったし、アジア社会党会議にも不参加だった意味で例外だというのである。にもかかわらず、大国に対するアジア小国という観点から、左社は韓国へ理解を示していた[68]。
一方、右社の李ライン問題への対応はどうだっただろうか。1953年9月の『日本社会新聞』によれば、まず「韓国政府の一方的態度は、侮日的といわんよりも、国際的常識において甚だしく欠くる行為」と捉えている。その上でこうした態度の根本的原因を「吉田内閣の『独立意識』の欠如」だとし、日本の「対米媚態外交」が韓国の「侮日的態度」を誘発しているとした。そして「国家、国民の利益が侵害される場合、これを排除する行為は独立国家として当然の自衛措置」であるとする。だが、「実力行動」による排除は「憲法の精神」に照らして取るべきでないため、「日米安保条約による米軍の出動を要請」すべきだとした[69]。このように右社は「国家、国民の利益」を脅かす韓国には強硬姿勢を取るべきだと考えていた。
初期日韓会談において日本政府を含めた日本社会は、日韓関係における最重要課題を李ライン問題だと捉えていた[70]。第3次会談に関しても、李ライン問題について討議することを目的に日本政府は臨んだ。両派社会党もその方向性は同様であった。
ところが、その第3次会談は、全権代表の久保田貫一郎が植民地支配の肯定的発言をしたことにより開始後数日で決裂した。発言をめぐる経緯は以下のとおりである。1953年10月15日、第3次会談の請求権委員会で、日本側の対韓請求権に反発した韓国側代表洪璡基が「日本側が三六年間の蓄積を返せというならば、韓国側としても三六年間の被害を償却せよというほかない」と発言した。これに対し、久保田代表は「日本としても朝鮮の鉄道や港を造ったり、農地を醸成したりしたし、大蔵省は、当時、多い年で二千万円も持ち出していた。これらを返せと主張して、韓国側の政治的請求権と相殺しようということになるではないか」と発言する[71]。これが発端となり久保田代表は植民地支配を肯定した主張を展開し、第3次会談は決裂する。そして久保田発言の撤回をめぐり4年半にわたって会談が中断したのである。これは、日韓両国の植民地支配に対する認識の相違が露呈した出来事であった。
第3次会談中断に対して日本政府は、10月21日、外務省情報局長談として以下の声明を発表している。
10月6日再開いらいの日韓会談は韓国の理不尽な態度により、本日継続不能におちいった。今回の会談は九月初め以来韓国側の国際法をまったく無視した海洋主権宣言に基くいわゆる李ラインの強硬処置にもかかわらず、日韓両国の友好関係維持の大局的見地より我が方より進んで会談の再開を申し入れ、誠意を持って局面の打開を図らんとした。…右にもかかわらず…わが方の説明を了解しようとせず、あまつさえその撤回とその非なることを認めしめんとし、これに応ぜざる場合は会談の続行を拒否する態度に出た。…平等な国家間の会議の議題において意見の対立のあることは当然であり、一方の代表の発言の意向を要求するが如きはその発言を封ずるに等しく、とうていわが方の応じ得ざるところであると述べ、…会談の進行を図るよう強調した。しかるに韓国側はあくまでわが方の発言の撤回を固執して会談継続を拒否した[72]。
こうした政府の対応に関して、朝日新聞は、「政府声明にある通り、韓国側の態度には『ささたる言辞をことさらに曲げ会談全般を一方的に破壊した』ものとみられる節があるのは誠に遺憾である。原則論とか体面とかにとらわれるの余り、日韓友好という最大眼目を逸することは、日韓両国の将来のために好ましいことではない」[73]という社説を掲載し、読売新聞は「各新聞の報道によれば…韓国側は財産問題と直接関係のないこれら三問題について、殊更に言いがかりをつけている。…この主張が何ら法的根拠のない感情論であることは、何人の目にも明白である」[74]という社説を掲載した。
以上のように、日本政府は久保田発言の内容には触れておらず、むしろ韓国側の強硬姿勢への批判的態度が強調された。また朝日新聞、読売新聞の両紙の論調は、ともに政府談話に同調する形で、韓国は国際法を無視した国家であり、そうした韓国の姿勢は李大統領の政策のあり方に由来するのだというものであった。そこでは、植民地支配の正当化発言についてはまったく問題視されなかった。
一方、左社の鈴木委員長は、会談決裂直後の1953年10月21日に以下のような談話を発表した。
責任は会談を成立させることを初めから希望していなかった李承晩政権にあるのだが、同時に吉田内閣の外交そのものに重大な欠陥がある。…李政権と同じ対米従属という枠内で会談をやるのではなく、南北統一の政権樹立の日に中ソとの漁業条約締結といった広いアジア外交の中で解決していく自主外交がなければ解決はできない[75]。
前段の会談決裂の責任が李大統領にあるとの認識は政府の主張と同様であるが、加えて政府の外交態度への批判もなされている。また後段には左社独自のアジア認識が見てとれる。このような見方は、左社の対応策として以下の「李ライン問題に対する態度」[76]において、より具体的にあらわれた。
一、財産請求権に対する合理的な態度の提示
二、大陸棚宣言の撤廃 (省略)
三、再軍備論の阻止
四、韓国漁業に対する協力と漁業協定
五、中、ソ両国その他との漁業協定 (省略)
六、平和的朝鮮統一とその中立化
一では、韓国側が日韓会談において李ライン問題と財産請求権とを抱き合わせにしていたことを受け、「日本政府は一刻も早く(筆者:両問題について)妥当なる具体案を示すべきだった」と指摘している。また三では、漁船の拿捕問題は日韓間のみの問題ではないにもかかわらず、「韓国のみをとりあげて攻撃することは、韓国にたいするかつての差別観の上に立って、日本の再軍備を推進し右翼勢力の進出をねらう意図が隠されているからである」と指摘した上で、社会党としては「これら近隣諸国との関係を友好適切な外交的処置によって解決すべき」だとの考えを示した。四では、具体的対抗策が提示されている。「日韓平等の立場において両国の空気を冷静化すること」を重視し、「韓国の沿岸の漁業の開発のために」、必要な資材や「専門家による協力等の具体的対策を提示」する必要性を主張した。六では韓国の現状を分析している。すなわち朝鮮戦争が休戦状態となった現在、李政権は「日本に対する敵愾心によって、世論をひっぱろうとする対内的理由のあることは十分推察がつく」というものだ。その上で、社会党としては「南北朝鮮の統一、国際保障による中立化の実現することを望んでやまない」とした。このようにして左社は、独自の朝鮮認識にたった具体的な李ライン問題への外交態度を検討していた。
また1953年10月の鈴木委員長談話では、「池田特使がアメリカで朝鮮の戦争特需の交渉をやりながら他面この会談を始めるという矛盾した外交政策」[77]のあり方自体も非難された。朝鮮特需が低迷した日本経済にとって景気回復の引き金となったことはよく知られているが、この点に関して鈴木委員長は53年6月の衆議院本会議における朝鮮再建に関する質問の中で、以下のようにその問題点を指摘した。
その際の重要な問題は、南北の民主的な統一と、統一後の安全保障の問題であろうと考えます。…総理によれば、朝鮮の復興に協力することだけがアジアの平和建設であるかのようにお考えでございますが、とんでもない間違いであります。日本はいつでも、朝鮮の戦争だとか、破壊されたあとの復興だとか、朝鮮の人たちの不幸のおかげで日本がもうけようとしているという印象を、この際朝鮮の人たちに与えてはならないと存じます。政府は、こうした誤解を起すことのないように、また南と北に対しても公正な立場で朝鮮の復興に協力しなければならないと思います[78]。
両社がアジアを日本の経済的自立にとって重要な存在としてみていた中で、左社において上記の鈴木委員長発言に見られるように、朝鮮特需でわく日本という印象を朝鮮の人たちへ与えることの危惧と配慮があったことは注目されるべきだろう。ただ、これがただちに、植民地支配への責任意識といったところまでは至らなかったことも確認しておくべきである。
一方の右社は久保田発言を受けてどのような態度をみせたのだろうか。1953年10月の『日本社会新聞』によれば、「頑固な」李承晩が事態をエスカレートさせたことを批判しつつ、漁業問題の解決をしそこねた政府の失敗を追及している。「韓国人の嫌う『総督政治時代の善政』を云々しわざわざ怒らせしかもこれを取り消さぬところに外務省側にも底意がありそうだ」といいながら、「なるほど久保田言明はわれわれ日本人にとって『常識的』と思われても『戦勝国』気取りの韓国人には『また俺達をなめている。怪しからん』ととられ易いのだ」とした[79]。
以上、初期日韓会談への左右両社会党の態度について李ライン問題と久保田発言を通じて検討してきたが、李ライン問題に直面して以降、両社は日韓会談に積極的かつ具体的に関与していったことがわかった。それは李ライン問題が漁民の生活に直接かかわる問題、国民感情に触れる問題であったことと関係していた。労働者階級の支持に大きく依存する社会党は当然これを傍観できなかったのである。拿捕数が多くなると、これが最大の理由となり、両社は日韓会談再開を日本政府へ呼び掛けた。すなわち第2次会談開始以前より、日韓友好は別としても李ライン問題解決要請のため、会談の必要性を認めていたことは両社共通であった。このことは、統一朝鮮の樹立を望むことと必ずしも矛盾していなかった[80]。前述のように、1953年の外交方針において、右社が朝鮮半島の「平和的統一」を願いつつも日韓の国交回復を呼び掛けていたことも同様の文脈だといえるだろう。
だが、両社には韓国への態度に異なる点もみられた。すなわち、左社が、「係争ないし武力によ」る韓国の態度を否定しつつも、「強大国」に対するアジア小国の抵抗という共通の立場から日韓両国の友好を呼び掛けたのに対し、右社は国益擁護の観点から韓国に対して強硬姿勢を示したのである。左社の韓国への態度の背景には、冷戦に加担しない中立主義と「第三勢力」論、大国に対するアジア小国の抵抗という視点があった。右社については、冷戦状況においては西側陣営との連帯こそが日本の外交基本政策だとしていたとはいえ、国益への脅威たる態度の韓国にはその基本政策は自動的に適応しなかった。
また、久保田発言の内容すなわち植民地支配肯定の発言については、両社とも明確な非難はなされなかった。あるのは相手が気にすることをあえていうことはない、といった戦略的指摘であった。右社にいたっては、久保田発言自体は日本の常識だという理解であった。
第2章 日韓会談中断期―日本と朝鮮半島との関係における諸問題
第1節 北朝鮮の対日外交政策転換と「在日朝鮮人運動」の路線転換
北朝鮮の南日外相は、1955年2月25日、日本政府と日本国民に対し国交正常化と経済交流を呼び掛けた。日本の再軍国主義化を脅威としていた北朝鮮は、それまで反日・反米の姿勢をとっていた。西側陣営に与することを表明したサンフランシスコ講和条約についても、日本の軍国主義化を醸成し朝鮮半島への再侵略へとつながるものと厳しく評価していた。そのような意味で、南日声明は対日政策の大きな転換を意味していた。以下、その内容の一部である。
朝鮮民主主義人民共和国人民は、半被占領国の境遇におかれている日本人民に対し深甚な同情を表す…日本の軍国主義を復活させることによって、日本をアジア侵略の策源地につくりかえ、日本人民をあらたに軍事的冒険に利用しようとする米国政府の戦争政策に反対している。しかし、このような侵略的行動と戦争政策に反対し、アジアの強固な平和と諸国人民間の親善関係の維持を念願する朝鮮人民と日本人民は、つねに友好的関係を持っていた。
朝鮮民主主義人民共和国は、相違なる社会制度をもつすべての国家が平和的に共存できるという原則から出発して、わが国と友好関係をもとうとするいっさいの国家と正常な関係を樹立する用意をもっていたし、まず相互利益に合致する貿易関係と文化的連携を設定することを希望してきた[81]。
前段で、日本の軍国主義化があるとすればそれはアメリカ政府の政策によるものだとしていることから、従来の反日・反米姿勢が反米のみに変化したことがわかる。後段は、平和共存という国際情勢のもとで「相違なる社会制度」であっても「わが国と友好関係をもとうとするいっさいの国家と正常な関係」が樹立可能だという考え方が示されており、これは当時の鳩山政権の国際情勢認識と相似していた。
1954年に成立した鳩山政権は、ソ連や中国といった社会主義諸国との国交正常化政策を打ち出していた。吉田政権による西側陣営との結束重視の方針からすると大きな転換であった。翌55年の年頭記者会見で鳩山首相は、スターリンの死後、米ソ間に平和共存の雰囲気が醸成されつつあった当時の国際情勢を踏まえて、中国、ソ連との国交正常化のための会談とともに北朝鮮との経済関係改善の用意があることを表明した[82]。
北朝鮮が対日政策を転換した背景には中ソの動きがあった。ソ連の外交政策において平和共存の原則が打ち出されたのは、53年3月のスターリン死後にマレンコフを中心とした新しい指導部が形成されてからであった。同年7月の朝鮮休戦協定成立後、ソ連の新指導部は、世界的な緊張緩和のための政府措置を発表するなど平和攻勢に乗り出し始めた。特に、南日声明があった55年ごろには、この平和共存の論理が一時的であるが西側にも拡大していた[83]。北朝鮮の対外政策はこうした国際情勢に積極的に呼応したものであった。
だが55年前後の冷戦秩序には別の側面もあった。ソ連の平和共存の原則は、第三世界ではほかの文脈で受け入れられていたのである。アジア地域でこれを主導したのは中国であった。そして平和共存の原則を掲げて、アジアの新生独立国家の中で中国のプレゼンスを認知させる重要な契機となったのが、54年に開かれたジュネーブ会議であった[84]。中国の周恩来総理はインドのネルー首相と会談し、「平和五原則」[85]に合意した。この「平和五原則」はアジアにおける反帝国主義に基づいた一種の中立主義であって、東西両陣営間の和解を訴えたソ連の平和共存論理とは微妙な差があった[86]。ソ連はアメリカとの関係改善も視野に入れていたが、中国はアメリカを帝国主義と捉え関係改善には否定的だったのである[87]。
こうした中国の主張は、北朝鮮を含めたアジア諸国に支持された。南日声明における「すべての国家が平和的に共存できるという原則」の論拠は、「平和五原則」にあったのである[88]。そして、それに基づく対外政策として、「対南平和統一政策、対日国交正常化、第三世界との外交拡大」など、三つの課題が挙げられた[89]。こうしてみてくると、当時の国際社会における平和共存ムードの中で、日韓とは別に日朝の交流の可能性があったことが確認できる。
北朝鮮の呼び掛けに対し、日本外務省は、南日声明の発表のあった55年2月25日に「これを取り上げることを考慮していない」という否定的な意向表明をしている[90]。一方で、鳩山首相は3月26日に北朝鮮提案の受け入れを示唆した[91]。だが、この日本政府の態度は韓国政府により「二重外交」だと厳しく非難される。すると日本政府は再び北朝鮮への態度を硬化させた。
6月22日の参議院本会議で社会党の安倍キミ子議員の質問に対して、鳩山首相は、南日声明には「わが国の立場と相いれない呼びかけの言葉があ」るとした上で、「北鮮ママとの経済、文化の交流を行うことにつきましては、韓国との関係を阻害して悪影響を及ぼす限りは」[92]交流するわけにはいかないと答弁した。韓国への配慮が重視されたのである。こうして日本政府は、日韓関係を基軸とした上で国際情勢の変化や南北朝鮮の緊張緩和を背景に日朝関係も進展させるという朝鮮半島政策の基調を形成していくことになる[93]。
以上のように日本政府の北朝鮮に対する態度は二転三転し、結果として北朝鮮のよびかけを受け入れなかった。これを受けて北朝鮮は民間外交へ基軸をシフトしていくが、日本政府への態度は基本的に変更することはなかった。他方で、日朝民間外交の日本側窓口は社会党、日本共産党、日朝協会(日朝友好団体)が担っていくことになる。このように日韓会談中断期は民間外交という形で日朝関係が進展していく時期でもあった。
北朝鮮の対外政策の課題「対南平和統一政策、対日国交正常化、第三世界との外交交流拡大」の三つのうち、「対南平和統一政策」と「対日国交正常化」は在日朝鮮人社会を媒介にして密接に関係した。北朝鮮は朝鮮半島南半部との交流回路が途絶えていた中で在日朝鮮人社会に注目していた。
1955年8月末、解放10周年の祝賀で総連代表団が訪朝した際、金日成は「在日朝鮮人の生活改善に力を貸す、とくに民族教育を支援する」と発言した。金日成のこの積極発言の陰にある戦略について、同年10月1日にイワノフ・ソ連大使と会談した際の南日外相の発言[94]から、テッサ・モーリス=スズキは以下のように分析している。すなわち、北朝鮮が朝鮮半島南半部とのコミュニケーション回路が見つけられないことを嘆きつつも、日本との関係改善がこの問題のひとつの解決策となるとの考えから、在日朝鮮人社会を通じた朝鮮統一を検討していたというのである[95]。
植民地支配解放後の在日朝鮮人社会では、在日朝鮮人団体が自然発生的に出現した。それらのうちいくつかは統合され、1945年10月には全国組織の在日本朝鮮人連盟(以下、朝連)が結成された。他方で、在日朝鮮人は、日本共産党の戦後の再建においても大きな役割を担っていた。在日朝鮮人からみたとき、日本共産党が日本の朝鮮支配に反対し朝鮮人の独立に同調してくれた唯一の政党だったことが、その背景にあった。こうした経緯により、朝連の活動は日本共産党の指導の下で進められていく[96]。その指導方針は、民族問題よりも階級問題を重視するものであったが、こうした日本共産党による「在日朝鮮人運動」の指導は、1954年8月の南日声明を通じて北朝鮮に直接批判され、翌55年1月、日本共産党は「在日朝鮮人運動」から手をひくことになる。
これにより、GHQと日本政府により解散を命じられた朝連[97]の後継団体であった在日朝鮮民主統一戦線(民戦)は発展的に解消され、1955年に在日朝鮮人総連合会(以下、総連)が結成された。総連は、日本の革命運動には参与せず日本の内政問題に関わらない立場を鮮明にした。同時に、「祖国」北朝鮮を背景とする独自的民族的運動路線を確立し、北朝鮮の対日政策を日本において実践する役割を担うこととなった[98]。
前述の南日のイワノフへの発言は、北朝鮮が在日朝鮮人社会へ直接関与することになった理由として一定の説得力を持つ。当然それだけではなく、対社会主義陣営外交からの脱皮という北朝鮮の外交方針転換や北朝鮮の国内的要因も関係していただろう[99]。いずれにしても、北朝鮮の対日外交政策転換と「在日朝鮮人運動」の路線転換とが密接に関連して行われる中で、その両者に社会党と日本共産党は関与した。社会党は従来、北朝鮮との交流はなかったが、北朝鮮の呼びかけに積極的な反応を見せていくことになる。日本共産党は、在日朝鮮人社会への関わり方は変化したものの北朝鮮の朝鮮労働党との友党関係は変わらず、その関係を基軸に在日朝鮮人社会との関係を構築していった。
第2節 統一社会党の対朝鮮半島政策―北朝鮮への接近と日韓会談への態度変化
社会党は、分裂という本来不都合な状況においても、国内外情勢の展開を追い風に着々と勢力を伸ばし、1955年の選挙において両派合わせて総議席の三分の一という水準に達した[100]。党全体としての飛躍は社会党の政権獲得への意欲を強め、同年の統一の重要な動機ともなった。だが、左右両社会党はそのイデオロギーと政策において本質的に異なっており、両社それぞれが出した統一後の党の綱領原案にどう折り合いをつけるかが課題であった[101]。
当時、両社にはそれぞれ大きく二つずつの勢力が存在していた。左社は、米・中ソからの等距離中立路線をとっていたが、高野実総評事務局長は1953年7月の総評第4大会でソ連・中国を平和勢力と位置付ける「平和勢力論」を打ち出す中で、これに左社内の松本派が同調した。一方、鈴木茂三郎委員長や和田博雄書記長ら左社執行部は総評の太田派と提携して、等距離中立路線の堅持を目指し、両者は左社内において激しく対立していた。他方、右社は、外交路線では地域的安全保障を認めながら、日米安保条約の不平等性を指摘して、その積極的肯定を避け、防衛では自衛権や自衛力をもつことは認めながらも、再軍備には反対し、間接侵略を防ぐための治安力を保持するという方針をとっていた(筆者:河上派)。だがこれに対して西尾派は、1953年1月の党大会と同年10月の「曾禰私案」、そして翌54年1月の党大会において日米安保条約・再軍備・憲法改正に肯定的な立場から圧力をかけていた。そして、このように左社における中ソ寄りの松本派、右社におけるアメリカ寄りの西尾派の間で、鈴木派と河上派は等距離中立路線で接近していった[102]。
こうして統一社会党は、外交政策において等距離中立路線をとり、対朝鮮半島についても南北等距離外交が目指されることになった。このことは北朝鮮からの対日国交正常化の呼びかけに積極的な態度を示し、統一直後の1955年10月に社会党議員がその大勢を占める「日本国会議員団」の2度の訪朝へとつながっていった[103]。だがこの訪朝の動きには前段階として日朝協会による訪朝が関係していたことを説明しておかなければならない。日朝協会とは1951年に結成された日朝友好団体である。
南日声明発表以前から、日朝協会は北朝鮮の舞踊家を日本に招請するため、1955年4月にインドのニューデリーで開催予定のアジア諸国会議において北朝鮮側との協議を予定していた。その準備のため滞在していたニューデリーで声明発表の連絡を受けた畑中政春理事長は、北朝鮮側による平壌訪問提案を受けて、急きょ訪朝団(以下、畑中訪朝団)を結成することになる。この時、副団長を担ったのは社会党参議院議員の安部キミ子であった。
畑中訪朝団の基本趣旨は当時問題となっていた北朝鮮残留日本人の現況調査となった。この問題はもともと日赤が北朝鮮へ照会していたのだが北朝鮮側は訪朝団へ応答したのである。そしてこの訪朝を契機に国会議員団の訪朝が実現することになった。
このように北朝鮮との交流に積極的な社会党であったが、一方で韓国との関係改善も目指され国会議員団訪韓が検討されていたように、1955年の時点では南北等距離方針が明確に打ち出されていた[104]。
とはいえ、その中でなぜそれまで交流のなかった北朝鮮との交流に積極的であったかについては確認しておくべきだろう。辛貞和は以下の3点を理由に挙げている。第一に南北朝鮮との交流拡大、第二に政府の外交への対抗である。とくに当時の鳩山政権は本来社会党が得意とするはずのソ連との国交正常化に積極的に取組んでおり、それに対抗するべく訪朝という野党外交を国民にアピールしたのではないかという指摘である。第三に日本共産党に代わって北朝鮮外交を専任したいという思惑の指摘である[105]。北朝鮮と友党関係にあった日本共産党は1950年に「軍事方針」を断行して以降、1955年当時も党内は安定しておらず、国内の政治的影響力はほぼ壊滅的な状態にあった。
第1次国会議員訪朝団は、社会党の衆議院議員である古屋貞雄を団長に1955年10月18日から20日まで、また第2次訪朝団は同じく社会党衆院議員の帆足計が団長を務め[106]、同月26日から29日まで派遣された。あくまで国会議員団ではあったが、その大勢は社会党議員であった。
この訪朝で社会党議員は、解放後の朝鮮半島に出現した分断国家のひとつである北朝鮮の現状を初めて目にした。以下は、『社会新報』に掲載された訪朝団メンバーの一人である佐々木良作議員による北朝鮮訪問記である。
…平壌飛行場に着陸したとき私共の胸を打つたのは二つの驚きであつた。夢想だにしなかつた余りにも大げさな歓迎と日本でも忘れかけていた余りにも生々しい戦禍の跡である。 …この廃跡に今や完全に新しい都市建設が開始されていて五分通り進んでいる。この道路やビルのいかにも近代的な雄々しい建設に、私共の第三の驚きがあつた。…私の胸を一番強く打つたのは私たちの歓迎の宴で百南雲(白南雲のことか)という教育大臣が述べた祝詞の一説であつた。「私どもがあなた方を迎えた感情は誠に複雑だ。数十年間の日本の支配は私どもにとつて、思えばいきどおりの源泉だ。けれども私どもは今あなた方を迎えて懐かしさで胸がつまりそうなのだ。私を含む朝鮮の全人民は日本人がそうであるように、この広い世界の中で日本の国にのみ、比較にならぬ多くの血縁者と友人を持つている。今夜はこの懐かしさのとりこになつて、凡ての理屈を忘れて再会を喜びあいましよう・・・」私どもより流暢な日本語でこんな意味のことを述べた[107]。
当時の日本には北朝鮮の事情がほとんど伝わっていなかった。その中で、佐々木が目の当たりにしたのは、朝鮮戦争の戦禍の跡も生々しい状況で、力強く「新しい都市建設」に邁進している様子であった。また「理屈を忘れて再会を喜び」あおうという言葉に、佐々木は強く胸をうたれたという。北朝鮮の度量の大きさを感じたのだろう。訪朝を機に、社会党議員が北朝鮮へ好印象を持ったのは確かである。
一方、韓国に対する取り組みとしては、統一後の党内に初の朝鮮半島問題専門機関として「対韓国問題対策特別委員会」が設置されたことが挙げられる。同委員会の目的は、1955年12月11日に中執委が正式発表した「韓国および李ライン問題の具体的対策[108]」であったことからもわかるように、日韓間に生じた李ライン問題という緊急課題解決であった。
前述したように党内では韓国への議員団派遣も提案されており、あくまでも朝鮮半島の外交方針は南北等距離が目指されていた。だが、北朝鮮と韓国とではその目的が異なっていた。すなわち北朝鮮とは交流拡大が目指される一方、韓国とは李ライン問題という緊急課題解決が目指されたのであった。
さらに1956年12月1日、「対韓国問題対策特別委員会」の原案に沿って「韓国および李ライン問題の具体的対策」が中執委により採択される。これは同委員会が11月以来、李ライン問題と抑留邦人漁夫釈放問題についての対策を検討していたものであった。日韓会談決裂後、834名の抑留者の年内帰還と諸懸案解決の為に、会談再開を要請する声が熾烈だという現状を受けて、問題点の確認と対策を具体的に掲げられた[109]。問題の焦点は、①久保田発言で決裂した日韓会談の再開の糸口をいかにみつけるか、②抑留者の相互釈放は本格会談と別に進められるかということであった。
その上でこの問題の基本対策並びに緊急対策が決定された。基本対策は、日韓請求権の相殺放棄、戦争による韓国軍人、軍属等の被害者への慰謝料支給、韓国への船舶の無償提供、久保田発言に対する遺憾の意の表明などが掲げられ、緊急対策では、抑留者相互釈放により834名の漁業者の年内帰還と留守家族への手当等が提示された。採択後の1956年12月4日には、「対韓国問題対策特別委員会」の委員長と小委員長2名が、駐日韓国代表部を訪れて金溶植公使と会談している[110]。
上記内容は日本人漁船員の早急な帰還を目的とした日韓会談早期実現への具体的かつ現実的提案だといえよう。請求権のところで、「韓国軍人、軍属等の被害者」に対し慰謝料支給をすべきとしており、それは植民地支配に対する責任意識の具体的現れととれるものの、久保田発言の内容すなわち植民地支配肯定発言に関しては「韓国の民族感情を刺激した点に鑑み遺憾の意を現す」という表現でとどまっていたことを重ね合わせると、この時点では、社会党のなかで植民地支配への責任意識が自覚的だったとはいえないだろう。
翌1957年1月の第13回党大会では、「対韓国問題対策特別委員会」が「日韓対策特別委員会」として再発足することが決定された。同機関の主な活動内容は「抑留漁船船長およびその留守家族の援護並びに安全操業問題」であった[111]。当時、李ライン問題は日韓における喫緊の外交課題であり抑留日本漁船員と日本国内の大村収容所に抑留されている在日朝鮮人との相互釈放交渉という形で進行していた。社会党にとっても日本漁船員の問題が対韓国問題の優先課題とされていたのである。
他方、同大会では「日朝関係正常化促進に関する決議」[112]が満場一致で採択されている。これは「南北両朝鮮との経済、文化交流の促進と正常化のために努力し、朝鮮の平和的統一に寄与しつつ、個々の諸懸案の解決をはかり、日朝国交正常化の国民的運動の発展に努力することを決議する」とあるように、文面を単純に解釈すれば、韓国、北朝鮮双方との国交正常化を目指したものであった。だがペテル・デュラナの指摘によれば、提案者の顔ぶれやその後の親北朝鮮系による報道にみられた満足感からして、この文書には北朝鮮との国交正常化に注目を寄せたい意図がうかがえるという[113]。実際この決議案の提案理由を説明したのは山口県連の参議院議員安部キミ子であった。安部は日朝協会幹部でもあり、畑中訪朝団にも参加していた。社会党では、1957年前後より訪朝議員が増大したが、その多くは日朝協会に所属する議員であり次第に北朝鮮との関係性を深めている状況があった。つまり日朝協会所属社会党議員の主導による決議採択だったのである。
この決議により、社会党は党政策の一部に日朝関係正常化を取り上げたことになる。すなわち韓国とともに北朝鮮が関係正常化の対象であることを明言した。だが、日韓会談に対する立場に関しては、当時、日朝協会が日韓会談反対の立場を明示した[114]のとは異なり、社会党は同決議においてその点を明らかにはしなかった。
ところで上述の「日韓対策特別委員会」まで、社会党は対韓国問題を扱うという形をとっていた。だが1958年2月の第14回党大会では、その名称が日朝協会所属の党員による働きかけにより、「朝鮮問題特別委員会」に変更されている。
1957年2月27日、社会党の安部キミ子と古屋貞雄他、訪朝経験者の高津正道、吉田法晴、松本七郎、穂積七郎、田中稔男らと総連の韓徳銖議長ほか主要幹部との間に懇談の席が設けられたが、この時に、「日朝対策委員会(仮)」の党内設置について社会党議員が言及している。この席で、総連が在日朝鮮人問題の根本解決のためには、社会党が北朝鮮との関係正常化の意思を明確にするべきとの意見表明をしたのに対し、社会党側が「日朝対策委員会(仮)」と党国際局内に在日朝鮮人問題の小委員会を設置し問題解決に努力すると応答したのである[115]。これは、社会党の対朝鮮半島政策のあり方の軌道修正を意味した発言であったといえるだろう。
とはいえこの時点では、党内には「日韓対策特別委員会」が存在していた。そして同委員会では、総連との懇談会の前日の1957年2月26日に、「相互釈放の後、日韓会談へ進もうという政府の線を了とし、日韓会談については相互釈放の実現まで一応事態を見守る」という基本方針が定められたという状況であった。さらに、その後の同委員会では、釜山に抑留された日本人漁船員の釈放やその留守家族に対する援助措置をとることを主たる活動として、政府に対しても日韓会談再開を数回にわたり申し入れている[116]。このように、社会党の対朝鮮半島政策においては、日本人漁船員釈放のために日韓会談の再開を要求する一方で、対北朝鮮政策については具体性を欠いた状況であった。すなわち、総連の求める状況、さらにそれに対して総連との懇談の場で社会党議員の示した内容とはほど遠かった。
だが、その後も社会党は、同年5月17日の日朝協会との懇談会で「できるだけ早く正式機関で朝鮮に対する党の方針を立てる」との発言をする。この懇談会には「日韓対策特別委員会」を代表して森島守人が参加し、同委員会の設立趣旨を「南北朝鮮との国交問題とは離れ、抑留者の相互釈放問題などの懸案を解決する方針の下に発足した」と説明した。さらに、「南北朝鮮とわが国はどのように対処するかの基本方針はまだ党としてはっきり打ち出されていない。(中略)党は南北朝鮮が自由選挙のもとで一つの朝鮮になることを望んでいる」ことを重ねて主張した[117]。すなわち社会党は日韓会談を後押ししているわけではなく、南北朝鮮の統一を願っているが、北朝鮮に対する態度を含めた南北朝鮮への党の基本方針は未だ確定していないことを釈明したのである。
だが、他方で社会党は、鈴木茂三郎委員長が金日成へ親書を送るといった一歩踏み込んだ北朝鮮への態度もみせていた。日朝協会の常任理事として訪朝中であった社会党の石野久男[118]が1957年7月24日に持参した同親書には「貴国とわが国の友好関係が両国人民によって速やかに達成され、また貴国の平和的統一が達成されることを望みます。あわせて閣下のご健康をお祈り申し上げます」[119] とあった。左右分裂時代から左派のリーダーであった鈴木は、統一の際には右派の河上派と協力し穏健路線を追求したが、当時の党内が左派優勢だったことは、次第に左派よりの朝鮮半島政策への傾斜を可能にした。こうした背景が鈴木の上記行動を後押ししたと考えられる。
親書手交後、社会党内での北朝鮮に向けた動きは活発になり、ついに1958年2月の第14回党大会において「朝鮮問題特別委員会」の設置が決定する。総連との懇談で設置を言及していた委員会がついに設置されたのである。同委員会は「日韓対策特別委員会」からの留任者と新規メンバーにより構成されたが、その多くが日朝協会所属、訪朝経験者であったことは注目すべきである[120]。「朝鮮問題特別委員会」が多数の日朝協会所属議員により構成されていたことは、その後の社会党の対朝鮮半島政策が日朝協会との連携の下で進められていくこと、すなわち北朝鮮へと次第に接近していくことにつながるからである[121]。
他方でこの再編の背景には、日韓間の抑留者相互釈放交渉が1957年12月に妥結したことから、「日韓対策特別委員会」の目的が果たされ、党として日韓交渉に取り組む大きな理由が解消していたことも関係していた[122]。
いずれにせよ、第14回党大会で打ち出された「当面する外交政策」では、朝鮮半島について「分断された二つの地域のいずれとも経済、文化の交流をはかって、それぞれの友好関係を樹立し…南朝鮮との間に問題となっている抑留漁船、船員の早期送還を含む交渉の速やかな解決のまえに努力する」ことが規定された。ここで重要なことは、従来どおり南北等距離の方針は保持されてはいるものの、初めて韓国を南朝鮮と呼称したことである。これは日韓国交正常化に配慮がなされなかったことを意味した。社会党の対朝鮮半島政策は新しい局面を迎えていた。
第3節 日韓抑留者相互釈放交渉
1953年10月15日、第3次会談の請求権委員会での久保田発言は日韓会談を決裂させ、日本側にとって喫緊の課題であった李ライン問題の交渉はストップした。韓国側は決裂直後より、日本政府に対し日韓会談再開の条件として久保田発言の撤回を要求した。これに対し日本側も早い時期から久保田発言の撤回を考慮していた。翌54年5月12日の外国人記者会見で岡崎外相は「日韓会談の打開については今のところ具体的な動きはないが、もしその打開のために役立つならば日本政府はいわゆる久保田発言を撤回する考えがある」と明言した[123]。
一方で、抑留された日本人漁船員の釈放・帰還問題と留守家族の生活問題が、1955年頃からクローズアップされるようになっていた。この背景には、拿捕数の増加(図2参照)と留守家族をはじめとした漁業関係者による陳情があった。
|
区分 |
拿捕 |
帰還 |
未帰還 |
|||
|
年 |
隻 |
人 |
隻 |
人 |
隻 |
人 |
|
1953 |
47 |
585 |
4 |
549 |
59 |
67 |
|
1954 |
34 |
454 |
6 |
289 |
87 |
231 |
|
1955 |
30 |
498 |
1 |
39 |
116 |
688 |
|
1956 |
19 |
235 |
2 |
23 |
132 |
900 |
|
1957 |
12 |
212 |
3 |
70 |
141 |
951 |
図2 韓国政府による日本人漁船員の拿捕数推移(海上保安庁調べ)[124]
留守家族の生活は極めて悲惨なものだと伝えられた[125]。政府は55年12月16日の閣議で留守家族への見舞金交付を決定した[126]ほか、抑留者への差入れなどの措置はとっていた。
だが漁業関係者が政府に要求していたのは、拿捕された際の船体の損害並びに抑留者家族の生活保護といった国家的補償であり、これは実現されていなかった[127]。こうした中で、社会党は、日本人漁船員の早期釈放のための具体的対策と、留守家族に対する緊急対策として保険金、現金支給などの手立てを掲げた。また、同時に、釜山収容所の環境が劣悪な状態であることが、抑留されていた日本人漁船員の帰国時の取材で明らかにされ[128]、こうした収容所の非人道的待遇などが日本社会で問題となった[129]。
日本外務省は韓国駐日公使の金溶植に抑留日本人漁船員の釈放を申し入れ、漁船員の取り扱いについて非難する覚書を手交していた。それに対して韓国は、抑留者に不当な取り扱いをしているのはむしろ日本であって大村収容所に数百人の「在日韓国人[130]」を抑留していると反論した。55年9月3日には、帰国中の駐日韓国代表部柳泰夏参事官が、「もし日本が大村収容所に抑留している韓国人1300名を釈放するなら、韓国政府は釜山に抑留している日本人漁夫200名を送還する用意がある。」と言明している。さらに不法入国の1000名は引き取り、戦前から合法的に入国居住している300名は刑期も満了しているし、釈放して日本で生活を続けるべきだと述べた[131]。
こうして、日韓会談中断期には韓国に抑留された日本人漁船員と大村収容所に抑留された「在日韓国人」をめぐる抑留者相互釈放交渉が日韓両政府間で繰り広げられることになる。日本政府はその後、人道上の観点から相互釈放に関して検討の上、1956年4月頃から主に韓国駐日代表部と交渉を開始する[132]。1957年12月31日には、「日本国において収容されている韓国人および韓国において収容されている日本人漁船員に対する措置に関する日本国政府と大韓民国政府との間の覚書」が調印された。
大村収容所問題の軋轢はサンフランシスコ講和条約発効直後から始まっていた。日本から韓国への在日朝鮮人の集団送還は、1950年12月から1952年4月の講和条約発効までに7回実施されたが、その内訳は「不法入国者」およびその他の退去強制者の3600名であった。
だが、講和条約発効後、韓国政府は日韓会談で国籍問題が解決するまでは「不法入国者」以外の者すなわち戦前からの日本居住者を受け取ることができないとした。そのため、日本は受け取りを拒否された送還者125名を大村収容所に再収容し、韓国に対して受け取り要請を続けていた。韓国政府および韓国駐日代表部は、1954年7月、戦前からの日本居住者の法的地位未確定を根拠に刑罰法令違反による長期収容者の即時釈放を日本政府へ要求した。以降も、韓国政府は、即時釈放と収容所の処遇について日本政府へ抗議し続け、ついに「不法入国者」の受け取りまで拒否した[133]。
大村収容所に収容されていたのは、日本が退去強制者と特定した者と「不法入国者」であったが日本ではこの両者をいずれも退去強制者としていた。講和条約発効以前の退去強制者は以下の在日朝鮮人が対象であり、講和条約発効後も日本はこれを変更するつもりはなかったのである。すなわち①「不法入国者」、②GHQの軍事裁判で有罪判決を受けた者、③外国人登録令に違反した者(「外国人」とみなされた在日朝鮮人には一般的登録義務が課されたがそれに違反した者)、④出入国管理令の退去強制事由にあった者[134]がその対象者であった[135]。
ここで問題の中心となっている「不法入国者」の背景を確認しておきたい。日本の敗戦直後、植民地統治から解放された朝鮮人は、朝鮮半島に帰るため各港に殺到した。1945年11月に出されたSCAPIN-224「非日本人の日本よりの引揚に関する覚書」が朝鮮人をはじめとした「非日本人」を出身地域へ送り返すことに力点を置いたように、占領初期の入国管理政策は帰国事業として展開されたてい。だが、旧植民地出身者の日本への入国、再入国が目立つようになると、GHQと日本政府は彼らの渡航を「不法入国」として規制するようになっていった[136]。
それまで帰国事業として展開していた入管政策をGHQが転換した理由は二つあった。一つは帰国事業が計画通りに進展しなかったことである[137]。理由の二つ目は、朝鮮半島で蔓延したコレラの日本への侵入予防対策であった。1946年6月には、通称コレラ指令と呼ばれたSCAPIN-1015「日本への不法入国の抑止に関する総司令部覚書」により不法入国者への取締は強化された。日本政府はこの覚書を利用して国内の治安維持に積極的姿勢をみせていった。GHQの入管政策転換以前より、日本政府には、日本社会における治安悪化と朝鮮半島からの人の流入を関連づける見方があったのである[138]。
以上のように、1946年5月より取締対象の「不法入国者」は韓国へ送還されていたが、韓国が「不法入国者」以外の受け取り拒否を表明して以降、日韓両国の応酬が続いていたというのが一連の経緯である。
日本側は法務省入国管理局によって、強制退去の対象者の収容所への収容、強制退去対象者の受け取りは国際慣行に基づくものであるから、韓国政府による強制退去者の受け取り拒否は国際慣行に反するものであるとした。よって大村収容所における長期収容者の存在はもっぱら韓国政府の受け取り拒否によるものだとされた[139]。一方の韓国側は、在日朝鮮人が強制退去対象であること自体を批判対象とした。すなわち在日朝鮮人の日本への在留経緯を考慮するべきところ、一般の外国人と同様に在日朝鮮人を強制退去対象者とすることを問題視したのである[140]。
上記の日韓両国間の応酬では、大村収容所の在日朝鮮人がおかれた厳しい状況に触れられることはなかった。大村収容所の在日朝鮮人は、抑留者相互釈放交渉の中で翻弄されつつも様々な行動に出ていた。1952年7月の『社会タイムス』では、「出入国管理法違反で長崎県大村収容所に収容されている朝鮮人たちから最近送還の執行処分取り消しを要求する行政訴訟が、つぎつぎと東京地裁に持ち込まれている」ことが報じられた[141]。同年10月の『社会タイムス』には外国人登録法への登録切り替えについての記事がある。登録切替について政府と折衝していた朝鮮人代表の金宗衡が左社成田知巳、帆足計両議員とともに出入国管理庁長官鈴木一氏を訪ね、以下のような申し入れをしたという。
われわれは決して拒否のための拒否をしているのではない。かつて協和会の手帖や占領下の登録証明書は強制送還や徴兵名簿作成などに使われた苦い経験を持っている。…長い間、基本的人権をふみにじられ生活権、居住権すらも否認されていた。今回の措置がそうした過去を再来させる道具として悪用される心配があるので慎重を期しているのだ[142]
これに対して鈴木長官は、登録の行き過ぎを改善すること、生活権、居住権の問題については今後十分な対策をたててゆくこと、登録については期限までに完了するよう希望すること、などの回答をした。どのような経緯で在日朝鮮人が成田や帆足とともに折衝をしたかという点に関しては確認できなかったが、少なくとも記事にあるように出入国管理庁への申し入れの際に左社議員を頼ったことと、同時に7月の『社会タイムス』の記事にもあるとおり、左社がこうした問題に積極的であったことがわかる。
他方、大村収容所では様々なトラブルが起きていた。朝鮮本土における南北抗争は、在日朝鮮人社会にも反映して左右のきびしい対立が生じており、その対立は大村収容所にももちこまれていた[143]。こうした事態を受けて、日朝協会が中心となり社会党、日本共産党、総連により「大村収容所問題懇談会」[144]が開かれた。懇談会では大村収容所の現状把握の必要性が議論され、調査団派遣が決定された。
「大村収容所問題懇談会」以降、こうした連携は強まっていき、後に北朝鮮によって日韓会談反対のための連帯闘争という性格付けがなされるようになっていく。その中で北朝鮮、総連と社会党や日本共産党といった日本の革新系団体との媒介役を担ったのは、日朝友好団体の日朝協会であった。
日朝協会は1952年の結成以来初の全国大会を1955年11月1日に開催し、組織の方向性を明確にした。この大会では、「在日朝鮮人の力で育てられたというこれまでの傾向から一歩をすすめて、日本人の意志と力で巾ひろい親善団体として日本と朝鮮の関係をうちたてよう」[145]という組織のあり方についての議論がおこった。各地の日朝協会では、在日朝鮮人が主要幹部なども務めていたことから、上記のように組織の性格を変更することには「在日朝鮮人を差別するもの」だとする意見も出ていた。こうした組織の性格変更の背景には、おそらく時期的なことからして1955年になされた北朝鮮の「在日朝鮮人運動」に対する方針転換が関係しているだろう。とはいえ一般会員の中で上記のような議論をよんだことは間違いない。いずれにしても日朝協会はこの時を境に「日本人の意志と力」による日朝友好団体となった。
また指導部も大きく変更された。それまでは仏教関係者が役職を担う仏教色の強い団体であったがそのイメージが払しょくされた。協会を実際にリードしてきた畑中政春が常任理事長に、副理事長には宮腰喜助、指川謙三がつき、安部キミ子(副会長・財政部長)、高津正道(副会長)、松木治一郎(副会長)、石野久男(組織部長)など社会党議員らが多数指導部に入り、元左社書記長の野溝勝も顧問職に就いた。旧事務局長であった日本共産党の松井勝重は広報部長についた[146]。このように人事面で社会党議員の参加者が多いことは注目すべきである[147]。これ以降、日朝協会において社会党の面々が活躍を見せ、そのことが社会党の朝鮮半島政策へ影響を与えていくことになる。
1956年1月、総連が大村収容所問題で動きだした。1956年1月の『アカハタ』によれば、総連は、不当に抑留されている大村収容所の朝鮮人はもとより在日朝鮮人の多くが早急な帰国を願っているため、在朝日本人を迎えに行く船で帰国させたいと日赤代表に伝えるとともに日本政府にも要望した。また日朝協会も日本政府に向けて声明を発表した[148]。他方、日赤本社や日赤各地支部では在朝日本人を迎えにいく船での帰国を要求した数十名の在日朝鮮人による座り込みデモが実施された。
これに対して日赤は、航海安全に関する韓国の保証が得られないとして彼らの要求を受け入れなかった。だが、赤十字国際委員会は、在日朝鮮人の帰国問題解決に向けて積極的に貢献することを提案する。これを受けた日赤は、翌57年8月16日に日本政府に対して赤十字国際委員会の提案をすみやかに実行するよう求めたが、日本政府は「適当な時期と方法を選ぶことが肝要」と回答しただけであった。日本政府は、在日朝鮮人の北朝鮮への帰国意思を尊重することが韓国政府を刺激し日本人漁船員の帰国の停滞につながることを危惧したのである。その後1957年12月に日韓合意文書が調印されると、いよいよ日韓抑留者相互釈放が動き出していくことになる。
こうした一連の動きを受け、翌58年2月3日、社会党の高田なほ子議員は参院法務委員会の質問で「昭和二十七年に日本から強制送還された二人の朝鮮人が李政権に反対するという理由で死刑にされた例がある。本人の意思に反した強制送還は人道上からみてもおこなうべきではない」と述べ、日本政府の大村収容者への態度を糾弾した。これに対し、唐沢法相は「本人の意思に反して韓国に送還することは考えていない」と答弁した[149]。韓国政府はこの発言に抗議をするとともに、日本人漁船員の送還日程を示さないという「対抗措置」をとった。これに対して岸政権が、日本人漁船員の送還が完了するまで日韓会談は開けないと通告したため日韓会談は延期されることになった。
他方、1958年1月20日、総連、訪朝国会議員団、婦人民主クラブなど21団体から約50名集まり懇談会が開催された。ここでは釈放合意に関する初の意見調整が行われ、国会議員を大村収容所調査団として派遣することが決定された。また必要に応じて出席団体による連絡会議を持ち、その世話役を日朝協会が担うことが決められた。1月30日には前述の懇談会メンバーに総評なども加わり、総計24名で構成された「日韓問題対策連絡会議」が結成され、ただちに「釜山・大村収容所実情調査団」[150]の派遣が決定した[151]。同調査団は2月28日から3月4まで3回、釜山から帰還した日本人漁船員、未帰還船員の留守家族および漁業団体代表との懇談と、大村収容所からの朝鮮人送還の実情などを調査した。この調査に基づき、3月13日の連絡会議では、「日本人漁船員の即時帰還実現と帰還船員の生活保障」とともに「大村収容所の朝鮮人は真に本人の自由意思で帰国先が決定でき、かつそれが厳格に実現されるよう万全の措置を講ずる」という活動方針が決定された[152]。
送還が進められるという現実の中で、当事者である大村収容所の在日朝鮮人も行動を起こしていた。58年6月26日には大村収容所で北朝鮮帰国希望者によるハンストが決行されている。以後、大村収容所ではハンストが断続的に行われ、抑留者相互釈放交渉による韓国送還反対と北朝鮮への帰国意思が訴えられた。
そのような中で、7月5日に藤山外相と愛知法相による会談が行われ、北朝鮮帰国希望者のうち、婦女子、病弱者及び収容3年以上のものを仮釈放する方針が決められた[153]。
ここまで見てきたように、日韓間での決定により韓国送還が間近に迫った在日朝鮮人の危機的状況を受けて、社会党は、彼らを救うべく日本政府へ訴えるとともに在日朝鮮人を支援した。その際、日朝協会は積極的に北朝鮮と総連の方針をバックアップした。社会党は日朝協会を通じて大村収容所問題、大村収容者を含めた在日朝鮮人の帰国支援へ精力的に取り組んでいった。
こうした状況の一方で、1958年4月15日に第4次会談は開始され、岸首相の特使として矢次一夫が5月19日に訪韓したことを機に日韓会談は進展を見せていく。この状況をみて、北朝鮮、総連は大村収容者強制送還反対を日韓会談反対の中心課題に据えて運動を展開していくことになる[154]。
北朝鮮は、日韓会談再開の時点で、その阻止のための対策として、大村収容所問題に対しては日韓会談と切り離して日朝韓の赤十字会談を通じて解決するという立場をとっていた。朴正鎮の分析によれば実はこれは、日本国内の諸勢力の立場を尊重することで、なんとか日韓会談反対の連帯闘争を実施しようとする北朝鮮の意思表示であったという。つまり北朝鮮は、社会党、日本共産党らが日韓会談反対を表明しづらい立場、すなわちその表明が抑留者の釈放合意の否定につながるために表明ができないという立場に配慮をしていたのである[155]。そうまでしてでも、北朝鮮は日本国内の諸勢力との連帯闘争を目指していたということである。こうして社会党、日本共産党、日朝協会も精力的に、北朝鮮、総連による大村収容所問題を拠点とした日韓会談反対運動に関与していくことになる。
第4節 北朝鮮帰国事業
従来、日本政府は北朝鮮帰国事業に対して消極的な態度だったとされてきた。つまり、北朝鮮からの要請と日本国内での超党派による帰国運動を受けて、これを「人道問題」だと捉えて受け入れるも、韓国への配慮から国際赤十字委員会を通じた交渉を条件に日本政府は事業実施を承諾したのだとされていた。だが、テッサ・モーリス=スズキによって、日本政府が日赤とともに1955年末頃から在日朝鮮人の「追放」を検討としており、むしろ帰国事業推進に熱心であったことが明らかにされた[156]。
日本政府が「人道問題」として帰国事業を推進する上で、その理論を提供したのは日赤の井上益太郎外事部長であった。日赤理事会は1959年1月30日に帰国問題を政治問題と切り離し、緊急解決を要する旨満場一致で決議したが、井上はその決議を説明する中で次のように述べた。
日本には朝鮮人に対する綜合対策を研究実施する機関がなく、朝鮮人の生活を苦しいものにし、ついには居れないようにさえしておきながら、彼らがやむなく北鮮へ帰るのを―そして一旦北鮮へ帰れば、韓国へも日本へも戻って来れなくなるわけだが、内心日本国内の治安改善又は負担の軽減と考えて喜ぶのは非人道の極みであって、須く帰化を大幅に認め、暮らしよくさせることこそ人道的であるという説がある。これも一種の帰国反対運動である。私は、この説を吐く人の誠実性に敬意を表したい。しかし、この説は実情を無視していると思う。問題は 失業のしわよせが朝鮮人に集中しているということにある。彼らの大半は日本経済が繁栄しようが―衰微すれば尚のこと―失業を免れず、恒久的失業者層を形作っている。これは日本を去るより救済の道が無い。仮にあったとしても、到底急場に間に合うものではなく、問題は緊急処理を要する。捨てておけば病人や死人だって出てくる。これは大変な人道問題である[157]。
このように井上は、「恒久的失業者層」を形成する在日朝鮮人の生活改善を図ることが「実情を無視」したものであり、彼らが「日本を去る」ようにすることこそが唯一の「救済の道」だと発言している。こうした形で示された在日朝鮮人への認識は日赤の井上氏や日本政府特有のものだったのだろうか。
1958年8月11日、在日朝鮮人による「集団帰国決議」が出されたことを契機に、総連は大規模な帰国運動の展開を開始した。これを受ける形で9月9日には、金日成首相が在日朝鮮人の帰国念願を熱烈に歓迎すると述べ、16日には南日外相が帰国希望者即時引き渡しを日本政府に要求した[158]。
こうした北朝鮮政府の動きと総連の動きは当然連関しており、日韓会談に対する抵抗の拠点が、大村収容所の枠を超えたことを意味していた。このことについて社会党ら革新系団体が知ったのは、「集団帰国決議」の出された翌日の8月12日から開催された第4回原水爆禁止世界大会においてであった。北朝鮮委任代表として参加した総連中央の李季白副議長、尹相哲外務部長らによって伝えられたのである[159]。朴正鎮は、こうした展開については「日韓問題対策連絡会議」に集結していた革新系各団体にとって、いきなりの展開であったろうと分析している[160]。
日本国内では、総連とともに「日韓問題対策連絡会議」に参加していた社会党、日本共産党、そして日朝協会が中心となり、帰国運動は大きな盛り上がりを見せていく。こうして日本国内における日韓会談に対する抵抗の拠点は大村収容所問題から帰国運動へと動き出した。1958年10月に開かれた同会議では、「特にこの問題(筆者:帰国問題)が日韓会談と絡んでいること」を重視し、帰国事業を早期実現するために日本人の意志を代表する「在日朝鮮人帰国協力会」の発足を決定した[161]。
北朝鮮がこの時期、帰国事業に積極的に取り組んだ理由について辛貞和は以下のように分析している。第一に、1957年から始まった経済開発5ヵ年計画を推進するにあたって労働力が必要であったこと。同時に朝鮮戦争の傷痕が癒えない国内状況から帰国者を貴重な労働力と捉えた。第二に日韓会談を揺さぶろうとする狙いである。実際、55年に日本政府へ外交を呼びかけて以降、北朝鮮は日韓とは別の選択肢を日本へ呼びかけ続けていた。また統一朝鮮を目指す中で、北朝鮮には、韓国に対する外交的勝利が国際社会のみならず韓国国民、在日朝鮮人へのアピールとなることもその視野にあったであろう[162]。
1958年10月10日、総連は藤山外相と面会し、在日朝鮮人の集団帰国促進に関して政府に対する要請を行った。10月8日から3日間ひらかれた総連第15回拡大中央委員会で決議されたこの要請は以下の四項目であった[163]。
祖国朝鮮に帰って社会主義建設に参加したいとの願いは失業と貧乏、民族的な差別においこまれている在日朝鮮人の切実な要求で、集団帰国促進運動はいま全民族の運動としてすすめられている。…今回の申し入れは抑留朝鮮人の帰国問題もふくめて①帰国の具体的な措置②帰国費用の日本政府負担③帰国が阻止されたりおくれたりしないこと④帰国問題について共和国の朝鮮赤十字社代表の日本入国許可。
こうした帰国事業の一連の動きを受けて、社会党は帰国事業へ積極的に関与していった。鈴木委員長は、同事業推進への協力を求めてきた総連代表者に対して「社会党は全党をあげて在日朝鮮人の帰国を実現する闘いを支援する」[164]と約束した。そして1958年11月17日に結成された「在日朝鮮人帰国協力会」(以下、「協力会」)などを通じて積極的に帰国事業を推進した。「協力会」は、在日朝鮮人の帰国問題を、党派をこえた人道上の問題として捉えた文字通り超党派の団体となった[165]。社会党の帆足計が幹事長を務め、「協力会」の中心として活動することになる。その後、都道府県単位での協力会の結成や、地方議会での帰国要求支持決議が相次ぐなど運動は全国的な盛り上がりを見せていった。
そしてついに、日本政府は1959年2月13日に、北朝鮮への帰国希望者は基本的人権に基づく居住地選択の自由の原則からこれを帰還させると閣議決定した。その後、帰国事業は、日本赤十字社と朝鮮赤十字会との交渉により進展し、同年8月13日には協定[166]が調印され、同年12月14日に帰国第一船が新潟から出港することになる。
ところで帰国希望者であった当時の在日朝鮮人は「ひところのようにヤミもできなくなり、まともな就職口はほとんどとざされている状態」に置かれており、それは在日朝鮮人の生活保護率の高さにつながっていた。こうした状況の中で、生活保護受給者の在日朝鮮人の中に日本人受給者に比べて「ゼイタクをしている者がいる」ということが、当時の日本社会における在日朝鮮人に関する主要な問題となっていた[167]。
国会が「生活保護の乱給」としてこれを取上げ、厚生省が生活保護を日本人並みに引下げようとの方針を立てたのもその現われであった。厚生省の1955年末の調べによると、約59万人の在日朝鮮人のうち生活保護を受けているのは、約25%にあたる13万9千人で、これに要する保護費は年間約26億円であった。在日朝鮮人100人のうち23人が生活保護を受給している状況であり、それは日本人1000人中21人の受給率に比べ10倍以上だった[168]。これを受けて日本政府は、不当受給者の摘発を含めて在日朝鮮人の生活保護費の削減に注力していくことになる。だがそれは在日朝鮮人の生活をいっそう困窮させることになった。
こうした状況の中、社会党は、1959年1月の第2回中央委員会において「在日朝鮮人の帰国促進協力に関する決議」を満場一致で採択した。この決議は1958年10月16日に開かれた国際局(局長、岡田宗司)と「朝鮮問題特別委員会」(委員長、松浦清一)との合同会議の決定に基づきなされたものである。同会議は「協力会」の結成に先立ち、党の立場の調整のため設置されたもので、主要テーマは帰国問題に関連して日韓会談に対しての党の立場をどうするかということであった。会議の結果、日本人漁船員の送還が進行中であるため、日韓会談反対の立場を前面に出すことはできないという判断が下された上で、日韓会談と切り離して帰国運動を支持することが決定された[169]。
この決定に基づいた決議では、在日朝鮮人の大部分が「過去の植民地支配の残滓と、日本政府の理解なき施策とにより、極度に困窮した事情に追い込まれ」ている状況を指摘した上で、帰国運動を「人道的見地並びに国際的に認められた基本的人権の見地から、全面的に支持」することが宣言された[170]。在日朝鮮人が追い込まれた背景に「植民地支配の残滓」があったことと「日本政府の理解なき施策」とを関連させて捉えている点は日本政府と異なり、植民地支配の否定的部分を直視しているといえよう。だが、その解決策が北朝鮮への帰国と結びつく点については、結果的には「日本を去る」ようにすることこそが唯一の「救済の道」とした日本政府の態度と変わらないように見える。社会党は、植民地支配の結果として苦況に置かれ続けた在日朝鮮人と直接交流をしてきた。それゆえ彼らの立場を理解していたはずである。だが、日本国内の在日朝鮮人をとりまく状況を是正することよりも北朝鮮へ送ることにエネルギーを注いだのはなぜだったのか。
ここまでみてきたように、南北等距離外交を明確に打ち出していた社会党は、直接の交流を通じて脱陣営外交という共通点を持つ北朝鮮に親近感を抱いていた。とくに北朝鮮が韓国に比べて経済的に躍進していること、また韓国よりも対日態度が好印象であることは実感として受けとめていたようだ。訪朝団団長や協力会で幹事長を務めるなど北朝鮮と日本社会との媒介役を担った帆足計は、当時の北朝鮮の国内状況に関して「いま北鮮ママの一人当たりの生産額は日本と同じで」あり「在日朝鮮人を全部引き取り得る力と経済が安定」[171]していると述べている。ここには、解放後も言葉の壁や「民族的な偏見」により職もなく、生活保護対象者が年々増加している在日朝鮮人の状況を救済できるのは北朝鮮しかないという認識があった。
だがその一方で、こうした在日朝鮮人の厳しい状況を生み出した責任が、「過去の日本の軍国主義的植民地政策と、現在の国際的悲劇ならびに日本政府の政策の貧困にある」ことも痛感していた[172]。帆足のような北朝鮮と近しい党員はこうした複雑な心境を抱えていたようである。いずれにせよ、在日朝鮮人の「祖国」への帰還要求の態度を目の当たりにしたことは、帆足らに強い同情心と義務感をもたらしたのではないか。それが、在日朝鮮人自身の意思を尊重することを前提としつつも、経済的にも不安定で独裁政権の韓国よりも経済的に躍進している北朝鮮へと帰国させたいという思いへとつながったのだろう。そしてそのことから、植民地支配への責任をとることと「祖国」北朝鮮へ帰国させることが同一視されたのではないだろうか。帰国船第一号が出発した翌月に出された帰国事業への帆足による祝賀コメントにはそうした思いがみてとれる。
新潟港の「別れ」は、たんなる「別れ」ではなく、じつに日朝五十年間の涙と悲しみの歴史からの「別れ」であった。過去のかなしい日朝両国の関係はここに洗いきよめられて、日朝友好の新しい歴史の一頁がこれから始まるのだ。…朝鮮の人たちは希望によみがえったのである。祖国への自覚が、いかに民族の品位と風格をたかめるかということを、まざまざと眼前にみる思いがした。…そして在日朝鮮人の帰国実現は百の議論よりも、事実の弁証法を通じて、日本国民を教育したともいえると思う[173]。
上記の「日朝五十年間」とは日本による朝鮮の植民地支配36年を含めて帰国船第一号が出港した1959年までをいっているのだろう。ここには、その五十年の「過去のかなしい」両国の関係が、「祖国」を希望した「朝鮮の人たち」の帰国実現によって「洗いきよめられて」、複雑ではあるが植民地支配の責任としてある一つの役割を果せたという思いが現れていた。
第3章 日韓会談反対運動
第1節 日朝協会を軸とした初期反対運動
1958年4月15日から第4次会談が始まった。だが、会談期間中、日韓会談をとりまく政治状況を大きく変化させる出来事、すなわち韓国で4.19革命が起こり会談は再び中断する。韓国では1960年3月に行われた第4代大統領選挙における大規模な不正選挙に反発した学生や市民による民衆デモが続いていた。そして4月19日 に発生した大規模なデモは、当時、第4代韓国大統領の座にあった李承晩をついに辞任に追い込んだ。その後、許政を首班とする暫定政権の下で総選挙が実施され、そこで多数派となった民主党によって8月に責任内閣制の張勉新政権が発足した。
このような経緯を経て10月25日に開始した第5次会談は、張勉新政権が日韓関係の正常化という外交政策を重要施策に掲げた[174]ように、韓国政府の対日政策が転換した点でそれまでとは様子が全く異なっていた。張勉政権は、アメリカの財政悪化に伴う対韓援助削減が主な要因で疲弊していた韓国経済を、対日関係の改善によって経済成長回復へ導こうと日韓会談に積極的だったのである。こうした韓国の状況変化に対しては日本政府のみならず日本の財界も期待し、日韓交渉は経済協力をキーワードに交渉が大きく進展する兆しを見せていた。
一方で、こうした状況変化は、それまで日韓会談に反対の態度をとってきた社会党、日本共産党や日朝協会にとっては重大な危機感を持って受け止められ、日韓会談反対運動をもっと大衆的運動にするべきだという意識を呼び起こすことになる。
こうした意識が社会党や日本共産党らに出現した背景には、日韓会談自体の具体的進展の他に、1959年から1960年に展開された安保闘争[175]の経験があった。安保闘争の中心的担い手であった社会党、日本共産党は、日韓会談反対運動を展開していくにあたり、安保闘争を強く意識し、その熱気を再帰させようとした。それは、彼らにとって明示的に日韓会談を反対するということであり、それまでの北朝鮮、総連による日韓会談反対運動を支援するといった態度からの転換を意味していた。
1958年1月30日に発足した「日韓問題対策連絡会議」(以下、「連絡会議」)は、大村収容者の韓国への強制送還問題を中心に北朝鮮、総連と連帯した組織で日朝友好運動の拠点[176]であった。だが帰国運動の過程で事実上帰国協力会に拡大発展したことから独自の活動は中止状態となっていた[177]。
1960年10月に第5次会談が再開されると、「連絡会議」による取り組みは、日韓会談反対運動という性格を明確に表していく。日朝協会は、既に同年4月15日に「日韓問題研究懇談会」を開き、「連絡会議」の再開に注力していた[178]。再開時に「連絡会議」に集まった社会党、日本共産党、日朝協会、総評など11団体は、「日韓会談打ち切りを要求する決議」を打ち出し、これに基づいて運動展開を進めていくことを決定した。決議の要旨は以下のとおりであった[179]。
1.「日韓会談」において、政府は「韓国を全朝鮮を代表する政権」としているが、これは朝鮮民主主義人民共和国を無視するものである。また、この会談は日韓台軍事同盟の結成につながる危険がある。
2.金日成首相は、朝鮮の平和的統一について南北の連邦制など一連の具体策を提案、平和愛好諸国民の支持をうけている。この潮流に逆行し、アメリカの戦争政策に盲従して日韓台軍事同盟の結成に加担することは、戦争への危険な道をふたたびすすむものである。
上記決議では、日韓会談を日米安保条約改定と関連したアメリカ主導の軍事同盟形成のための交渉だと位置付けている。この認識は北朝鮮、総連も同様であった。
韓国の4.19革命を受けて対南統一戦線の構築に力を入れた北朝鮮は、これと日韓会談反対運動をリンケージさせていた[180]。ここでいう日韓会談反対運動とは、社会党、日本共産党らとの連帯による大村収容者送還反対運動や北朝鮮団帰国運動のことである。北朝鮮は、そこでは日本国内の諸勢力への配慮から日本政府を闘争の相手とせず、日韓会談と切り離して運動を進めていた。
だが、1960年1月19日に日米間に新安保条約が締結されたことは、北朝鮮に、対日関係の大幅な方向転換を迫った。内政不干渉、政権の性格不問をうたっていた北朝鮮の対日政策は修正されたのである。帰国協定をめぐる対日交渉中には、それは公式化されずにいたが、北朝鮮は日本の中立化を志向し始めていた[181]。対日政策を日本の中立化を前提としたものへと転換した北朝鮮が、日本政府の日米安保条約改定をそれに逆行するものと捉えたのは当然のことであった。
1960年1月20日、北朝鮮政府は、新安保条約を「アメリカ帝国主義と日本の反動集団が相互結託して、日本軍国主義を復活させ、日本を核武装し新しい軍事ブロックをでっち上げて、アジアの諸人民に反対する侵略行為を共同で敢行することを目的とする日米軍事同盟条約」だとする声明を発表した。また総連も、同年2月1日付の機関紙『朝鮮総連』で、「日米軍事同盟と『韓日会談』の陰謀について」と題した社説において、日米韓三国による「東北アジア軍事ブロック結成」を非難した[182]。北朝鮮政府と総連は日米安保条約改定と日韓会談の進展に異議申し立てをしたのである。
1960年12月に開かれた日朝協会第6回全国大会でも、新安保条約と日韓会談を関連づけた運動方針が決定された。安保闘争時にその中心的役割を果した社会党、日本共産党の共闘組織である「安保改定阻止国民会議」(以下、「国民会議」)や地域共闘組織が、新安保条約との関連で日韓会談がもたらす問題を積極的に取り上げ重要な闘争目標とするべきだとされたのである[183]。
だが、「国民会議」は新安保条約の国会批准後、闘争目標を失い事実上の活動停止状態となっていた。そのため、日朝協会は、上記運動方針を実行することを目的に「連絡会議」の活動の拡大・強化をはかることになる。1961年1月13日に「連絡会議」は発展的に解消され、社会党、日本共産党、総評、東京地評、日朝協会、日中友好協会、婦人民主クラブ、平和委員会、AA連帯委員会、日越友好協会、日ソ協会、日生協を幹事団体に、「日韓会談対策連絡会議」(以下、「日韓対連」)が結成された。事務局長は社会党議員の石野久男が担った[184]。
「日韓対連」は上記のとおり参加団体の多くが国際親善友好団体であり、総評も国際部が担当していた[185]。また、結成当日に「日韓会談は朝鮮民主主義人民共和国を無視し、南北朝鮮の分裂を固定化し、NEATOの結成への危険をはらんでいる[186]」と発表した声明の内容からもわかるように「朝鮮の平和的統一支持」あるいは「日朝友好」の性格が前面に出ていた。このことは、日韓会談反対運動を北朝鮮が統一戦線戦術の一環として捉え、それに日朝協会が呼応したことからすれば当然であった。だが、こうした日韓会談反対運動のあり方、取り組み方について、大村収容所問題のころから北朝鮮、総連と連帯してきた社会党や日本共産党の党員の中から次第に疑問が生じてくることになる。
「日韓対連」を拠点に日韓会談反対運動は動き出したが、日韓交渉が進展していく中で、「国民会議」の再開は、社会党、日本共産党といった反対運動勢力からもその周辺からも切望され続けた。ついに1961年3月28日、「国民会議」幹事単体会議で「安保条約改定阻止国民会議」の再発足が決定し、5月19日には第1次全国統一行動が始動した。ところが、その第一スローガンは日韓問題ではなく日中国交正常化で[187]、その後も「国民会議」による日韓会談反対運動の展開は依然としてなされなかった。このため「日韓対連」の運動は小規模ながら続けられた[188]。
韓国では、1961年5月16日に軍事クーデターが発生し、日韓会談は一時中断に追い込まれていた。だが、6月に実施された池田首相とケネディ大統領による日米首脳会談を契機に再始動することになる。同会談では、民政移譲を条件に韓国の軍事政府を支持すること、そして日韓国交正常化により韓国経済の発展を図り政治的安定を達成するという基本方針が合意されたのであった[189]。
その後、10月20日には第6次会談が開始され、11月12日には訪米途中の朴正煕が来日し、池田首相との朴大統領による日韓首脳会談が実現した。そこでは、経済協力方式で請求権問題を解決するとの案が公式提示されるまでに至り[190]、その後の日韓会談ではこの案をめぐる折衝が行われることになる。このようにこの時期の日韓会談は、会談妥結にいたる政治レールが敷かれるなど大きな転換期を迎えた。1962年に入ると、見合わされていた日本経済使節団及び調査団の韓国訪問が実現するなど、より一層交渉は活発化していった。
こうした日韓両政府間の動きの一方で、日本各地では「日韓対連」と総連が先頭に立ち、日韓会談粉砕、日朝友好増進全国連鎖集会(以下、全国連鎖集会)を展開していた。日朝協会は、1961年11月8日に第5回全国常任理事会を開催し、これまでの反対運動を全面的に見直していた。「国民会議を主軸としながら、その立ち上がりまで、当面中央、地方の日韓会談粉砕共闘会議の活動を強化」することを目標とし、「その中で日朝協会は献身的に闘う」ことを決定していたのである[191]。つまり、「国民会議」による日韓会談反対運動の始動までは、「日韓対連」がその代役として運動を主導すると表明したのである。具体的には、同年11月15日から12月15日までを「日韓会談粉砕全国統一行動月間」と設定し、また翌62年の1月下旬から3月中旬には全国連鎖集会の開催が決定された[192]。
1960年から62年にかけて動き出した日韓会談反対運動は、「連絡会議」、「日韓対連」といずれも日朝協会が中心となって結成された団体によって担われてきた。しかし、その間、日韓会談をとりまく情勢は2度の韓国政変によって変化し、大きく進展した。そのような状況は反対運動勢力の警戒心を高め、「国民会議」主導の日韓会談反対運動の要請は大きくなっていった。それは安保闘争のときのような「広大な大衆の民主主義的抵抗のエネルギー」の再帰を求めるものであった。ところが「国民会議」による日韓会談反対運動はなかなか始動しなかった。
第2節 安保闘争と日韓会談反対運動
各方面より要請の声があがりながら、そもそも「国民会議」が再開されずにいたのは、「国民会議」による共闘、統一行動に関して、社会党と日本共産党との間に意見対立が存在していたからであった。「国民会議」の再開の必要性については一致していたものの、安保闘争における共闘実績への評価と安保闘争後の運動展開における同組織の役割への認識相違から両者は論争を繰り返していたのである。
日本共産党は、「アメリカ帝国主義」と「日本独占資本」の「二つの敵」を倒すために「民主党派、民主的な人々の協働との団結をかため、民族民主統一戦線をつくりあげる」[193]とする綱領に基づき、安保共闘組織を利用したより大きな国民運動に日韓会談反対運動を発展させることを決定した。これに対して社会党は、「構造改革」路線[194]を掲げ、「日本共産党は現実の勤労国民大衆の中でさして大きな力をもっておらず、また日本共産党を含めたのでは広範な民主諸勢力を結集することが極めて困難である」として日本共産党との共闘を否定した[195]。
このように社会党、日本共産党の根本的な考え方の違いからなかなか進展せずにいた「国民会議」の再開は、1961年3月ついに決定され、統一行動は5月に始動した。ところが、「国民会議」による日韓会談反対運動は開始されないままであった。だが、社会党が日韓問題を「国民会議」で取り上げると方針転換したことによって、「国民会議」主導の日韓会談反対運動が1962年3月になってようやくスタートすることになる。
当時、社会党の外交政策では中国が優先されていた。また対朝鮮半島政策は、第14回党大会で出された「当面する外交政策」において日韓国交正常化に配慮しないとはしたものの、日韓会談反対は明言していなかった。このような状況の中で、日韓問題を「国民会議」で取り上げる、すなわち日韓会談反対を明確に打ち出すという方針転換に至ったのはいかなる経緯からだったのか。第14回党大会以降の党の対朝鮮半島政策を少しさかのぼって確認しておきたい。
1959年9月の第16回党大会の外交方針では朝鮮半島に関して次のように規定されている。「朝鮮との正式な国交関係は、統一後に樹立する」。また「日韓会談においては(1)対日財産請求権問題(2)対日文化財請求権問題(3)在朝鮮日本財産請求権問題(4)船舶問題等、統一政府と交渉すべき基本問題を取り扱うことが適当ではない」ことが盛り込まれた[196]。これは日韓会談で従来討議されてきた内容を日韓会談で「取り扱うことが適当ではない」と指摘したもので、実質的な日韓会談の反対表明であった。
さらに、1960年5月に入ると、中執委の名で「日朝関係の打開のための声明」を発表している[197]。声明では、日韓会談が「北朝鮮を無視して日韓関係の固定化を招き、新安保体制の一環として、アメリカを中心にした日韓米の反共戦線の結成へと導く危険をはらんでいる」とし、「南北朝鮮のいづれに対しても平等互恵の立場を貫」くよう、日本政府に要求している。南北朝鮮いずれとも関係改善を図るという従来の対朝鮮半島政策の基調はそのままであったが、日韓会談を公式的に正面から否定したのはこれが初めてであった。批判の的は4.19革命以後の「許政暫定政府による(中略)在日朝鮮人の北朝鮮帰還中止要求」であった。これをもって、韓国政府に「残存する反動性、カイライ性に深い懸念をもち、こんごの動向を注視する」[198]姿勢を見せたのである。
党内でこうした政策上の調整をもたらしたのは日朝協会所属の衆参議員であり、彼らの党内拠点は「朝鮮問題対策特別委員会」であった。だが、同委員会による報告や政策提案は、党国際局または政策審議会との調整が必要とされていた[199]。朴正鎮によれば、社会党が、日韓会談反対の立場を表明したにもかかわらず実践の場を「日韓対連」に限定していた最大の理由こそが、このように党内で対朝鮮半島政策の意見が一致していなかったことであった[200]。
だが、1961年10月20日に第6次会談が開始し一気に会談妥結への道が見え始め、「日韓対連」による全国連鎖集会が展開されると、社会党も「国民会議」による日韓会談反対運動の始動を目指し始める。日朝協会が全国連鎖集会実施を決議した第5回全国常任理事会当日の1961年11月8日に、社会党も第35回中央委員会を開き、日韓会談粉砕を本格的に取り上げている。
他方、同月22日には、日朝協会本部と協会会員の衆参両議員との懇談会が開催され、日韓会談反対のための院内活動強化策として「日朝協会議員団会議」が結成された。40名で構成された同議員団には、自民党の稲葉修、松本七郎、田原春次、自由連合の楢崎弥之助、共産党の川上貫一、志賀義雄などが参加したが、それ以外は全て社会党議員であった[201]。
全国連鎖集会が開始される直前の1962年1月20日、社会党は第21回党大会を開催した。そこで、ついに日韓会談反対問題が「第12号議案(日韓会談に反対してその中止を要求する件)」として掲げられる。こうした経緯をみると、社会党が党として日韓会談反対の態度を固めた背景には、会談の進展とともに「日韓対連」や「日朝協会議員団会議」に参加した社会党議員の影響があったとみてもいいだろう。
第12号議案では、「日韓会談の推進は…安保条約の危険性を具体的なもの」だと捉え、これに「反対し、その即時中止を要求し、全国の安保共闘を中心として、安保闘争を上回る国民的統一行動を展開する」べきことが提起された[202]。こうして、ついに社会党の中で日韓会談反対への態度が明確に示されたのである。
これを受けて飛鳥田一雄社会党国民運動委員長は、3月20日の「国民会議」幹事会で、日韓会談反対運動を「国民会議」で取り上げることを要請した。幹事会はこれを受け入れ、「日韓会談反対運動は安保反対国民会議一本で進める」ことを決定した[203]。「国民会議」主導による日韓会談反対運動は、こうして1962年3月30日の全国統一中央決起大会からいよいよ始動したのである。「国民会議」再発足からは通算9回目の統一行動であったが、日韓会談反対運動史のうえでは第1次統一行動であった。「国民会議」の代替組織としての役割を終えた「日韓対連」はその2日前に発展的に解体された。
ところが、「国民会議」による日韓会談反対運動は、社会党と日本共産党の対立によってふたたび足踏み状態に陥ることになる。1962年8月6日に開催された第8回原水爆禁止世界大会において両党が激突し、決議や宣言も採択せずに混乱のうちに閉会するという事態になったためであった。こうした事態を受け、日朝協会は同年10月から再度、日韓会談粉砕、ブロック連鎖、中央結集行動(第2次全国連鎖集会)を全国展開することになる。
一方で1962年9月6日開催の「国民会議」幹事会では、日本共産党が統一行動の基礎を尊重し誠意を明らかにすることなどの意見を発表したことで、社共間の対立が一時的でありながら縫合された[204]。
だが、具体的に「国民会議」による運動が再開したのは、日韓会談をめぐる情勢の急変が要因であった。同年10月20日に金鍾泌韓国中央情報部長の来日が決定し、日韓会談の最大の懸案であった請求権問題の進展が予想されたのである。反対運動勢力はこれに敏感に反応した。10月20日当日、「国民会議」は中心勢力19団体とその代表30名による記者会見を開き、「全国民が日韓会談の即時中止、平和と民主主義のための統一行動に結集しよう」と改めて国民へ呼びかけ、25日には日比谷野外音楽堂で第3次統一行動を実施した[205]。第4次統一行動も大平・金会談直後の11月19日から25日に行われ、12月10日から19日にかけては、総評のゼネストと結んで第5次統一行動が展開され、日韓会談反対のための統一戦線が日本社会に次第に定着していくかのような状況が生まれていた。
第3節 社会党が問題点として捉えた日韓会談の特質
ここまでみてきたように社会党と日本共産党が、両者に考え方の相違があってもなお、「国民会議」による闘争を目指したのはなぜだったのだろうか。
両党において、安保闘争の実績が「国民的な大統一行動」であったという点で評価されていたことが第一の理由としてあげられることは間違いない。日韓会談をめぐる情勢が緊迫している中での両党の課題は、日韓会談反対運動が「まだ幅広い国民的な基盤をもつにいたっていない。国民的基盤がまだせまく、いかにして安保闘争を引きつぐ大闘争に発展させるか」[206]ということであった。すなわち社会党、日本共産党は、日本社会での日韓会談反対運動の立ち遅れを課題としていたのである。
日本共産党は、その要因として「日韓会談の本質と政治的背景が広はんな大衆に理解されていない」ことを挙げている。「広はんな大衆」には「あたかも会談の目的が『日韓両国間の国交正常化』や『経済協力』また『李ライン問題』や『対日財産請求権』問題であるかのような印象」が与えられているが、実際には「復活しつつある日本軍国主義勢力を南朝鮮にうえつけ、かねてから追求していた侵略的な軍事同盟、東北アジア条約機構(NEATO)」を推進するものだと認識していた[207]。
社会党もこの点は同様の見解であり、さらに「急迫しつつある情勢のもとで、たたその叫びをくりかえすだけでは、『日韓会談』反対運動の推進の任をわれわれが十分に果たすことにはならない…この基本点をつくだけでなく、問題の具体的内容と影響について、広範な国民の関心を喚起しなければならない」[208]と指摘していた。
このような日韓会談反対運動の現状把握から、両党はその打開策として安保闘争の再帰を目指していった。だが「国民の関心喚起」にあたり、日韓会談と安保条約改定を対比したとき、そこには大きな違いがあることも両党は理解していた。すなわち、「二つはその本質において強く結合していることはいうまでもないが、安保条約が日米軍事同盟そのものであるのにたいして、日韓会談は内容的には軍事緊張政策でありながら、表面的には日韓国交打開に伴う懸案という形」[209]をとっているということであった。下記の表現にその難しさがよく表れている。
新安保反対についての政治宣伝も、「安保は重い」という言葉に表現されたように、困難な活動であり、これを広く国民のものにするために多角的な活動が行われたが、日韓会談についてはそれ以上に強力かつ多面的な宣伝活動が行われなければならない。「日韓会談はNEATOへの道」という言葉をくりかえすだけでは国民のものとはならないのである[210]。
また、運動展開の難しさには、安保条約改定を推進した岸内閣の姿勢と日韓会談を推進している池田内閣の姿勢の違いも関係していた。池田内閣は「安保の二の舞はしない」ことに注力し、岸内閣のように猪突猛進ではなく国民の反撃をかわしながら目的を達しようとしていた[211]。
日韓会談反対勢力が、院外の大衆行動の組織に全力を注ぎ、「国民会議」の再開までこぎつけたことを受けて、「安保闘争」の「幻影」におびえていた池田首相と自民党は、日韓会談推進の具体的行動を開始した。日韓交渉妥結の必要性を国民に納得させるため、自民党は、同党の日韓問題PR委員会に「日韓会談促進PR要綱」の作成を命じた。そしてこのPR文書は、自民党広報委員会の名で国民へ広められた[212]。その内容は、反対勢力の理解する日韓会談観を全面的に批判する立場で貫かれていることはいうまでもないが、「もっとも近い隣国である日韓両国間の懸案を一掃し、両国間の親善提携と相互の反映をはかるため、日韓会談を妥結して国交を正常化するということはきわめて当然のことであり、世界の平和と安全を促進するもので、決して国際緊張を激化するものではない」というものであった[213]。また早期妥結の必要性としてこの機会を逃すと「李ラインを未解決にして」しまうことを挙げていた[214]。
日韓会談の初期会談から中断期を経て1960年頃までは、日韓会談といえば「李ライン」「漁船拿捕」だと日本社会では捉えられていた。61年以降は会談が進展したことを受けて「財産請求権問題」が会談の中心だと伝えられていた[215]。こうした状況にあって、「日韓会談促進PR要綱」は日本社会に受け入れやすいものだっただろう。
その一方で、社会党が自身が問題点として捉えた日韓会談の特質を日本社会へ広めることに苦心したであろうことは想像に難くない。『月刊社会党』の62年2月号では、「『日韓会談』について」と題して分析編と実践編からなる大きな特集が組まれている。そこでは「日韓会談が日本国民におよぼす影響」を以下のように示した。最も根本の問題として、日韓会談が新安保条約体制の具体化につながることが挙げられた。つまり、韓国の軍事政権との結合はNEATO(東北アジア条約機構)の完成、強化となり、そのことが極東における平和と中立の深刻な危機をもたらすということである。また、日韓会談の妥結は、「南朝鮮」を安価な労働市場として見ている日本の独占資本の進出につながり、その結果、日本の労働者の賃金も低下させられるということが示された。最後に、「賠償」あるいは「経済援助」の名目で莫大な日本国民の血税が、日本独占の南朝鮮にたいする帝国主義的な経済侵略に使われることも問題視された[216]。以上から日韓会談による諸影響は、朝鮮人民の問題にとどまらず日本の国民大衆にも及ぶということが強調された[217]。
さらに同号では、1960年10月に「連絡会議」によって出された「日韓会談打ち切りを要求する決議」の内容を通じて当時の反対運動を振り返り、以下の2点を問題点として挙げた。一つ目は、日韓会談が「安保体制の強化につながる」としながら、実際の運動としては「日朝友好を阻害し、朝鮮の平和的統一に逆行する日韓会談反対」という側面に集中していた点である。二つ目は、「具体的に独自の反対運動としての展開にはほとんどいたらず、…主として在日朝鮮人帰国協力運動のなかで、それとむすびつけてすすめられた」[218]ことであった。以上のように社会党は、従来からの「日朝友好を阻害し、朝鮮の平和的統一に逆行する日韓会談」に反対する運動ではなく、日韓会談が「安保体制の強化につながる」ことを強調した日本独自の運動展開が必要だと主張した。この特集は、「日韓対連」事務局長を務めた社会党の石野久男の協力のもとに組まれたものであった[219]。
実は、こうした問題意識は日本共産党にも同様に存在していた。日本共産党の機関誌『前衛』に掲載された寺尾五郎の論文「新安保条約と日韓会談」では、日本共産党が問題視する日韓会談の特質を以下のように整理している。すなわち日韓会談を①東北アジア軍事同盟(NEATO)の完成、②日本独占資本の韓国進出、③朝鮮の平和統一を阻止し、南北の分断状態を固定化してその対立を激化させるもの[220]としたのである。この3つは、社会党と日本共産党で共通したものとして日韓条約批准阻止段階まで一貫して日韓会談反対運動の柱となっていくことになる。このように日韓会談における問題点を明らかにした上で、寺尾論文は現状の運動展開において日韓会談の問題が日本人の切実な問題としてではなく対岸の朝鮮の問題として捉えられていることを問題視した。中でも「日韓会談反対の運動を朝鮮人の平和統一運動を日本人民の側から助けてやる応援の運動だと思っている傾向」[221]を厳しく指摘した。
このような寺尾の問題意識は、日朝協会を中心に北朝鮮、総連と連携して進められた日韓会談反対運動に対するものであった。板垣竜太によれば、寺尾はこの運動への日本人のスタンスについて「すべて(と言っていいだろう)朝鮮人が言い出し、説明し、金を出し、お膳立てをし、日本人を動かし、動員し、協力させる運動であった」としながら、「日本の立場から見たり整理したりする発想が弱い」と評価していたという[222]。寺尾は、日本人の立場で日韓会談の特質を捉え、その上で朝鮮人と連帯することを目指していた。そうすれば「日本人民の側から助けてやる応援の運動」とはなりえないと考えていたのである。
以上のように社会党も日本共産党も、日韓会談反対運動における2つの問題点を指摘していた。一つは日韓会談の問題点が国民に理解されていないこと、二つには、運動のあり方、取り組み方において、日本独自の運動がなされていないことであった。そこから両者が目指したのは、北朝鮮と総連が「お膳立て」した運動への協力というスタンスを克服し、日韓会談が日本人にとっての問題であると自覚した上での連帯であった。
他方、日韓会談が急進展したことを受けて、北朝鮮政府は1962年12月13日に政府声明(12.13声明)[223]を発表した。以下の通り、声明には初めて植民地支配の責任を日本政府へ追及する内容が盛り込まれた。
①日韓会談は南朝鮮一方だけを相手にする不法な共謀であり、そもそも南朝鮮政権は朝鮮人民のだれをも代表できないアメリカ帝国主義の侵略の道具である。この点に関連して、「日本政府が真に公明正大に、両国人民の双方の利益にそって解決しようとするならば、朝鮮民主主義人民共和国と南朝鮮当局を含む三者会談の方法を選ぶべきだとした。
②日本の植民地支配の責任について。日本と朝鮮との関係で生じた歴史を清算し正常な関係を樹立するには、何よりもまず過去の植民地統治の時期に日本帝国主義者が朝鮮人民に及ぼしたすべての被害に対して日本政府は賠償する義務がある。
その上で、たとえ日本政府が対日賠償請求に対する朝鮮人民の権利を無視し、南朝鮮と何らかの取引を結んだとしても、それはかれら同士の私的な金銭取引にすぎず、賠償問題はあくまでも両国人民の利益に合致するように公正に、合理的に解決されなければならないと断じた。
③植民地支配のもう一つの遺産としての在日朝鮮人問題について。日本政府は、すべての在日朝鮮人に国際法に基づき外国人としての待遇と祖国往来の自由を含むあらゆる民主主義的な権利を完全に保障しなければならない。
④日本と朝鮮との間に存在する以上の未解決問題を日韓会談で一方的に処理すべきではなく、正しく解決しようとするならば、今後朝鮮が統一されたのちに討議すべきだとした。
12.13声明は日本の日韓会談反対運動の担い手に、植民地支配の捉え方の点で大きなインパクトを与えた。とくに寺尾五郎は、この声明が日本の植民地支配の責任に言及し賠償を求めたものであることに衝撃を受け、自分の朝鮮論に植民地支配の問題を取り入れたという[224]。
日本共産党員であり、同時に日朝協会でも活躍していた寺尾五郎は、藤島宇内らとともに、1961年に日本朝鮮研究所[225]を創設していた。そこで発行していた雑誌『朝鮮研究月報』(のちに『朝鮮研究』)において、日本帝国主義の朝鮮に対する植民地支配の歴史に関する体系的な知識を獲得することが日朝友好運動を支えるエネルギーになると説き[226]、また1964年6月に刊行した『日・朝・中三国人民連帯の歴史と理論』の「第一講日本の朝鮮侵略史」のまとめでは、植民地支配に対する「おわび」と「賠償」の必要性を説いた[227]。このように植民地支配への責任、償いについて明確に言及したのは12.13声明の影響があるのだろう。
だが寺尾と共に日本朝鮮研究所を支えた藤島宇内は、12.13声明以前の1961年の雑誌『思想』に発表した論考「『日韓交渉』の思想と現実」の中で、既に植民地支配の責任について言及していた。以下、藤島の論考の引用である。
「植民地問題」「侵略戦争」というような現代世界を理解するためのもっとも根本的な観点は、日本の一般的な 生活史のなかに正しく反省され位置づけられることもないうちに、日本人自身のその歴史はかくされた時代となり、次の世代に受けつがれることもない。反対に、朝鮮人など異民族に対する偏見はいまの子供たちもちゃんと受けついでいる……「新安保条約」は、それに反対する人々によっては、「戦争に巻きこまれる危険のあるもの」として理解されたのが大多数の関の山だった。その条文の上で、「日本自身が侵略にのりだす」論理となることは理解しても、感覚では理解しなかった。日本独占資本主義の能動性を強くあらわしている「日韓会談」-南朝鮮経済侵略の動きは、「安保反対」などで積極的に動いた人々には、かえって理解されない傾向がある。……
人民の立場から植民地問題を見なおした感覚が私たちには乏しい。そこには日本の危険がある。このような昔風な言葉はあまりにも古めかしい、と革新的な人々は笑うかもしれない[228]。
ここで指摘されている「『人民の立場から植民地問題を見なおした感覚』が私たちには乏しい」という問題は、今なお課題であり続けている。こうした藤島の問題意識は、寺尾五郎をはじめ日本朝鮮研究所においておそらく共有されていたと思われる。すなわち12.13声明以前から同研究所内に植民地支配の責任意識は存在していたと考えるほうが自然である。
とはいえ、12.13声明以降に、社会党、日本共産党の機関紙/誌において植民地支配の責任への言及が増えたことは確かである。北朝鮮政府の声明がそれを後押ししたということはいえるだろう。
社会党においても「朝鮮問題特別委員会」委員長の石野久男が、65年9月の『月刊社会党』誌面で、以下のように日本政府の植民地支配の責任をなんら認めないあり方を厳しく糾弾した。
日韓会談の本質は、明治末期に、日本帝国主義が「朝鮮併合」を強行したのと、現代的な新植民地主義の形でうけつぐものといえるだろう。かつての植民地化は三十六年間にわたって朝鮮民族に対して筆舌につくせない不幸をもたらした。
日本政府は、それに恥じることなく、ふたたび“昔の夢”を追っている。これは断じて許せないことだ。口では“善隣互恵”をいいながら、その本心は、結局において「韓国支配」、強いては、アメリカ帝国主義と与しての「朝鮮全一支配」を狙っているのだ[229]。
このように、日韓会談を日本人の問題としてひきつけるという課題の中で、植民地支配の責任が日本人に理解されていない点が指摘され始めたことは確認しておくべきである。またこうした問題意識が石野久男や寺尾五郎らから表出したということの意味も改めて検討する必要があるだろう。彼らは、大村収容所問題、大村収容者を含めた在日朝鮮人の帰国の支援へ精力的に取り組んでいたメンバーであった。ここでの経験を通じて朝鮮人、朝鮮半島との心的距離を縮めたことは、植民地支配の問題性、さらには植民地支配の責任意識が薄い日本社会に対してその理解を広めなければならないという思いを高めたのではないか。
だが、こうした問題意識が日韓会談反対運動のスローガンとして掲げられることはなかった。そこではNEATO軍事同盟の完成、日本独占資本の南朝鮮進出、朝鮮の平和的統一阻止があくまで打ち出され、中でもNEATO軍事同盟の完成といった面が常にトップに掲げられたのである。例えば1962年10月9日の『アカハタ』では、「日韓会談になぜ反対するか 米日韓の侵略軍事同盟」と題して1面にわたる特集記事が組まれた[230]。こうした内容が「広はんな大衆に」浸透すると考えられていたからであろう。「日韓会談反対運動については安保闘争以上に「強力かつ多面的な宣伝活動が行われなければならない。『日韓会談はNEATOへの道』という言葉をくりかえすだけでは国民のものとはならない」[231]という指摘が1962年の段階では社会党の中で出されてたが、実際には「日韓会談はNEATOへの道」という言葉をくりかえすだけの運動展開にならざるを得ない状況となっていくことになる。
第4節 「国民会議」の解体から批准阻止闘争まで
12.13声明発表後の第6次統一行動は、全国主要都市をはじめとする各地で、集会、デモ、宣伝活動として実施され、1963年1月24日に日比谷で開催された中央集会では11000人が結集するなど「国民会議」による日韓会談反対運動は活気を見せ始めたかに見えた[232]。
だが、同年3月12日の第8次統一行動を境に、「国民会議」の運動が急激に低調となりはじめる。低調の要因としては1963年になって、韓国大統領選挙をめぐる政治混乱が報道され、日韓会談自体の停滞が予想されたことが挙げられる。このため1963年2月以後、「国民会議」はアメリカの原子力潜水艦ポラリスの日本入港問題[233]を重要議題とするようになり、日韓問題は二次的議題となっていった。
アメリカが日本政府へ原子力潜水艦の寄港を要求したのに対し、「原子炉の灰の問題や事故発生の場合の補償措置など技術的な問題の検討さえ片づけば、国会の承認なしで認めてもよい」[234]と当時の黒金官房長官が発表したことは日本社会に強い衝撃を与え、原潜阻止闘争は盛り上がりを見せた。
他方、「国民会議」内部では論争が起きていた。1963年8月の第9回原水爆禁止世界大会において、部分的核実験停止条約に対する賛否をめぐって激論が繰り広げられ、社会党と総評が脱退を宣言するという事態が起きたのである[235]。従来から対立点が根底にあった社会党と日本共産党だったが、その衝突が決定的なものとなったことは、当然に「国民会議」に影響を与え、同年9月1日の第12次統一行動を最後に「国民会議」は解体された。
社会党、日本共産党はそれぞれ独自の日韓会談反対運動を展開していく。日韓会談反対統一行動が二分されるなかで、1964年12月3日、日韓会談の第7次会談は開始されることになる。
社会党は総評などとともに、同年9月3日、原子力潜水艦寄港阻止全国実行委員会(全国実行委員会)を結成し独自の活動を開始した。他方日本共産党も、社会党に対抗するかたちで130団体を結集し、米原子力潜水艦寄港阻止、インドシナ軍事侵略反対、安保反対国民会議再開要請9.23全国統一行動中央実行委員会(中央実行委員会)を立ち上げた。
両党が結成した各団体名からもわかるとおり、その中で日韓会談反対運動を行っていたとはいえ、名称にその文言はなく、いずれも原子力潜水艦寄港阻止(以下、原潜阻止)が掲げられている。時代状況でいえば、1963年の運動の中心は原潜阻止闘争であり、日韓会談反対は二次的議題であった。その後も日韓会談反対のスローガンは原潜阻止闘争とセットで掲げられた。1965年に入ると、今度はアメリカによるベトナム侵略が差し迫った問題として受け止められ、これとのセットで日韓会談反対運動は進められた。
原潜、ベトナムの問題は、新安保条約締結後の日本社会において、いよいよ日本はアメリカの軍事戦略により戦争にまきこまれていくのかという危機感をもって受け止められた。こうした状況をふまえて、社会党や日本共産党は、日韓会談反対運動の柱のひとつである「NEATO軍事同盟の完成」を上記問題と連関させて運動展開をしていくようになった[236]。
このような運動展開の中では、日韓会談反対運動におけるほかの二つの柱である「日本独占資本の南朝鮮進出」、「朝鮮の平和的統一阻止」は、注目度という点で後退を余儀なくされた。植民地支配の責任に至ってはスローガンとしての出番さえなかったのである。
その後、社会党は、1964年12月8日の第24回党全国大会で採択した「五大政綱」の第一項目として、「南北朝鮮の平和的統一を阻害する日韓会談を即時打ち切る」[237]を掲げ、日韓会談反対を強く訴えた。この方針に基づき、成田書記長は、1965年2月20日の日韓基本条約仮調印に対しても、談話でその「無効性」を宣言した[238]。また、2月の衆議院予算委員会では椎名外相の不信任案(訪韓直前)を提出し、2月27日には、羽田空港で椎名外相の訪韓阻止の集会を開催し、警察と衝突するなど院外活動にも力を入れていった[239]。
ところでこの間、1964年末に亡くなった杉道助に代わって日韓会談の全権首席に三菱電機相談役高杉晋一が就任した。その就任記者会見での高杉の日本の植民地支配に関する肯定的な発言は国内問題に発展していた。それは以下のような内容であった。
われわれはこの際、兄貴分になったつもりで、大きくのみこんでしまわなければならない。人によっては日本は朝鮮にたいする三十六年間の統治にかんしてあやまれという声もある。しかし申し訳ないとはいえない。国民感情としてそんなことはいえたもんじゃない。日本は朝鮮を支配した。しかしわが国はいいことをしてきた。・・・過去をいえば、向うにも言い分があるだろうが、わが方にももっと言い分がある。だから過去をむし返すのはよくない。・・・過去のことばかり持ちだしていたら会談はこんご十年かかっても話し合いがつかんだろう。むずかしい点はしぼられている。あとは具体的に国交正常化にどうもっていくかということだ[240]。
このような植民地支配を肯定した内容自体が、後に問題となっていくのだが、それ以前にこの会見内容に関して外務省が新聞各社へオフレコ要請したことが問題化した。この要請を『アカハタ』だけが応えずに記事を掲載したことで、当初は『アカハタ』の報道が事実無根とされていたが、のちに日本ジャーナリスト会議による独自調査によって記事内容が事実であることが明らかにされる[241]。
ここで重要なことは、1953年の久保田発言とは違い、外務省が高杉発言の内容を問題視した上でその発言自体を隠蔽しようとしたということである。日韓会談調印直前の状況において、日韓会談反対の日本国内勢力もさることながら、それ以上に日韓会談に強く反発していた韓国世論への刺激を外務省は恐れていた。
一方、社会党の対応も特段内容に関する指摘をしなかった久保田発言時とは異なり、高杉発言の内容を「さらけ出された植民地主義」だとして厳しく糾弾した。また、『社会新報』では、韓国へ広まった発言内容について、韓国の野党がその内容を久保田発言以上に悪質かつ重大だと指摘したことを報じた。その上で、これを日韓会談粉砕のチャンスであるとした[242]。
以上のように「久保田発言」と「高杉発言」は日本の植民地支配に肯定的である点では共通していたが、それに対する反応が対照的であったのは、政府だけでなく、社会党も同様であった。両発言の主張は根底的には同様である中で、両発言への社会党の対応が異なったのは日韓会談の進展状況と関係があったのだろう。すなわち、会談が進展したことを危機感と捉えたからこそ、高杉発言に対しては糾弾したということである。この点を別の面からいえば、問題点として捉えた日韓会談の特質を広めることに注力したことが、社会党がいうところの「さらけ出された植民地主義」への気づきにつながったともいえるのではないだろうか。
他方、この間、社会党内では日本共産党との共闘が模索されていた。1965年1月20日、社会党国民運動局長大柴滋夫が出した通達(国民運動局通達第6号)では、「中央では日本共産党をふくむ共闘再開(統一行動)に努力している」として、各都道府県本部にも日本共産党との共闘が呼び掛けられた[243]。しかし、この「大柴通達」が出されたのち、社会党内から日本共産党との共闘に否定的な意見が相次いだため、2月12日の中執委では同通達が「日韓会談・原潜寄港反対についての当面の闘争方針とその行動体制について通達したものであり、安保共闘の全面的・全国的再開の方針についての支持ではありません」とする「統一見解」が出されるなど、逆に共闘に関して社会党内で見解が統一されていないことが露呈した[244]。
ところが、まったく違ったところから共闘の契機は到来する。1965年2月から米軍によるベトナム北爆が始まり日韓条約調印も差し迫る中で、阿部知二、小林直樹、中野好夫、野上豊一郎、日高六郎の「文化人」グループ5名がベトナム反戦で一日共闘をと社会党、日本共産党に呼び掛け、これに両党が応じて6月9日と7月27日に一日共闘[245]が実現することになったのである[246]。「文化人」の仲介により、社会党、日本共産党が一日共闘といえども共闘を再開したことは、運動史の上では非常に大きなこととして捉えられている。しかし、日韓会談反対運動にスポットをあててみると、このときの共闘呼びかけがベトナム戦争の緊迫化を重視して行われたということはまた違った意味を持ってくる。すなわち、この時期は日韓会談においても重要な局面であったが、ベトナム戦争との比較においてはその重要度が低く捉えられていたともいえるのである。重ねて確認しておかなければならないのは日韓両国が正式調印をおこなうという最終段階であったにもかかわらず、本格的な反対闘争が組織されなかったということである[247]。
その後8月14日になると、ついに日韓基本条約及び諸協定は正式調印され、残すは批准闘争のみという状況となった。前述の日本共産党中央実行委員会主催の9.12行動は、参議院選挙後の臨時国会に対応するために実施された。佐藤内閣と自民党、日韓基本条約と諸協定の批准を強行しようとする動きがあったことを踏まえての行動計画であった。一方、社会党も9月30日に、日韓条約批准阻止と、国会解散をめざした大衆的闘争の強化を決定し、ここで日本共産党との共闘推進意向が明らかにされた[248]。こうして、両党が各々主導していた、中央、全国両実行委員会の闘争は、11月5日から国会の周辺に集結する。だが、国会では日韓案件の通過をねらう政府、自民党が、11月6日には衆議院特別委員会で、11月12日未明には衆議院本会議でそれぞれ強行採決を行った。さらに12月4日には参議院特別委員会、そして12月11日には参議院本会議で日韓案件が4回目の強行採決により通過する。こうして日本の国会で日韓条約は承認された。
ここまで日韓会談反対運動の展開をみてきたが、機関紙/誌面では、それとは異なる展開があった。すなわち、デモ、集会のスローガンに掲げられたアメリカの軍事戦略問題以外の日韓会談の問題点がそこでは議論されていたのである。このことは改めて確認しておく必要があるだろう。例えば、1964年3月の『社会新報』では、中執委が、「日韓会談阻止へ直ちに起ち上がろう 全国民へのアピール」を掲げたことを伝えているが、ここでは、アメリカの軍事戦略問題のことは触れられていない。むしろ、それ以外の①南北朝鮮の統一を阻害することに加担する日韓会談では日本と朝鮮の真の国交正常化とならないということ、②戦前36年に及ぶ日本帝国主義の植民地支配の責任を解決するという歴史的任務を忘れることはできない。③したがって日本国民の税金が過去の償いとして朝鮮民族全体の経済発展と生活向上に役立つなら、よろこんで受け入れるが、いま朴政権と日本反動勢力と一部の投機的商人の手によってすすめられている妥結はこれらの問題を解決するものではなく、過去と同じような日本の資本の経済侵略がねらわれているということが主張されていたのである[249]。そして、同日の1面では「日韓会談反対の12章」として日韓会談の問題点がいかに多岐にわたっているかが解説された。
また少しさかのぼるが、1963年2月の『社会新報』では「私たちの政府は正しいだろうか 韓国難民に対しどんな仕打ちをしているか 日韓会談を考える前にこの事実を知ろう!」として「大村収容所の現実」を収容者の手記という形で掲載していた。ここでは大村収容所を「過去数十年におよぶ朝鮮民族への辱めに満ちた圧政」の象徴的存在だとしており、「朝鮮民族への罪の償いもなされていない今日、わたしたちが意識するとせぬとにかかわらず」日本政府がふたたび圧政をすすめようとしていることを強く訴えていた[250]。
また、1965年の正式調印以降になると、日韓会談と日本人の現実の生活を結びつけた企画が社会党、日本共産党の両機関紙に登場している。社会党では、1965年8月29日に『社会新報』紙面で、「ベトナム・日韓とわれわれ 紙上ティーチ・インのよびかけ」がなされた。その主旨はベトナム戦争、日韓条約批准が重大な問題として受け止められる中で、「あらゆる階層のあらゆる分野で働く人びとがいろいろな問題について積極的に発言すること」が必要で、その目的のため「本紙は思い切って紙面を解放」したということであった。その後、9月5日から9月29日までの間に8回にわたって35人の声が寄せられた。その中には運動関係者や党幹部の声も含めて様々な声が寄せられた。中でもベトナム戦争、日韓条約批准の反対運動展開に対するコメントが多数寄せられたが、その中には倉敷の団地に住む男性からの次のような意見があった。
なぜ「ベトナム・日韓」というのでしょうか。私たちにもっとも関係があり、これからのやり方によっては十分成功の見通しさえある「日韓条約批准阻止」闘争を先にもってこないのでしょうか?
戦争は一般受けがするけれど条約は一般にわかりにくいし、たたかいが組みにくいということであれば、今まで日韓批准阻止について、どれだけ国民にPRしてきたのか、ということになります。あれだけ「重い」といわれた「安保」が、闘争を組むなかで「軽くなった」ことを、忘れてはならない。現在の時点で国民の知っているベトナム戦争とは、マスコミを通じてのことであることを忘れないことが大切ではありませんか[251]。
同様の意見はいくつかあり、さらに手厳しいものとして作家の夏堀正元のコメントがある。
「安保」のときもそうだが、社会党(共産党も同断だが)は“危機感”にもたれこみすぎるのではないか。現在も「日韓問題に国民大衆はそれほど深刻な危機感を抱いていないが、ベトナム戦争には感じている。だからベトナムでいこう」というような安易さがあるとすれば論外である。危機感が迫らなければ立ちあがれない、というのは日本の左翼の病的な体質だ[252]。
上記の2つのコメントは、より危機感が強まっているベトナム戦争との関連争点を押し出すことで、社会党自身も意識していたはずの「日韓は重い」という問題に真摯に取り組むことなく安易な運動展開をしてきた点を厳しく指摘したものである。
日本共産党も『アカハタ』紙面において、「職場・地域の『日韓』学習会」として各職場での活動や討議内容を9月28日から10月22日までの14回にわたって長期連載した。そこでは、日本共産党が捉える日韓会談の問題点が、なかなか仲間に浸透せずに試行錯誤する労働者の様子が伝えられている。たとえば
「共産主義の侵略をくいとめるため、北爆や軍事同盟は必用だ」という青年。「韓国の失業者を救うために日本の企業が進出するのは良いことではないか」という青年。内田君(この記事で取材されている青年)もこうした青年たちといっしょに学習の討論に参加していったのです。・・・内田君はつぎのようにいいます。「しかし、これからです。ベトナムのビラは作業台で読まれたのです。日韓のビラはまだロッカーまでです。もっともっと多くの労働者が学習会にくるようにならなくては・・・[253]」
上記記事では、前述の『社会新報』での倉敷の男性の発言と同様に、ベトナムに比べて日韓はまだよく理解されていないことからくる内田君の焦燥感が伝えられている。
別の日には「日韓問題の学習をどのように深めるか」という課題について学習会で講師をした活動家が取材を受けている。そこで二人の講師が口をそろえていうのは、「日韓は間口が広くて短時間ではその本質をわかりやすく話すことはできない」というものであった。すなわち
十四年間にわたってつづいた交渉。こんど調印された条約・合意文書だけでも二十八にものぼり、問題を上げても、基本条約、漁業問題・李ライン、在日朝鮮人の法的地・待遇問題、経済協力問題・・・また片方では国連協力という口実の東北アジア軍事同盟の問題がある。・・・しかし考えてみると、日韓条約の本質的なものが十分に統一的につかまれてないところからそういう感じが出てくるのです。・・・初めのころ、日本人の運命、将来の問題としてよりも、たとえば“南北朝鮮の統一”“在日朝鮮人の法的地位”がどうなる、という形で受け止められる傾向があったのです。しかし、たたかいが前進するなかで、いわゆる“三つの本質”という形で、“アメリカのアジア侵略の一環として結ばれた条約”“アメリカの先棒をかつぎながら、その南朝鮮支配を補強しアジア侵略の第一歩となる条約”“南北朝鮮の統一をはばみ、アメリカや朴政権の北進をたすける条約”という理解が深まっています。・・・学習会で必要なのは、この三つが相互に連関し合っていることを深くとらえ、この条約が日本人にとってなにをもたらすか・・・を徹底的に深めていくことだと説明した[254]。
こうした課題は、この連載の中で口々に叫ばれていた。その中で解決の一つの方法として在日朝鮮人との交流会を開いた川崎のある製鉄工場が紹介されている。交流会では、「在日朝鮮人がかつて、日本帝国主義の支配下でやむなく日本にわたってきた人や、強制的につれてこられた人たちだということが明らかにされ、日本政府が在日朝鮮人をじゃまもの扱いすることも日韓条約と密接な関係を持っていることがわかった」[255]という声があった。これは、当事者たる在日朝鮮人から、植民地支配の実態を直接聞いたことによる実感のこもった発言だったといえるだろう。
しかし、こうした声を十分反映することなく日韓会談反対運動は終息した。1965年の10月5日に臨時国会が召集されてから、承認可決された同年12月11日までの68日間の日韓会談反対運動の動員数は延べ188万人であった。一方、社会党、日本共産党が強く意識した安保闘争は1960年2月5日に条約批准案件が国会に上程されてから承認可決される同年6月19日までの136日間で延べ276万人が動員されている[256]。動員数だけで判断できるものではないが、その後、両闘争は当事者、外部者によって何度も比較されることになる。そこでいわれたことは、安保闘争に比べて日韓会談反対運動は盛り上がりにかけたということ、運動の主張が一般国民に対して説得力を持たなかったということであった。後者の議論は、安保条約はいわば「軍事同盟」的性格の強い条約として反対闘争を組織できたが、日韓条約は、日韓両国の友好、親善、経済援助など国交の正常化を目的としたものであった。反対勢力は日韓条約がアメリカの東北アジア軍事同盟に結びつくものと主張して闘争の展開をはかったが、一般国民に対して説得力に乏しかったということであった[257]。
本章の考察をふりかえって、今一度、確認しなければならないのは、社会党と日本共産党といった日韓会談反対運動の中心的担い手がその運動を大衆運動にすることを目指したとき、安保闘争が強く意識されたということである。日本で最初の広範な大衆運動の経験としての安保闘争の再帰が目標となったのである。そのことはそれまでの日韓会談反対運動からの転換を意味していた。
それまでの日韓会談反対運動は、大村収容所問題、帰国運動へのコミットに始まり、1961年の「日韓対連」の打ち出した運動方針においても「朝鮮の平和的統一支持」あるいは「日朝友好」の性格が前面に出されていた。それはいわば北朝鮮、総連の運動を支援する形の運動であった。北朝鮮、総連と連携した運動をずっと担ってきた社会党の石野久男や日本共産党の寺尾五郎らの中には、そのこと自体は問題ではないが、その中で日韓会談の問題が日本人の切実な問題としてではなく主として対岸の朝鮮の問題とされてきたという問題意識が芽生えていった。そして北朝鮮と総連が「お膳立て」した運動に対して協力するというスタンスを克服し、日韓会談は日本人にとっての問題であることを理解した上での連帯を彼らは目指していくことになったのであり、その課題克服のモデルとして意識されたのが安保闘争であったのである。つまり安保闘争のように、日韓会談の問題を日本人の問題として捉えることが目指されたのである。それh日韓会談反対運動を大衆運動にするべく日韓会談の問題点としての特質を日本社会へ浸透拡大させるための戦術であったわけだが、一方で次第に安保闘争の再帰こそが至上命題となっていった。
日韓会談の特質の中で社会党や日本共産党ら革新系団体が問題点と捉えたものは多岐にわたったが、そのうち、①東北アジア軍事同盟(NEATO)の完成、②日本独占資本の韓国進出、③朝鮮の平和統一の阻止と南北の分断状態の固定化、の3つへの反対が主要スローガンとして日韓会談反対運動は展開された。これらはアメリカの軍事戦略に巻き込まれる、あるいは日本が加担するといった切り口によるものであったが、次第にこの中でもアメリカの軍事戦略に巻き込まれることが、より重要な争点となっていった。そのことは、多岐にわたった日韓会談の他の争点を捨象することにつながった。
だが他方で、社会党、日本共産党が取り組んだ学習会や紙上ティーチ・インにおいては、デモや集会といった運動展開では捨象された日韓会談の他の争点が取り上げられていた。そこでの議論は、結果としてスローガンになることはなかったわけだが、そもそも、「間口が広くて短時間ではその本質をわかりやすく話すことはできない」ことこそが日韓会談の特質であり、安保闘争のような大衆運動になるには相当の時間と努力が必要だったのではないだろうか。
最後に、日韓会談の特質のひとつである植民地支配の責任という問題が、社会党や日本共産党が主催した学習会や機関紙/誌の中で提示され、さらに読者の中で議論されたことは注目されるべきだろう。ただ、日韓会談反対を唱えるならば植民地支配の責任にこそ目をむけるべきだという姿勢が出現してくる過程に、南日の12.13声明の影響力があったことは考慮すべきである。だがそれでも、上記のような機関紙/誌での取り組みは、日本社会における植民地支配の責任への気づきの契機となったということはいえるのではないだろうか。
終章
参議院本会議での4回目の強行採決により日韓基本条約および諸協定が批准された1965年12月11日、社会党は「日韓条約不承認宣言」を出して条約批准は不成立であり以下の2点を挙げて無効を宣言した。第一に「政府・自民党の暴挙につぐ暴挙によって強行採決」するという議会制民主主義を踏みにじる行為を糾弾した。第二に、日韓条約の締結がアメリカを中心とした日本、韓国、台湾における実質的な軍事同盟につながるということ、同時に日本の独占が韓国市場へ進出することがそのねらいであることを指摘した。これによって、日本が朝鮮の南北分断を固定化し、36年の植民地統治を清算するどころか、日本、朝鮮両民族の友好を妨げることになるとした。そして最後に、社会党は、「日本と朝鮮との正式かつ完全な平和的外交関係を確立するために奮闘する」と決意を表明した[258]。
だが、日韓国交正常化がなされて以降、社会党や関連団体による日韓反対を掲げた運動や集会は、急速に終息に向かっていった。機関紙/誌面においても、批准承認直後は運動の総括をはじめ民主主義の危機に関する特集、記事があったが、それも次第に見られなくなった。特に朝鮮の植民地支配の責任に関しては批准承認以降まったく見られなくなる。
本稿では、日韓会談に異議を唱えたにもかかわらず、なぜ社会党が植民地支配の責任追及を二次的とさせたのかという問いをたて、1950年から1965年の社会党の朝鮮認識と日韓会談への態度、さらに日韓会談への対応を通じての朝鮮認識の変化の有無を検討してきた。ここでは、社会党の朝鮮認識と日韓会談への態度を整理することで本論文の議論を総括する。
1950年代前半の社会党が日本の経済自立のために重視していたアジアとは中国と東南アジアであり、同じアジアの一部であるはずの朝鮮半島は軽視されていた。朝鮮戦争が勃発したことで、社会党は朝鮮半島に対する公式的態度を表明せざるを得なくなったが、不介入に力点がおかれたことからもわかるように朝鮮半島に対しては一定の距離が取られていた。
ところが、1955年に北朝鮮が日本に対して関係改善を呼び掛けたのに対して社会党が応答し交流を始めたことから、社会党と朝鮮半島との関係は転機を迎える。社会党の朝鮮半島政策は、あくまでも冷戦に加担しないという中立主義を根底にもった南北等距離外交路線であり、南北朝鮮の平和的統一が望まれた。だが、韓国とは李ライン問題の摩擦が増大する一方で、北朝鮮との直接交流が進展していくと、社会党は次第に北朝鮮へポジティブな印象を持ち始めた。とくに北朝鮮を訪問した議員が、韓国以上の経済的躍進を目の当たりにしたこと、また北朝鮮政府関係者による「数十年間の日本の支配」に対する発言から度量の大きさを感じとったことは、社会党の北朝鮮への印象に大きな影響を与えたといえるだろう。こうして次第に社会党は北朝鮮に接近し、一方で日韓会談への反対態度を明確にしていった。
このような党内の朝鮮半島政策に影響を与えたのは、訪朝議員であり日朝協会の会員であった。彼らの多くは、党内にできた対朝鮮半島外交専門機関の「朝鮮問題対策特別委員会」のメンバーとしても活躍した。日朝協会、「朝鮮問題対策特別委員会」というラインが党内の朝鮮半島政策に影響を与えていた。彼らと北朝鮮との共鳴関係によって、ようやく社会党は朝鮮半島への関心を高め始めた。それは北朝鮮か韓国かということではなく分断国家ではない「朝鮮」への関心の高まりの契機だったといえるのではないだろうか。
彼らは、北朝鮮との交流を契機に在日朝鮮人の問題にも関わった。大村収容所の収容者の歴史的背景と置かれた現状の厳しさ、在日朝鮮人の日本社会における苦境を知った彼らは、在日朝鮮人の帰国事業へ積極的にコミットすることになる。帰国事業において中心的役割を担った社会党の帆足計は、在日朝鮮人の厳しい状況を生み出した責任が過去の植民地支配と現在の日本政府の政策の貧困にあることを痛感した。また、在日朝鮮人の「祖国」への帰還要求の態度を目の当たりにしたことは、帆足に強い同情心と帰国させなければならないという義務感をもたらした。そして植民地支配の責任をとることと、「祖国」北朝鮮へ帰国させることとが同一視されていった。
そうした中で1962年、北朝鮮政府は、日本政府に対して植民地支配責任を明確に追及する12.13声明を出した。その内容は社会党をはじめとした日本の日韓会談反対運動の担い手に植民地支配の捉え方においてインパクトを与えた。声明以降、社会党の機関紙・誌の日韓会談の記事の中にも、従来みられなかった植民地支配の責任に関する記述が現れるようになる。
植民地支配の責任に関する論考を機関誌に発表したのは社会党の石野久男、日本共産党の寺尾五郎が中心であった。両者は日朝協会の会員であり、日朝協会を拠点に北朝鮮、総連とともに日韓会談反対運動を担い続けていた。
寺尾は、自身が中心となって1961年に日本朝鮮研究所を創設していた。寺尾と共に朝鮮研究所を支えた藤島宇内は、12.13声明以前の1961年に、雑誌『思想』に発表した論考「『日韓交渉』の思想と現実」の中で、植民地支配の責任に対する日本人の自覚の薄さを指摘している。こうした藤島の問題意識は、寺尾をはじめ朝鮮研究所においておそらく共有されていただろう。すなわち12.13声明以前から研究所内で植民地支配の責任意識が共有されていたと考えられる。とはいえ、社会党、日本共産党の機関紙/誌において植民地支配の責任への言及が増えたのが12.13声明以降であったことも確かである。北朝鮮政府の声明が植民地支配の責任への言及を後押ししたということはいえるだろう。
日韓会談を日本人の問題としてひきつけるべきだという課題の中で、日韓会談反対運動のあり方も、石野や寺尾らの間で議論の対象となっていた。それまでの日韓会談反対運動は、大村収容所問題、帰国運動へのコミットなど、北朝鮮、総連の運動を支援する形であったと彼らはとらえた。日韓会談の問題が日本人の切実な問題としてではなく、対岸の朝鮮の問題とされてきたことを問題視した彼らは、北朝鮮と総連が「お膳立て」した運動に協力するというスタンスは克服されるべきだと考えるにいたった。
その課題克服のモデルとして意識されたのが日本で最初の広範な大衆運動である安保闘争であった。当初は日韓会談の問題を安保闘争のように日本人の問題として捉えることが目指されたが、次第に安保闘争のような大衆運動の再帰だけが至上命題となっていく。日韓会談反対運動は、①東北アジア軍事同盟(NEATO)の完成、②日本独占資本の韓国進出、③朝鮮の平和統一の阻止と南北の分断状態の固定化、の3つへの反対を主要なスローガンとして展開された。だが、原子力潜水艦寄港やベトナムといった別の問題との関連から、次第に日韓会談反対運動においてもアメリカの軍事戦略に巻き込まれることが、より重要な争点となっていった。それは、多岐にわたった日韓会談の他の争点を捨象することにつながった。
その一方で、大村収容所問題、大村収容者を含めた在日朝鮮人の帰国の支援へ精力的に取り組んでいた社会党の石野久男や日本共産党の寺尾五郎が「日本人として」の日韓問題への取り組みにこだわり、藤島宇内が「人民の立場から植民地問題を見なおした感覚」が日本人に乏しいことを問題視したように、日韓会談反対を唱えるならば植民地支配の責任意識を持つべきだとする人々が一部に存在していたことは改めて強調しておきたい。彼らが上記経験を通じて朝鮮人、朝鮮半島との心的距離を縮めたことは、植民地支配の問題性、さらには植民地支配の責任意識が薄い日本社会に対してその理解を広めなければならないという思いを高めたのではないか。そして彼らのそうした行動はおそらく、日本社会における植民地支配の責任への気づきの契機の一つになったであろう。
だがそれは同時代的な潮流になることはなく、冷戦という状況にひっぱられた日韓会談反対運動は植民地支配の責任追及を後景に退かせた。冷戦分断に加担しないことを外交方針として掲げてきた社会党が、冷戦の文脈にあった日韓会談に反対したことはある意味当然の帰結ではあったが、逆説的にそれは冷戦の論理という枠組みにとらわれることにもなったのである。これが本稿の結論である。
日韓会談妥結以降の1960年代後半、1970年代になると、金嬉老公判対策委員会[259]や日立就職差別闘争[260]に象徴されるように、植民地支配の影響から出現した問題に対して在日朝鮮人が異議申し立てをし、それを知った日本人がともに闘う中で植民地支配の責任が意識されるようになる。だが日韓会談反対運動の中で植民地支配の責任意識の表出に影響を与えた北朝鮮や在日朝鮮人は日本政府には異議申し立てをしたが、社会党員をはじめとした日本人に対しては直接的な異議申し立てや責任追及をしなかった。むしろ、社会党や日本共産党らは日韓会談反対を闘っている連帯者としてみなされたのである。異議申し立てのこのようなあり方は植民地支配の責任意識の表出に影響したのではないだろうか。
社会党は1990年代以降、戦後補償問題に積極的に取り組み、また政権を担った95年には国会決議と村山首相による談話によって植民地支配への加害意識と謝罪の意思を示した。社会党の植民地支配の責任意識のあり方が、日韓会談期以降にどのように変容していったかは今後の課題として検討していきたい。
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【註】
[1]日韓会談は1951年10月から7次にわたり断続的に開催され、1965年6月22日の日韓基本条約及び諸協定の調印をもって終了した。諸協定とは日韓請求権並びに経済協力協定、日韓法的地位協定、日韓漁業協定、文化財及び文化協力に関する協定、日韓紛争解決交換公文のことである。
[2]例えば吉澤文寿は、日本の(日韓会談)反対運動勢力が東北アジア軍事同盟論、朝鮮南北統一阻害論、日本独占資本の対韓侵略論を運動の核心論理としたことを指摘し、同時に反対運動勢力の中心となった日本社会党や日本共産党といった革新政治勢力による反対運動では、日本による朝鮮植民地支配責任の追及への関心が相対的に低かったことを指摘している。吉澤文寿「日本における日韓会談反対運動―1960年代を中心に」pp.282-321。
[3]1990年代以降の社会党は北朝鮮との国交正常化交渉とともに、戦後補償問題へ積極的に取り組み、そのなかで「植民地支配に対する謝罪と補償」の追及がなされた。一方の日本共産党も90年より機関誌『前衛』でシリーズ記事「日本のアジア侵略の真の清算のために」を開始した。また91年12月に「慰安婦」3名が日本政府を提訴して以降、吉川参議院議員は国会での質問をはじめ「慰安婦」の個人補償要求支援に積極的な取り組みをした。さらに97年の第21回党大会決議第5項で、アジアにおいて平和と友好関係を確立するための「大前提」として侵略戦争と植民地支配への反省を明確にすることを強調するとともに、未解決の戦後補償問題への誠意ある解決を主張した。
[4]ここでいう国会決議の正式名称は「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」である。1995年6月9日に衆議院本会議で可決された。決議では日本が植民地支配と侵略的行為を行い、アジアの諸国民に苦痛を与えたとことへの深い反省の念が表明された。この決議は、同年8月15日に出された村山首相の談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」に繋がることとなった。ここで村山首相は「日本が国策を誤り、侵略と植民地支配によってアジア諸国民に損害と苦痛を与えたことに対して反省し、お詫びする」と述べた。
[5]吉次公介(2001)「日本社会党の対アジア外交―1950年代前半を中心に」『沖縄法学』30号。
[6]ペテル・デュラナ(2012)「日本社会党の対朝鮮半島政策の源流と展開-─九五○年代野党外交における未発の可能性」『歴史としての日韓国交正常化Ⅰ 東アジア冷戦編』、法政大学出版会。
[7]畑田重夫(1965)「日韓会談反対闘争の発展とその歴史的役割」、旗田巍ほか『アジア・アフリカ講座日本と朝鮮』、勁草書房。
[8]吉澤文寿(2005)『戦後日韓関係―国交正常化交渉をめぐって』、クレイン。
[9]朴正鎮(2012)a『日朝冷戦構造の誕生 1945―65 封印された外交史』、平凡社。
[10]辛貞和(2000)「日本の北朝鮮政策(1945-92)―国内政治力学の観点から」『慶應大学法学研究科』。
[11]分析にあたって使用した検索ワードは、「朝鮮」、「日韓」(日韓会談、日韓交渉、日韓問題等)、「大韓民国」(韓国、南鮮含む)、「朝鮮民主主義人民共和国」(北朝鮮、北鮮含む)、「在日朝鮮人」、「李ライン」、「大村収容所」、「帰国」(帰国問題、帰国運動等)、「日韓会談反対運動」(日韓反対闘争含む)などである。
[12]原彬久(2000)『戦後史の中の日本社会党』中央公論新社、pp.5-12。
[13]西尾末広(1971)『大衆と共に―私の半生の記録』、日本労働協会、p364。
[14]月刊社会党編集部(1976)『日本社会党の三十年』日本社会党中央本部機関紙局、pp.110-112。
[15]原、前掲書、p65。
[16]同上、pp.134-135。
[17]吉次公介(2001)「日本社会党の対アジア外交―1950年代前半を中心に」『沖縄法学』30号、p64。
[18]原、前掲書、p72。
[19]社会党中央委員会(1985)「我らはなぜ全面講和を主張するか(1950年7月8日)」、日本社会党結党40周年記念刊行委員会編『資料日本社会党四十年史』日本社会党中央本部、pp.216-222。
[20]『社会新聞』1950年6月20日(大原社会問題研究所・新840-2-1)。
[21]その上で同条(b)項において連合国の賠償請求権の放棄を定めた。
[22]従来の賠償方式である実物賠償や金銭賠償は含まれず、日本は請求国に対し役務を供与する形のみをとった。すなわち原材料が日本にないときには請求国がそれを提供し国内で生産することになり、それは日本経済の成長を助ける側面ももっていた。また当時日本は手持ちの外貨が乏しかったが、賠償では貴重な外貨は使用せずにモノとヒトを動かせたため日本にとって非常に有利に作用した。
[23]渡辺昭夫(1992)『アジア・太平洋の国際関係と日本』、東京大学出版会、p82。
[24]『社会新聞』1946年9月28日。中北浩爾(1998)『経済復興と戦後政治』東京大学出版会、p270。
[25]党外交委員長・和田博雄「講和条約及び日米安全保障協定賛否に関する外交委員会報告(1951年10月2日)」、日本社会党結党40周年記念刊行委員会編(1986)前掲書、p240。
[26]こうした主張は、賠償による産業施設法が多くの失業をもたらす、という労働組合がもつ懸念と結びついていた。中北前掲書、p272。またドッジ・ライン以降の深刻な不況もその背景にあったと吉次は分析している。吉次前掲書、p67。
[27]荒敬(1994)『日本占領史研究序説』、柏書房、p243。
[28]荒、前掲書、pp.73-74。
[29]社会党が講和問題および安全保障問題に関連して党の立場を明確にしたのは、1949年2月4日、中央執行委員会が決定した「講和問題に対する党の一般的態度」においてであった。この文書は「全面講和」・「中立」・「軍事基地反対」すなわち「平和三原則」発祥の文書となった。「平和三原則」それ自体が中執委で正式に決定したのは1年後の1950年12月であった。原、前掲書、p67。
[30]例えば、同大会の議論で右派の西村栄一は「再軍備反対」を批判し、次のように主張している。「日本が独立を主張するには自衛力が必要で共産主義が日本を侵略しようとしている時、党は、これに対し具体的な自衛政策が立てられない」『朝日新聞』1951年1月22日(1)。
[31]原、前掲書、p81。
[32]「和田報告書」日本社会党結党40周年記念刊行委員会編(1986)、前掲書、p238。
[33]同上。
[34]原、前掲書、p83。
[35]原、前掲書、p90。
[36]総評四十年編集委員会(1989)『総評四十年』、総評資料頒布会、p71。
[37]一説には、これは総評の変化を当時のGHQ労働組合担当者が、「役立たず(lame duck)になった」と罵ったのを通訳が理解できず、「アヒルになった」と直訳したからだとされている。
[38]日本社会党50年史編纂委員会(1996)『日本社会党史』 社会民主党全国連合、p216。
[39]坂本守(1981)『社会党・総評ブロック―その形成・発展と崩壊過程』、日本評論社、p35。
[40]原、前掲書、pp.83-87。
[42]吉次、前掲書、p73。
[43]『党活動』1952年9月10日。
[44]社会主義インター(社会主義インターナショナル)は、1951年に設立された社会主義・社会民主主義諸党による国際連絡協議機関であり、1947年にコミンフォルムに対抗して結成された国際社会主義協議会(COMISCO)がその前身であった。川田侃・大畠秀樹編(2003)『国際政治経済辞典 改訂版』東京書籍。
[45]『党活動』1952年1月10日(国立国会図書館憲政資料室『只松文書』455)。
[46]アジア社会党会議は、社会主義インターの植民地解放への消極姿勢に批判を強めたインド、インドネシア、ビルマの社会主義政党により設立されたアジア独自の国際的社会主義組織であり、①植民地主義、②資本主義と帝国主義がもたらした経済的不均衡、③政治的軍事的不均衡を生じさせている「勢力圏政策」、及び問題を一層困難にしている冷戦、といったアジアの平和と安定を阻害する諸問題の解決を目指した。日本社会党国際局編(1956)『アジア社会党会議 社会主義インターナショナル』日本社会党出版局、pp.8-21。(大原社会問題研究所・鈴木茂三郎文庫10-2-25)
[47]『社会タイムス』1954年3月16日(1)。
[48]『党活動資料』1952年1月10日(7)(国立国会図書館憲政資料室『只松文書』455)。
[49]『党活動』1953年9月30日。
[50]「1954年度党外交方針」『党活動』1954年2月20日(13)(国立国会図書館憲政資料室『只松文書』458)。
[51]鈴木茂三郎「アイゼンハワー、マレンコフ、毛沢東、チャーチル宛の左社委員長書簡(1953年3月)」、(資料日本社会党50年刊行委員会、日本社会党中央本部機関紙広報委員会編(1995)『資料日本社会党50年』、資料日本社会党50年刊行委員会、p101-102)。【鈴木茂三郎からマレンコフ宛】,“Letter welcoming the possibility of peace,”14 February 1953,(大原社会問題研究所・鈴木茂三郎文庫10-2-16-40)。
[52]両社統一交渉委員会「綱領政策問題整理案」1955年7月23日、日本社会党結党40周年記念出版刊行委員会(1985)、前掲書、pp.297-299。
[53]『日本社会新聞』1952年5月3日。
[54]「独立後日本の外交方針」『情報通信』1952年1月1日。(国立国会図書館憲政資料室『藤牧文書』2-5-2)
[55]J・A・Aストックウィン(1969)『日本社会党と中立外交』、福村出版、p89。
[56]『情報通信』1955年1月25日、p4(『藤牧文書』165)。
[57]「感情的な反西欧主義と、観念論からアジアの孤立化や、封建勢力及び共産陣営の利用に陥らざる様現実的な反省をアジア、アラブ諸国に求め、進んで日本自らが東西民主主義勢力の架橋たらねばならぬ」『情報通信』1955年1月25日、p5(国立国会図書館憲政資料室『藤牧文書』165)。
[58]曽禰益、松沢兼人、山下栄二「社会主義インターナショナル主催『未開発地域に対する社会主義政策』起草委員会報告」1952年2月24日、pp.8-9(『藤牧文書』71)。
[59]『日本社会新聞』1953年1月7日(大原社会問題研究所・新840-2-3)。
[60]1951年9月25日、GHQシーボルト外交局長が日本政府に対して、GHQの立ち合いの下で在日朝鮮人の法的地位問題について、日韓間で討議するように指示し同年10月20日~11月28日に予備会談が行われた。吉澤、前掲書、p36。
[61]加藤晴子(1980)「戦後日韓関係史への一考察―李ライン問題をめぐって―(下)」『日本女子大学文学部紀要』29号、p20。
[62]『党活動』1952年11月10日(2)。
[63]同上。
[64]海上保安庁総務部政務課編(1979)『海上保安庁30年史』、p27。
[65]左社については『読売新聞』1953年2月27日(1)、右社については『読売新聞』1953年2月23日夕刊(1)をそれぞれ参照されたい。
[66]『読売新聞』1953年9月30日(2)。
[67]「【李承晩大統領宛】要請書」1953年9月29日(大原社会問題研究所・鈴木茂三郎文庫10-2-16-20)。
[68]ペテル・デュラナ、前掲書、pp.187-188。
[69]『日本社会新聞』1953年9月19日(1)。
[70]1960年春までは日本社会では日韓といえば「李ライン問題」と捉えられていた。『月刊社会党』1961年4月号。
[71]吉澤、」前掲書、p54。
[72]三谷文栄(2011)「日韓国交正常化交渉をめぐるメディア言説の変遷-政治的正当化とフレーム分析の観点から―」『法学政治学論究』第91号、pp.88-89。
[74]『読売新聞』1953年10月22日(1)。
[75]『読売新聞』1953年10月21日夕刊(1)。
[76]『党活動』1953年11月10日(6)。
[78]『第10回国会衆議院本会議会議録』第8号、1953年6月17日。
[79]『日本社会新聞』1953年10月31日 (1) (大原社会問題研究所所蔵)。
[80] ペテル・デュラナ前掲書、p184。
[81]「北朝鮮外相南日声明」(1955年2月25日)神谷不二編(1978)『朝鮮問題戦後資料 第2巻」日本国際問題研究所、p444。
[82]辛貞和、前掲書、p36。
[83]1955年7月には米国、ソ連、英国、フランスによる東西四大国首脳が参加したジュネーブ会談が開かれ、「平和共存」に意見の一致をみたのである。この会談を契機に、東西陣営間の戦争が不可避であるという前提は崩れるようにみえた。朴正鎮(2005)a「日韓国交正常化と日朝関係の非正常化」高崎宗司、朴正鎮編著『帰国事業運動とは何だったのか』、平凡社、p60。
[84] ジュネーブ会議は1954年4月から7月まで、朝鮮問題およびインドシナ問題を平和的に解決するという趣旨の下で、米・ソ・英・仏のほか、中国、朝鮮、ベトナムなどの関係諸国が参加して行われた。朴正鎮(2005)a、前掲書、p61。
[85](1)領土保全と主権の相互尊重、(2)相互不侵略、(3)相互の内政への不干渉、(4)平等および互恵、(5)平和的共存 川田・大畠、前掲書、p696。
[86]朴正鎮(2005)a、前掲書、p62。
[87]中ソ間にみられるこうした見解の相違は、その後論争に発展していくことになる。他方、中国のこうした動きはアメリカにとって「単なるソ連の手先ではない地域的な脅威として認識され・・・もとより選択肢の一つであった米国の対中強硬政策を現実化する契機となった」。湯浅成大(1994)「アイゼンハワー期の対中国政策」(日本国際政治学会編『国際政治』第105号)。
[88]1955年以降「平和五原則」は第三世界へさらに広がり、同年4月に開催されたバンドン会議へとつながっていった。この会議を契機に第三世界、すなわちアジア・アフリカ地域の新生独立国家が新たな中立勢力として国際舞台へ登場することになる。この会議で採択された「世界平和および協力の増進に関する宣言」は、反植民地主義、反帝国主義、国連による国際紛争の解決などを主内容としており、基本的に北朝鮮の外交原則と合致したものだった。朴正鎮(2005)a、前掲書、p63。
[89]同上。
[90]辛貞和、前掲書、p38。
[91]田中稔男議員の質問に対する鳩山首相の答弁。「善隣とは友好の実をあげたいと思っております。北鮮の方でも何か用意をしておるようでありますから、近いうちにそういうような相談ができるかと思っております。」『第22回国会衆議院予算委員会会議録』第3号、1955年3月26日。
[92]『第22回国会参議院本会議会議録』第26号、1955年6月22日。
[93] その基調となる認識は重光葵外相の以下の発言。「韓国が国連で承認されており、日本も韓国の代表部を迎えて事実上承認している。韓国との関係を正常化することが基本であり、世界情勢の変化、南北朝鮮の融和を持って北朝鮮への対策が生まれてくる」。さらに、石橋内閣の岸外相は翌56年2月9日の衆議院予算委員会で「南北朝鮮の調整も日本の大きな使命であるが、北朝鮮の考え方、国際環境、情勢が複雑なので、今直ちに北朝鮮と友好関係をつくることは難しい」と発言した。辛貞和、前掲書、p39。
[94] 「日本に住む朝鮮人―貿易商や、学生や、そのほかの集団―を利用[できるかもしれない]。たとえ民間の個人でも関係さえできれば、それをツテに南を代表する誰かとのつながりができるかもしれないし、祖国統一問題解決のための南北政府間会談に向けての動きが促進されるかもしれない。こうした狙いを念頭に、朝鮮政府は在日同胞の物資面での支援が不可欠だと考えている」テッサ・モーリス=スズキ(2007)『北朝鮮へのエクソダス「帰国事業」の影をたどる』、朝日新聞社、p145。
[95] 同上。
[96]だが、朝連が日本共産党と密接な関係を持ち左翼化する中で、これをきらう在日朝鮮人もいた。こうした中から1946年10月3日、在日本朝鮮居留民団(以下、民団)の結成にいたる。民団は、朝連のように日本社会における権利擁護について在日朝鮮人により直接的な行動をとるのではなく、日本政府と協調し、本国政府の実力をもって解決すべだと考えた。鄭栄桓(2011)「「解放」後在日朝鮮人運動と「二重の課題」―在日本朝鮮人連盟を中心に」(五十嵐仁編著『「戦後革新勢力」の奔流―占領後期政治・社会運動史論1948―1950』、大月書店、p335)。
[97]日本共産党との関係のみならず、北朝鮮や中国といった国際共産主義勢力との関係からGHQと日本に脅威と捉えられた朝連は団体等規正令により1949年9月に解散を命じられた。
[98] 辛貞和、前掲書、p33。
[99]日本国内での「在日朝鮮人運動」の路線転換すなわち総連結成の意味と北朝鮮の対日政策の転換との関係性についての国際的側面と北朝鮮の国内的側面からの検討については朴正鎮(2005)b「帰国運動の歴史的背景―戦後日朝関係の開始」高崎宗司、朴正鎮編著『帰国運動とは何だったのか 封印された日朝関係史』、平凡社を参照されたい。
[100] ペテル・デュラナ、前掲書、p189。
[101]原、前掲書、p111。
[102]中北、前掲書、p972。
[103]古屋貞雄(社・衆)を団長とする第一次日本国会議員団のメンバーは、原茂(社・衆)、永岡光治(社・参)、高津正道(社・衆)、長谷川保(社・衆)、佐々木良作(社・衆)、前田栄之助(社・衆)、石野久男(労・衆)。(『アカハタ』1955年10月20日(1))第二次訪朝団は団長に帆足計(社・衆)、ほか田原春次(社・衆)、大西正道(社・衆)。神谷不二(1978)、前掲書、p449。
[104]朴正鎮(2012)a、前掲書、p184 。
[105]辛貞和、前掲書、p40。
[106]両訪朝団長のプロフィールは以下のとおりである。古屋は農民運動家出身で戦前に朝鮮で弁護士として活動した経験を持っていた。(朴正鎮(2012)前掲書、p189)。帆足も戦前、日本産業協議会事務局長、商工省参与として満州及び朝鮮で活動したことがあった。(社会運動調査会編(1963)『左翼団体事典 1964年版』武蔵書房、p510)。また両親と末弟の墓も朝鮮半島北部にあることについて帆足自身が国会で証言している。(『第24回国会衆議院外務委員会会議録』第5号、1956年2月14日)。
[107]『社会新報』1956年3月5日。
[108] その要点は、①政府への日韓交渉要求、②国会議員団の韓国派遣の提案、③米国に必要な措置を急速に講ずるような要請、④第三国を通しての国連への提訴の促進、⑤韓国による拿捕の被害者への保障その他の金銭的な援助というものだった。
[109]『日本社会新聞』1956年12月10日(1)。
『日本社会新聞』はもともと右派社会党の機関紙であった。だが左右統一決定を機に、その性格を変え右派社会党とは離れて独自に刊行が続けられることになった。ただ一般紙よりは社会党の政策に力点が置かれているため、統一後の社会党の動向を知る上で貴重な資料である。
[110]今澄勇「日韓問題解決を急げ―積極的なわが党の具体策」『日本社会新聞』1956年12月17日。
[111]「日韓対策特別委員会」日本社会党本部『昭和32年度上半期党務報告書(1957年6月27-28日)』(大原社会問題研究所・鈴木茂三郎文庫08-12-15-28)。
[112] 「日朝関係正常化促進に関する決議」『日本と朝鮮』1957年2月5日。
[113] ペテル・デュラナ、前掲書、p193。
[114] 日朝協会は1957年2月の第2回全国理事会で「日韓会談に対する要望書」を採択し、日韓会談反対の立場を明確にした。朴正鎮(2012)a前掲書、p212。
[115]『日本と朝鮮』1957年3月5日。
[116]『日本と朝鮮』1957年3月5日。
[117]「対朝鮮方針をたてよ―協会、社会党議員に要望」『日本と朝鮮』1957年6月5日。
[118] 石野は労農党出身だが1957年1月16日、労農党が社会党に合流したため社会党員となった。
[119]「鈴木社会党委員長が金日成首相にメッセージ」『日本と朝鮮』1957年8月5日・20日合併号。
[120]「朝鮮問題特別委員会」の構成:委員長・松浦清一(留任(以下、留))、副委員長・今澄勇(留)、副委員長・石野久男(新任(以下、新))、事務局長・赤路友蔵(留)、以下委員・今村等(留)、木原津与志(留)、有馬輝武(留)、吉田法晴(留)、安部キミ子(留)、森島守人(留)、中居英太郎(留)、井谷正吉(留)、中崎敏(新)、古屋貞雄(新)、田中幾三郎(新)、松岡駒吉(留)、佐々木良作(新)、足鹿覚(新)、三宅正一(新)、相沢重明(新)。
上記メンバーのうち、石野、安部、古屋、松岡、相沢は日朝協会で常任理事職についていた。また石野、吉田、安部、古屋、佐々木、そして松岡駒吉の死亡により後に同委員会に参加した帆足計と大原正道は訪朝経験者であった。朴正鎮(2012)a、前掲書、p297。
[121]同上、p298。
[122]同上、p491。
[124]加藤晴子(1979)「戦後日韓関係史への一考察(上)」『日本女子大学文学部紀要』28号、p31。
[125]また、「保険金もおりずに、その日その日の生活に困り、ただいまでは売るものも売り尽し、ただ一枚のふとんを身にまとう、そのふとんをこの寒空に売って食べるという状態に置かれている家族も少くない」という長崎県の抑留漁船員家族による発言もあった。
[129]『第23国会衆議院農林水産委員会議録』第4号、1955年12月7日。(自民党田口長治郎による法務大臣への質問)によれば、「住所を申しますと、バラック建である、八畳の間に二十人から二十一人の人を追い込んでおる。ここには電灯も何もない。そして食事なんかを見ますと、丸麦と大豆、それにごく形ばかりの米を使っておる。副食物に至りましては塩の汁である。それにたった一個の梅ぼしをつけておる」と紹介されている。
[130]戦後に朝鮮半島南半部である韓国より日本へ「不法入国」した韓国人と戦前より在日していた朝鮮人のうち刑罰対象となることで強制退去者対象となった者が大村収容所には収容されていた。韓国政府は彼らをすべて韓国人と呼称した。だがその対象者の中には北朝鮮への帰属を望む者もいた。
[131]『読売新聞』1955年9月3日夕刊(1)。
[132]加藤(1979)、前掲書、p32。
[133]法務省入国管理局(1959)『出入国管理とその実態』、p92。
[134] ④の退去強制事由には「不法入国」、外国人登録違反も含まれたが、それら以外の刑余者を「追放」するという趣旨もあった。
[135]飛田雄一(1986)「GHQ占領下の在日朝鮮人の強制送還」『季刊三千里』48号、pp.70-78。挽地康文(2005)「大村収容所の社会史(1)―占領期の出入国管理とポスト植民地主義」『西日本社会学会年報』第3号、p90。
[136]1946年5月に出されたSCAPIN-927「引揚に関する総司令部覚書」になると、朝鮮人を含めた旧植民地出身者の再渡航(再入国)を禁止しており、GHQも旧植民地出身者の入国管理に積極的に関与したことがわかる。挽地、前掲書、p88。
[137]1946年3月までは自主的帰国も含め94万人が帰国したが、同年4月以降、それは急速に減少した。さらに3月からは、朝鮮半島からの日本への渡航者、再渡航者が増加していた。その要因は、在日歴の長かった朝鮮人が朝鮮半島へ帰還したもののそこに生活の場を見出すことが困難だったこと、同時に当時の朝鮮半島が政治的、経済的に非常に不安定だったことが挙げられるだろう。とくに、後者については、1948年におきた済州島四.三事件、1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争などが渡航者、再渡航者を増加させることになった。同上。
[138]1946年4月には内務省によって「不法入国」の統計が開始されていた。挽地、前掲書、p88。
[140]大韓民国外務部(1959)『外務行政의十年』、pp.170-171。
[141]『社会タイムス』1952年7月26日。
[142]『社会タイムス』1952年10月25日。
[143] 収容所内における南北対立は収容所の自治会を中心に発生していた。自治会は収容者が増加したことに伴い設置されたもので、収容所当局の事務執行を簡素化するための補助的役割を果した。問題は自治会が収容所当局のみならず、韓国駐日福岡領事官とも連携していたことだった。この自治会の周辺に集まる韓国支持グループは通称「南組」と呼ばれた。一方、韓国に送還された場合処罰の対象となる者を含めた北朝鮮帰国希望者の増加は、「南組」と対立する「北組」形成の契機となっていった。両者間の対立は次第に激化していった。朴正鎮(2012)a、前掲書、pp.100-101。
[144]この懇談会には高津正道、長谷川保、帆足計、田原春次、佐々木良作(以上社会党衆院議員)、石野久男(労衆)、吉田法晴、安倍キミ(社参)氏などの朝鮮訪問議員団、日朝協会畑中政春、総連の李起珠外務部長、日本共産党の志賀義雄氏が参加した。『アカハタ』1956年1月31日(3)。 ※この当時、石野はまだ労農党党員であった。
[145]『アカハタ』1955年11月3日(1)。
[146]朴正鎮(2012)a、前掲書、p195。
[147]ただし、顧問職に自民党の楢橋渡参議院議員も参加するなど日朝協会は「超党派組織」としての性格を持っていた。朴正鎮(2012)a前掲書、pp.195-196。
[148] 『アカハタ』1956年1月21日(3)。
[149]『アカハタ』1958年2月5日。
[150]同調査団団長は日朝協会常任理事の安部キミ子(社会党)、副団長は石井あや子(婦民書記長)であり、その他に松尾久吉(長崎県評事務局長)、間宮茂輔(作家)、谷川正太郎(日朝協会都連理事)、河田賢治(日共中央委員)、市村豊(群馬県民の平和運動本部)、関貴星(日朝協会岡山県副支部長)、上田誠吉(自由法曹団幹事)などで構成された「釜山、大村収容所実情調査団員名」『日本と朝鮮』1958年3月20日。
[151]「大村に調査団を派遣、日韓問題対策連絡会議生る」『日本と朝鮮』1958年2月5日。
[152]「日韓問題連絡会議決議(1958年3月13日)」『日本と朝鮮』1958年3月20日。
[154]日刊労働通信社編『最近における日共の基本戦略戦術6』、pp.964-965。
[155]朴正鎮(2012)a、前掲書、p 294。
[157]日本赤十字社「在日朝鮮人の帰国問題はなぜ人道問題であり緊急処理を要するのか」1959年1月30日、金英達・高柳俊男(1995)、新幹社、p35。
[159]「第四回原水爆禁止世界大会、日朝国交正常化を決議」『日本と朝鮮』1958年9月20日。
[160]朴正鎮(2012)a、前掲書、p304。
[161]朴正鎮(2012)a、前掲書、p306。
[162]辛貞和、前掲書、p46。
[163]『アカハタ』1958年10月11日(1)。
[164] ペテル・デュラナ、前掲書、p194。
[165]代表委員:岩本信行(衆議院議員、自民党)、有田八郎(元外務省)、太田薫(総評議長)、山本熊一(元外務次官、日朝協会会長)、平林たい子(作家)、顧問:鳩山一郎(元内閣総理、自民党)、浅沼稲次郎(社会党書記長)、下中弥三郎(平凡社社長)、松本治一郎(日中友好協会会長)、石井漠(石井舞踊研究所長)、楢橋渡(衆議院議員、社会党)、風見章(日中国交回復国民会議理事長)、野溝勝(全日本農民組合連合会代表委員)、大山柳子(日本国民救援会会長)、平野義太郎(日本平和委員会理事長)、藤間身加栄(婦団連会長)、直村環(キリスト教布教会会長)、野坂参三(日本共産党中央委員会議長)、来馬琢道(元参議院議員)、塩入亮忠(元大正大学会長)、河崎なつ(日本母親大会議長)、会計監査 鈴木一雄(日中貿易会常任理事)、山田孝毅(日朝協会常任理事)、幹事長:帆足計(衆議院議員、社会党)、事務局長:印南広志(日朝協会常任理事)。朴正鎮(2012)a、前掲書、p307。
[166]「日本赤十字社と朝鮮民主主義人民共和国赤十字社との間における在日朝鮮人の帰還に関する協定」。
[169]「朝鮮問題特別委員会・国際局 合同会議報告」(1958年10月16日)(大原社会問題研究所・鈴木茂三郎文庫08-2-15-17)。
[170]「在日朝鮮人の帰国促進協力に関する決議」日本社会党本部『第16回定期全国大会党務報告書(1959年9月12-15日)』、p127(大原社会問題研究所・戦後社会運動資料5-27)。
[171]帆足計・望月優子対談(1959)「難渋する北朝鮮帰還問題―あずかった子を返そうと申すのに」『週刊明星』14号、p17。
[172]帆足計(1959)「朝鮮人帰国問題の実相」『外交時報』967号、pp.60-61。
[173]帆足計「帰国朝鮮の友に学ぶ」『日本と朝鮮』1961年1月25日(1)。
[174]「張勉の施政方針演説」(『京郷新聞』1960年9月30日)神谷不二(1978)、前掲書pp.391-394。
[175]よく知られているように、安保闘争は日本で最初の広範な大衆運動であった。安部齊ほか編(1999)『現代政治学小辞典[新版]』、有斐閣。
[176]「朝鮮の平和的統一を考えるさい、常に大きな障害となる韓国の問題、したがってまた日韓関係の問題を究明して方針をたてる必要が痛感された」日朝協会(1960)『日朝友好運動10年のあゆみ』、p57。
[177] 朴正鎮(2012)a、前掲書、p433。
[178]「日韓問題研究懇談会開く」『日本と朝鮮』1960年4月25日。日朝協会主催の同懇談会にて、参加者30名により「日韓会談」阻止運動に関して討議した結果、「日韓問題対策連絡会議」を設置し日韓会談阻止の行動拠点とすることが決定された。朴正鎮(2012)a、前掲書、p433。
[179]「1960.10.25の『声明』から抜粋」『月刊社会党』、1962年2月号、p23。
[180]「宋影委員長が談話」『日本と朝鮮』、1961年2月25日。
[181] これは中ソ両国が日本の中立化を求めたこと、日本共産党が1959年1月に開催した第4回中央委員総会で「日本の中立化についての態度」を決議採択したという一連の動きと関係していた。
[182]吉澤、前掲書、p285。
[183]『日本と朝鮮―大会決定特集号』1960年2月25日。
[185]同上。
[186]労働省編(1963)『資料労働運動史 昭和三六年』労務行政研究所、p713。
[187] その理由として畑田重夫は、韓国の政治急変と政権交代は日韓会談の妥結を当分不可能にするだろうとの情勢判断が反対運動勢力でなされたためだったのではないかと分析している。畑田、前掲書、p190 。
[188]当時の主たる目標は「政暴法粉砕」に置かれていた。同上、p171。
[189]木宮正史(2001)「1960年代韓国における冷戦外交の三類型―日韓国交正常化、ベトナム派兵、ASPAC」小此木政夫、文正仁編『市場・国家・国際体制』慶應義塾大学出版会、p98。
[190] 同上、 p99。
[191]「第五回全国常任理事会、連鎖集会開催を決定」『日本と朝鮮―日韓会談特集号』1961年11月15日。
[192]「主張、全国連鎖集会を成功させよう」『日本と朝鮮』1962年1月15日。
[193]1961年7月27日の第8回党大会で採択。『アカハタ』1961年7月29日。
[194]社会党の活動目標は「社会主義への道程」として「現在の独占の支配を具体的につき崩し、権力の獲得に接近するために勤労国民大衆を結集すること」を掲げた。そして、その指針は「国の政策を変えること、つまり独占の利益本位の政策を国民の利益の方向に変えること」と「資本主義の土台である資本主義の構造(生産関係)の中に労働者が介入して部分的に改革をかちとること」であるとした。「このように生産関係(構造)に介入し、これの部分的な改革を通じて、次第に搾取の根幹を掘り崩していくところから、われわれはこれを『構造的改革』と呼んでいるわけである」『社会新報』(1961年1月1日付論説) 資料日本社会党50年刊行委員会、日本社会党中央本部機関紙広報委員会編(1995)、前掲書、p264。
[195]同上、p268。
[196]「外交方針に関する件」日本社会党本部『第16回定期大会全国大会議案(1959年9月12日-15日)』(大原社会問題研究所・戦後社会運動資料5-26)。
[197]社会党中央委員会「日朝関係打開のための声明(1960年5月)」日本社会党結党40周年記念出版刊行委員会(1985)前掲書、p443。
[198]日本社会党結党40周年記念出版刊行委員会(1985)前掲書、p443。
[199]朴正鎮(2012)a、前掲書、p436。
[200] 同上。
[201]日朝協会議員団会議の構成員は以下のとおり。猪俣浩三、石村英雄、稲葉修、緒方孝男、大原亨、岡田春夫、川上貫一、木原津与志、久保田豊、黒田寿男、志賀義雄、島上善五郎、田中織之進、田辺誠、田原春次、高津正道、戸叶里子、中村英男、楢崎弥之助、成田知巳、西村関一、西村力弥、長谷川保、原茂、原彪、帆足計、穂積七郎、細迫兼光、前田栄之助、松本七郎、三宅正一、武藤山治、八百板正、山本幸一、湯山勇(以上衆議院)、相沢重明、亀田得治、重盛寿治、坂本昭、須藤五郎、竹内五郎、永岡光治、野溝勝、松本治一郎、大和与一、吉田法晴(以上参議院)。「院内活動強める、日朝協会議員団会議生る」『日本と朝鮮』1962年1月15日。
[202]「第12号議案 日韓会談に反対しその中止を要求する件(1962年1月22日)」日本社会党本部『第21回定期全国大会議案(1962年1月20日~23日)』。(大原社会問題研究所・戦後社会運動資料5-30)。
[203]労働省編(1964)『資料労働運動史 昭和三七年』労務行政研究所、pp.665-666。
[204]社会運動調査会、前掲書、p10。
[205]畑田、前掲書、p183。
[206]朴正鎮(2012)a、前掲書、p271。
[207]『前衛』1962年2月号、pp.39-41。
[210] 同上。
[211] 同上。
[212] 畑田、前掲書、p185。
[213] 同上、p186。
[214]『前衛』1963年3月号、p107。
[216]『月刊社会党』1962年2月号、pp.21-22。
[217]同上、p25。
[218]同上。
[219]編集部による特集記事の冒頭で「本論文をまとめるに当たって「日韓対連」事務局長石野久男氏ほか、活動家、専門家諸氏のひじょうな協力をあおいだこと」が付された。同上、p2。
[220]『前衛』1962年12月号、p118。
[221]同上、p119。
[222]板垣竜太(2010)「日韓会談反対運動と植民地支配責任論―日本朝鮮研究所の植民地主義論を中心に」『思想』1029号、p224。
[223]『アカハタ』1962年12月16日(3)。
[224]高崎宗司(2005)「寺尾五郎の朝鮮論」高崎宗司、朴正鎮編著『帰国運動とは何だったのか 封印された日朝関係史』、平凡社、p278。
[225]日本朝鮮研究所の成立の経緯に関しては、和田春樹(2005)「日本朝鮮研究所を考える」和田春樹・高崎宗司『検証日朝関係60年史』明石書店、pp.56-57を参照されたい。
[226]寺尾五郎「日朝友好運動の中での学習活動について」『朝鮮研究月報』1964年2.3月合併号、P42。
[227]安藤彦太郎編著(1964)『日・朝・中三国人民連帯の歴史と理論』、日本朝鮮研究所。
[228]藤島宇内(1961)「『日韓交渉』の思想と現実」『思想』no.441、岩波書店、pp.367-368。
[229] 『月刊社会党』1965年9月号、pp.23-24。
[230]『アカハタ』1962年10月9日(3)。その他、『アカハタ』1965年10月21日(4)号外再録では、「日韓条約は戦争と新約の条約です 米日「韓」台軍事同盟のたくらみ」というタイトルが掲げられた。
[232]社会運動調査会、前掲書、p11。
[233]米国は、日本政府に対して乗務員の休養、水などの補給を目的とした米原潜の寄港を申し入れていた。「いわゆるポラリス潜水艦ではなく、原子力をあくまで動力として使用した核装備を持たないノーチラス型潜水艦だ」との説明に、政府は安保条約に照らして問題なしとしたが、社会、共産両党をはじめ科学者たちから反対の声が続出した。だが政府は1963年8月、寄港受け入れを正式に決定した。
[234]『社会新報』1963年2月3日(6)。
[235]中ソ論争以後、日本共産党は、米国との協調を目指すソ連の平和共存政策を「修正主義」だと批判したが、社会党はこれを支持していた。その上で社会党・総評は、核兵器生産・保有・使用禁止に関して、世界のすべての国を対象としなければならないと主張した。これに対し日本共産党は、社会主義諸国の核保有は「核戦争を防止するために余儀なくされた防衛的措置」だとしてこれを容認した。
また、米英ソ三国による部分的核実験停止条約に関して、社会党・総評が「原水爆禁止運動の成果」だとして、同条約を歓迎した一方で、日本共産党は「地下核実験による核兵器開発を合理化するものであり、米、ソを軸とする核兵器独占体制の維持と、それを前提とする米、ソ間の妥協をはかり、アメリカ帝国主義の核脅威をたすけ、核兵器全面禁止と核戦争阻止という根本課題から世界人民の目をそらせるもの」だと辛辣に批判した。日本共産党中央委員会(1994)『日本共産党の七十年(上)』新日本出版社、p311。
[236]公安調査庁(1966)『日韓条約反対闘争の総括』、p7。
[237]日本社会党本部「第24回定期全国大会議案(1964年12月8日~11日)」、p3。(大原社会問題研究所・戦後社会運動資料5-37)。
[239]一方、日本共産党は、1964年11月の第9回党大会で、日韓会談に対する基本方針は安保条約の限定期限終了の1970年を一つの焦点とするとして、より長期的な観点で「統一戦線を目指す」ことを決定した。日本共産党(1988)『日本共産党の六十五年1922-1987(上)』日本共産党中央委員会出版局、pp.220-221日韓基本条約案仮調印時には党中央委総幹部の名で「アピール」が発表され、1965年6月22日の基本条約締結時にも、中央委員会幹部会がその無効と「即自破棄を要求して戦うこと」を宣言したが実践行動はただちに行われることはなかった。中央委員会幹部会「日韓会談の本調印強行に抗議し、断固とした批准阻止闘争への決起をよびかける」(1965年6月22日)『前衛』1965年8月号。ようやく中央実行委員会全国代表者会議のよびかけで批准阻止、ベトナム侵略反対、生活擁護の全国統一行動が開催されたのは、調印後の65年9月12日であった。以上のように日本共産党における日韓会談反対運動の位置づけは相対的に低下していたと考えられるが詳しくは別稿による検討が必要である。
[240]『社会新報』1965年1月31日(1)。
[241]『アカハタ』1965年1月23日(7)。
[242]『社会新報』1965年1月31日(1)。
[243]月刊社会党編集部(1976)『日本社会党の30年』日本社会党中央本部機関紙局、p510。
[244] 同上。
[245]一日共闘とは日時を定めて、同時にデモ行動をする方式のことであり、日韓会談反対運動ではこの一日共闘の形として「時差集会」と「共催集会」とがあった。時差集会とは同じ場所でデモを行い、各団体間であいさつもかわすが、同時に集会を行わないとする形式であり、批准闘争前に行われた2回の一日共闘はこの「時差集会」であった。その後批准闘争では「共催集会」を5回実施している。(11月9日、13日、26日、12月4日、8日)公安調査庁、前掲書、p3
[246]『社会新報』1965年5月26日。
[249]『社会新報』1964年3月22日(2)。
[250]『社会新報』1963年2月10日(4)。
[251]『社会新報』1965年9月15日(3)。
[252]『社会新報』1965年9月26日(3)。
[253]『アカハタ』1965年9月28日(7)。
[254]『アカハタ』1965年10月6日(7)。
[255]『アカハタ』1965年10月7日(7)。
[257] 同上、p31。
[258] 『社会新報』1965年12月19日(1)。
[259]1968年2月、在日朝鮮人の金嬉老は暴力団員を射殺し寸又峡温泉の旅館に宿泊客を人質に立てこもった。そこで金嬉老は日本人の差別意識を告発した。彼の主張を重く受け止めた数人の有志(岡村昭彦、久保覚、梶村秀樹、大沢真一郎、鈴木道彦ら)によって金嬉老公判支援対策委員会が結成された。この会が目指したのは、単に刑事事件の被告としての金嬉老を防衛することではなく、彼の主張を生かし、法廷を通じて在日朝鮮人の抱えた問題と、日本人の責任を明らかにすることであった。鈴木道彦(2007)『越境の時 1960年代と在日』、集英社、p169。1975年最高裁により無期懲役が確定した。
[260]入社試験において本名の欄に日本名である新井鐘硯を本籍地に現住所を記入した朴鐘硯が、虚偽記入を理由に採用を取消された。日立就職差別闘争とはそれを不服とした1970年から1974年までの4年にわたる裁判闘争である。裁判は朴鐘硯側が勝訴した。このとき、「慶應ベ平連」の学生に朴鐘硯が自らの体験を話したことで、「慶應ベ平連」の学生たちも憤りを感じ、日立製作所への提訴に協力した。この支援活動は裁判活動を支える「在日朝鮮人の就職差別を粉砕する会」という市民運動へつながっていった。金敬黙(2012)「日本のなかの『在日』と社会運動 市民運動と国際連帯による再検討」」李鐘元,木宮正史,浅野豊美編著『歴史としての日韓国交正常化Ⅰ東アジア冷戦編』、法政大学出版局、pp.250-251。
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牟礼の「赤い家」の調査の記録 その0 〜なぜ「赤い家」を調査しようと思ったのか〜
ここまで、冊子発行後の「赤い家」の追加調査のプロセスを書いてきているのだが、そもそも「赤い家」の存在は吉祥寺や井の頭、あるいは武蔵野、三鷹の地域においてこれまでほとんど注目されてきておらず、地域史としてもまったく継承されずにきたと行っても言い過ぎではない状況にあった。そのようななかで、吉祥寺界隈のプロレタリア文化運動について調べ始めたからといって、その人たちとも必ずしもダイレクトに関係するわけではない芸術家たち実践を、わたしはなぜ知ることになり、そしてどうして調べようと思ったのか。そのこと自体も重要なことなのではないかと思い至ったので記録しておくことにする。
わたしが「赤い家」の存在を初めて知ったのは、伊藤純さんの講演会でのことだ。伊藤さんは、吉祥寺文化村を語る上で重要な人物の一人であるプロレタリア作家・貴司山治の息子さんであり、わたしたち「むさしの科学と戦争研究会」が吉祥寺界隈のプロレタリア作家を調べようかどうしようかと悩んでいたときから相談にのっていただいていた存在である。
そもそも、このようなことを調べようなどと考える発端となった高知の詩人、槙村浩が東京で匿われつつ執筆した家は貴司山治の家、つまり伊藤純さんの家だった。当研究会の複数のメンバーは伊藤さんの妻である伊藤徳子さんとは市民運動において元々交流があった。そのような縁があったからこそ、結果として吉祥寺界隈のプロレタリア文化運動を調査することにもつながったのであった。
話を伊藤純さんの講演会に戻そう。吉祥寺界隈にプロレタリア作家がいたのかどうか、どういう人物がいたのかどうか調べるにあたって、戦前の作家たちの状況の素養のないわたしたちは、伊藤さんにそのあたりのお話をしてほしいと依頼した。伊藤さんには、戦前の作家たちや各地域にあった「文士村」について、そして貴司山治や槙村浩らについて 2018年2月18日と8月18日の二回講演をしていただいた。2月の講演会のとき、「武蔵野のプロレタリア作家たち」を語る中で、伊藤さんは「牟礼の森」のご自身の記憶を語られた。
それは、三鷹の牟礼には森があって、そこでは芸術家たちが共同生活をしていて、白い山羊がいたという記憶であった。2018年2月の時点では、それ以上の具体的な記憶は伊藤さんの中にはなかったようだったが、講演するにあたってはもう少し具体的な事実を示そうとされたのか、この記憶を手掛かりに色々と調べられ、その過程で画家の遠藤剛毅のホームページ上に次のような記述を見つけたと語られた。以下は伊藤さんの講演会配布のレジュメより転載した。
......武者小路さんは戦後三鷹市の牟礼に住んでおられた。私の下宿のアトリエも牟礼だった。牟礼は武者小路さんの後輩の友人の高田博厚や真垣武勝が、若い頃にヤギの乳をしぼったりして自給自足の共同生活をしていたところだったという。
(「若き日の出会い:武者小路実篤」京都の画家遠藤剛毅HPから2018/2/6閲覧)
同HPによれば、遠藤剛毅は上記の話を武者小路実篤から聞いたという。さらに彼は、ある時期、真垣武勝の家の向かいに下宿し、真垣武勝とは絵を見せにいったりする関係でもあったそうなのだ。真垣武勝の家とはまさに「赤い家」のことである。
しかし、2018年2月の時点では、このような整理はわたしにはつかなかった。だいたい、わたしは高田博厚も真垣武勝も初めて聞く名前であった。ただ、伊藤さんの記憶の語りにある「牟礼の森」そして「白い山羊」というイメージは魅力的なものであり、おそらくその記憶と同じことを語っていると思われる遠藤剛毅の記述にある芸術家たちの実践にもとても惹きつけられた。一体どのような実践だったのだろう。わたしはぜひ知りたいと思った。とりわけ、遠藤の記述にあった武者小路実篤の名前はわたしを調査へ駆り立てた。伊藤さんも講演で「新しき村」について触れていたが、若き芸術家たちの「自給自足の共同生活」と武者小路実篤が実践していた「新しき村」はわたしの頭の中でもすぐさま結びついたからである。
武者小路実篤が終の住処となった調布市仙川へ移る以前に、井の頭公園の近くに暮らしていたことをわたしは知っていた。わたしの母が通っていた明星学園小学校には実篤の孫たちが多く通っていたそうで、そのうちの一人と母は親しかったことあり家にも遊びに行ったことがあったこと、そこには祖父である実篤も居たことを何度となく聞いていたのだった。そしてその家がどこにあるのかもおおよそ聞いていたのである。このような幾つかの手持ちの情報から、この時わたしの中では、「おそらく実篤は牟礼の自宅界隈でも山羊を飼ったりして「新しき村」のような実践をしていたのだろう。そこに若き芸術家たちも集っていたのではないだろうか。きっとそうだろう」といった思い込みの強い仮説が出来上がっていたのだった。
結局、しばらくして、わたしはひとまず武者小路実篤記念館を訪ねて見たのだが、びっくりすることに、わたしの強い思い込みは案外的外れではなく、武者小路実篤と高田博厚との交流をテーマとした過去の企画のパンフレットを見つけることができた。思い込みを、直感/観を、信じて良かった! とそのとき心から思った。
実際には、実篤の東京の家の敷地で若き芸術家たちが山羊を飼っていたわけではなかった。しかし、パンフレットには、実篤と高田たちが互いの実践をどのように意識しあっていたかが詳しく書かれていた。だからわたしの勘もまったく外れていたわけでもなかったのである。また、この時に、高田博厚の1929年に書かれた「山羊を飼ふ(共産村が失敗した話)」(『思想』昭和5年3月号)と出合ったことは、その後の「赤い家」調査にあたって非常に重要であった。。なぜなら、牟礼にあった拠点が「赤い家」と呼ばれていたこと、そしてまた集った人びとの具体的な名前を、ここで初めて知ることができたからである。この辺りのことはすでに冊子「抵抗の文学と吉祥寺文化村」で述べているのでこれ以上は詳しく述べなくていいだろう。
他方で、牟礼の「赤い家」はどこにあったのか? という問題が生じた。これはすぐには突き止めることができなかった。ただ、冊子でも触れていないことだが、2018年の段階で、実は、伊藤純さんから次のような重要な手掛かりが示されていた。すなわち、それは「グーグルアースで真垣という表札を井の頭のあたりで見たことがある」というものだった。ここでいう「井の頭」とは三鷹市井の頭という住居表示である。かつては牟礼と呼ばれた井の頭は一丁目から五丁目まであり、東は杉並区久我山、西は三鷹市牟礼、北は武蔵野市吉祥寺南町、御殿山と接するエリアであった。しかし、具体的な場所は不明だということだった。しらみつぶしに確認するのも中々難儀だろうと思ったが、それでも知りたいのだから現地を歩くしかない。そう思案していた時に、手元に90年代発行の住宅地図があることをふと思い出し、端から確認していった。すると、井の頭2丁目に「真垣勝太郎」という文字を見つけた。これにはびっくりした。どうしてこうもスムーズに見つかるのだろうかと。(しかし、この「勝太郎」という人物については2025年5月の現段階でも不明なままである。のちに真垣武勝がこの家の所有者で、その後、長男が所有することになったことがわかるのだが、その名前は「勝太郎」ではないのである。よってこの人物についてはよくわからないのだ。)
ともあれ、真垣姓を「井の頭」に確認できたわたしは、すぐさま、現地へ向かった。2018年の年末だったと思う。しかし、そこはその時、すでに更地となっていた。現地へ行ったら表札はおろか建物がなく、非常にがっかりしたことを覚えている。振り出しに戻ってしまったのだ。その後、井の頭地区が地元の三鷹市市議の方にも、真垣家のことをよく知る人はいないかと相談してみたりしたが、情報を得ることはできなかった。
このため、いったん、「赤い家」の場所から離れ、関わった人たちについて文献調査を進めていくことになる。以降の調査結果がまとめられて冊子となった。そして2025年1月から始めた追加調査の記録については、本ブログの「牟礼の「赤い家」の調査の記録」その1、その2、その3に記した通りである。今後も、引き続き。調査の記録はブログにアップしていく予定である。不定期の更新となるが、時折のぞいていただけたらうれしい。およそ100年前に「牟礼の森」で芸術家や活動家たちが何を思い何に取り組み、どんなことに悩んだのか。どんな人間関係を結んでいったのか。明らかにしていきたいと思っている。
牟礼の「赤い家」の調査の記録 その3〜大宮昇、塚原健二郎たちがつくった雑誌『沿線』
目次
8.大宮昇、塚原健二郎たちがつくった雑誌『沿線』
「赤い家」の人たちについての調査は続いている。今回も、住人の一人だった大宮昇が、塚原健二郎たちとともに行った活動に注目する。二人は二冊の雑誌をつくっているが、そのうちの一つ消費組合会員の子どもたち向けの『明るい子供』については前回検討した。今回は、「消費組合よりもっと幅もひろく、奥行もあるつながり」のある活動を目指してつくった雑誌『沿線』について見ていこうと思う。
8.大宮昇、塚原健二郎たちがつくった雑誌『沿線』
この雑誌の存在を教えてくれたのは、塚原健二郎の妻、塚原とみ子による大宮昇への追悼文であった。
…荒れくるった世上の嵐がすぎ去って、人びとがそれぞれの立場は異なっていても、一ように空虚な心境に陥った一時期、健二郎は新らしい夢にとりつかれました。そして、大宮さんと話しあうことで夢はいっそうふくらむのでした。消費組合よりもっと幅もひろく、奥行もある大きなつながり、そんなものができないだろうか、さっそく二十人ばかりよびかけに応じて集まってきました。みんな三十代、あまり年とった人はいません。中野から、高円寺から、阿佐ヶ谷、荻窪と、文字どおり中央線沿線の住人たちでした。中で、古い友だちの辻克己さんと大宮さんは、健二郎のえがいた夢を何倍にもふくらませたものです。
塚原とみ子「雑誌つくり-武蔵野の大宮さん」(『大宮昇 遺作集』1974年)
冒頭にある「荒れくるった世上の嵐」とは国家による弾圧を意味すると思われる。この雑誌の発刊は1934(昭和9)年であるが、その前年までに共産党員やそのシンパ、関係団体への弾圧が全国で始まっていた。
大宮昇や塚原健二郎が「消費組合よりもっと幅もひろく、奥行もある大きなつながり」を目指したのは、このような状況の中にあって、どうにか人びとがつながりを持ち続け、大きな力による分断や圧迫に負けることなく生きることを強く望んだからではないだろうか。そんな思いが次の塚原とみ子の回想からも感じられる。以下の場面は、大宮と塚原の呼びかけに賛同して塚原の家に集まった人たちによる会議でのことだと思われる。
大宮さんは、うちのせまい部屋に肩を接して坐っている人たちに向って、立て板に水といった調子で述べつづけました。
「雑誌をつくろう!」
それは思想を超えたサロン的な、たのしいものであり、そして教養の高いものでなければならない。―――中央線沿線在住の誰もが好意をもってくれるような雑誌、名付けて「沿線」といいます。
塚原とみ子「雑誌つくり-武蔵野の大宮さん」(『大宮昇 遺作集』1974年)
このような集まりを通して宣伝、経営、編集などの役割分担が決まっていくが、塚原とみ子によれば、その全ての理論的統率者を担ったのは大宮昇だったという。そして、何はともあれ、まずは資金づくりが肝要ということになり、塚原健二郎は数日かけて、武者小路実篤、津田青楓、鈴木信太郎らに頼んで、絵や歌人、俳人の書を色紙にかいてもらい、それを皆で分担して売って歩いて資金を集めていった。ここに上がった著名人を含めた中央線沿線在住の作家や文化人、あるいはかつて沿線に暮らしたことのある人びとが執筆者ともなって、雑誌『沿線』はスタートした。
雑誌『沿線』については情報が乏しく、管見によれば織田一磨『武蔵野の記録』(初版:洸林堂、1944年/復刻版:武蔵野郷土史刊行会、1982年)に取り上げられているくらいではないだろうか。そこでは以下のように解説されている。
中央線に居住する文人達の雑誌「沿線」の創刊号が出たのは、昭和九年八月一日で、奥附には杉並區高圓寺沿線社となつてゐるが、沿線の編輯其他の實務を執つてゐた人は吉祥寺の住人、塚原健二郎氏だから、吉祥寺から出た雑誌といつても間違でもあるまい。
沿線は創刊以来五冊を刊行して、昭和十年八月頃に遂に了りを告げたものだ。この雑誌から吉祥寺附近のいろいろの描寫をひろつてみる。
沿線案内/吉祥寺十年/野鳥叢談/武蔵野の芝居小屋
等は面白いもので吉祥寺の變遷を知る材料ともなる。


同号の誌面内容は以下の通りである。誌面の分析は今後の課題としてここでは目次を記すのみとする。
表紙 辻克巳/扉 加藤陽/カット 町田泰・小田明男
目次
沿線風景
省電の車掌さん 平林たい子
高圓寺のネクタヰ 江口隼人
阿佐ヶ谷生活十年 武野藤介
吉祥寺の海水浴 早坂二郎
随筆
静臥漫筆 岩瀬又吉
沿線の想ひ出と「沿線」への註文 岡邦雄
裏からの日本觀 花野富藏
雑草學入門 織田一磨
アントワープの人々 森三千代
武蔵野の残骸 長谷川如是閑
生活の斷片
宮尾しげを・生田花世・加藤武雄・長谷川春子・岡本文彌・中村研一・高田せい子・丸山定夫・辰野九紫
竹久千惠子・山野一郎
野鳥叢談 中西悟堂
武蔵野の芝居小屋 槇本楠郎
漫畫 吉永哲男
僕の手帖
計理士稼業 原鶴夫
世界的名犬ドナールを迎えて 碓氷元
玩具と武藏野 大竹昌春
苦言・樂言・良書推薦
提案
高圓寺の緊急事項 新居格
美化問題に就て 辻克巳
翹望新宿街 山口林治
沿線の思ひ出
吉祥寺時代 大宅壯一
中央線の思ひ出 三枝博音
上落合時代 立野信之
野鳥の歌 江口渙
沿線賦 榎初平
二つの記念碑 塚原健二郎
舗道
新宿スナップ 望月百合子
午後のモナミ 新居好子
吉祥寺にて 岸田麗子
濁流の景 葵イツ子
秋の出品製作
正宗得三郎・太田三郎・陽咸二・鈴木信太郎・深澤省三・深澤紅子
御嶽山の開發 今野三治
讀物
沿線阿佐ヶ谷點々風物錄 佐藤十彌
市場のある風景 毛利俊子
筆者紹介・社告・編輯後記
『沿線』十月號/新秋號(沿線社、1934年)
ところで刊行された号数については、塚原とみ子は四号までと回想しており、上記の織田一磨の五号とは食い違う。
また、織田のいう高円寺にあった沿線社だが、ここには、塚原健二郎の「古い友だち」辻克己が常駐していたようだ。それは、塚原とみ子の回想の中で、入手した原稿を入稿する際には「高円寺のアパートにある「沿線社」に立ち寄って、辻さんと連絡を取らなければ」ならなかったという当時を振り返る部分から推測するものである。辻克己は『沿線』の名義人であった。
(塚原とみ子「雑誌つくり-武蔵野の大宮さん」『大宮昇 遺作集』1974年)
辻克己は大正・昭和前期に商業デザインの分野で活躍した人物だが、塚原健二郎とは武者小路実篤らにより創設された「新しき村」で出会った「古い友だち」関係にあった。辻は、塚原健二郎が1965(昭和40)年に亡くなった際の『児童文学』の追悼集でも追悼文を寄せているが、そこでは『沿線』についても語っている。しかし、そこでは『沿線』が三号で終刊したとあり、また、発刊の経緯についても、辻と塚原が同じ中野に暮らしていた時に発刊したように述べており、ここは記憶違いもあるように思われた。塚原が中野に暮らしていたのは確かだが、1929(昭和4)年以降は吉祥寺に移転しており、少なくとも1934(昭和9)年の発刊の時には中野に塚原はいなかった。
辻克己「塚原よ」『日本児童文学 塚原健二郎追悼号』1966年2月号、102頁)
『沿線』十月號/新秋號の奥付には、編集発行兼印刷人として辻克己の名前があり、発行所として「沿線社」、「東京市杉並高圓寺七ノ九二七」とあるのだが、そのほかに、印刷所として「沿線社印刷部」、「東京市中野本町通一ノ一三」と記載されている。辻自身が当時中野に住んでいたと述べているのは、「沿線社印刷部」の住所のことなのだろうか。
『沿線』の作り手たちはどのように編集、販売を進めていったのだろうか。そして発刊後の『沿線』は社会の人びとにどのように受け止められたのだろうか。塚原とみ子の記憶をもとに見ていこう。
表紙は辻克己により制作され、創刊号は六十頁であった。価格は二十銭だったという。確かに『沿線』十月號/新秋號の巻末を見ると、「沿線定価表」という欄があり、そこには「一冊 二十銭、送料 二銭」と書かれている。六号、十二号(半月、年間)の定期契約をすると安価となること、「毎月一回、十五日発行」の記載もあった。月刊誌を目指していたことがわかる。判型はA6である。
販売はどのようにしていたのだろうか。これについては誰が言い出したことか不明だそうだが、『沿線』という名前に「こじつけて、電車の中で読むようにと、各駅の売店に委託することに」なったという。このことで、自身にも「動員がかかり、東中野から国立まで沿線をまたにかけて、一つ一つの駅に五冊ずつたのんで」歩くことになったと塚原とみ子は述べている。
さらに次号刊行のための資金を得ようと広告を取ることにも力を入れていった。確かに、『沿線』十月號/新秋號誌面を見てみると、以下の通り多数の広告が並んでいる。
(表紙裏)「支那料理 ヒビヤ 山水樓」
(横二段組)井之頭田園土地建物合名會社/西荻窪地主共同地所部
(目次裏)明治乳業 武藏野販賣店
(二段組)奥多摩渓谷 射山渓畔 和哥松/奥多摩千代ケ淵 割烹 水香園 旅館 松乃溫泉
(横四分の一段)西荻窪驛前女子大通り 額と画 伯樂
(変形)中央線境驛前 クララ館書店 クララホール
(縦三段組)吉祥寺公園通り 金丸食堂/賣店 中野驛前 本店 電信隊正門通 喫茶 猫のマリヤ/
中野驛北口 婦人洋装 生地材料 服飾一式 みすゞ
(縦三段組)吉祥寺郵便局隣 パンと和洋菓子 木村屋/吉祭(ママ)寺六五〇 越田齒科醫院/
板橋區神石神井二ノ九七六 生兎買入 毛皮加工 各種種兎分譲 櫻井寅三
(縦1/9頁)高圓寺驛南口ギワ 古本 市川書店
(縦1/9頁)高圓寺診療所 省電高圓寺驛前 新町診療所 京王電車新町電停際 眼科 柴山醫院
(横三分の一段)奥多摩射山渓の草分け 河鹿園 旅館部 射山荘
(縦1/9頁)吉祥寺公園通 婦人子供服のお店 ヒツジヤ
(横1/6頁)吉祥寺驛南口 茶館みぎは
(縦1/4頁)東中野驛前通 高級茶寮ラウラ 岸田麗子
(二段組)東京市豊島區池袋二丁目一〇八六番地 赤春堂書店/吉祥寺驛前 食事と飲物ナナン
(二段組)三鷹驛郵便局前 内科小児科 中村院醫(ママ)/杉並区阿佐ヶ谷一丁目八〇四番地 小児科阿佐ヶ谷醫院
(二段組)中野驛北口前 耳鼻科咽喉科 岩間醫院/西荻窪驛北通約一丁 外科 芳賀醫院
(二段組)吉祥寺 櫻小路分譲 福島縣信用組合聯合會/井の頭公園裏 東邦火災代理店 武蔵野養蜂場
(二段組)東京市神田區鎌倉町五番地 美術圖書専門刊行所 第三書院/吉祥寺二〇四七 古本 萬實書房
(裏表紙)銀座六丁目 株式會社天賞堂
『沿線』十月號/新秋號(沿線社、1934年)
以上のように中央線沿線を中心に、旅館、不動産、医院、書店ほか様々な業種の広告が掲載されている。塚原とみ子によれば、次号を出すための金策として精力的に広告を取ることになり、本屋、純喫茶、ダンス教習所、個人の医院など次々に広告の営業に走ったという。広告料は「ふつうは三円、特別大きくて五円といったところ」だった。
「銀座六丁目 天賞堂」は、編輯発行人の辻克己が当時の勤め先であり、「厚意で大きな広告」が掲載されたという。なお、辻の名前であるが、当時の「沿線」では「克巳」と記載されているが、他では「克己」とあるので本稿では後者を使用することとする。
(塚原とみ子「雑誌つくり-武蔵野の大宮さん」『大宮昇 遺作集』1974年)
また、上記広告にある「井の頭公園通の東邦火災代理店 武蔵野養蜂場」とは、赤い家の住人と交流のあった高田武雄の営んだ養蜂場のことだと思われる。
このように、駅売など販路の開拓、資金のための広告取りなど精力的に取り組んだ「沿線」の制作者たちであったが、大宮昇はこのような取り組み方は「あまり気に入らなかったようだ」と塚原とみ子は振り返っている。そのため、大宮は金策に行くといってふいと旅に出て行った。その行き先は朝鮮半島南部の馬山であった。大宮は普段から個人的なことは語らなかったため、当時は周囲には知られていなかったようだが、大宮の家族は馬山に暮らしていたのである。
しかし大宮が金策に走っていた間、『沿線』に注力していたメンバーたちの中で当初の雑誌に対する熱は次第に冷めていった。集まる人たちも減っていき、結局、塚原健二郎、辻克己のほかは二、三名のみとなっていった。
他方で、塚原健二郎も雑誌『沿線』を離れていた。大宮が朝鮮へ行っていた間、健二郎はまとまったものを書くために信州の田舎へ行ってしまっていたのである。この頃の健二郎は「消費組合運動に引き込まれて」おり、落ち着いて本来の児童文学に没頭することができずにいた。つまり、自身の創作のため『沿線』から離れたのである。生きていくための創作もほとんどできず、「その上、雑誌をつくる苦労にたえきれなくなっていたのでしょう」と、妻のとみ子は当時を振り返っている。
しかし、このように、大宮昇と塚原健二郎という中心人物二人がいなくなった『沿線』の留守を預かった辻克己ととみ子はフル稼働しなくてはならなかった。とみ子も「にわかに婦人記者並みに変身」し、「広告とはいうまでもなく、原稿依頼、談話とり、と、とび歩」かざるを得なかったが、中央線沿線に住む文化人たちは、とみ子の訪問に厚意を示し、原稿ももらうことができたという。
しかし、とにかくお金がなかった。信州から戻った健二郎も創作は上手くいかず、生活は一層苦しくなっていった。このような状況に追い込まれていたとき、金策に走っていた大宮から大金が届いた。
突然、馬山の大宮さんから五十円のカワセが届きました。当時の五十円! 沿線が一冊出せてなおおつりがくる。今ならば十万円以上に相当しましょうか。心ひそかに大宮さんの放浪癖か、などと批難めいた気持ちがないでもなかった辻さんと健二郎は見直して一ぺんに彼を社長の座にまつりあげました。
(塚原とみ子「雑誌つくり-武蔵野の大宮さん」『大宮昇 遺作集』1974年)
しばらくして、「沿線」の仲間たちのところへ帰ってきた大宮昇のために、塚原たちは近所に貸間を見つけてあげたともいう。ということは、少なくとも朝鮮から戻った1934、5(昭和9〜10)年ごろには、大宮昇は「赤い家」を出ていたことになる。そして塚原たちの住む武蔵野、三鷹界隈の貸間に暮らしたということだろう。金策のため朝鮮へ向けて出発するまでは「赤い家」にいたのかどうか、「赤い家」から出発したとしたら、なぜ朝鮮から戻った時点で「赤い家」に戻らなかったのかも気になるところである。
いずれにせよ、大宮は「沿線社」の社長、雑誌「沿線」の責任者として、塚原らに押し上げられることになった。さっそく開かれた編集会議では、健二郎からも「沿線」についての引き継ぎたいと伝えられる。これに対して、大宮は「一くさり純理想論をぶったあと、きゅうに顔面蒼白となり、唇のはしを引きつらせて立ち上がり、(中略)今まで会議で問題にしていた、低俗であるとか不向きであるとかでストックになっていた原稿の束をつかむと、いきなり外へとびだしていった」。塚原とみ子の説明によれば、大宮にとってこのような事態は結局、彼が「馬山でえがいていた夢」とは異なることであった。健二郎や辻らにそのことだけは伝えたかったのではないだろうか。しかし、それでもなんとか『沿線』の次号を出す責任は果たすべく、これまでのストックの原稿を掴んでその場をあとにしたのだろう。
二ヶ月ばかりして大宮は、出来たばかりの「沿線」四号を抱えて、塚原たちの前に現れた。それは「今までとちがった白地にグリーンで鈴木信太郎さんの省線電車の絵を刷り込んだ表紙」だったという。
内容はすべてうちで「没」になっていた原稿だけで、四十ページばかりのものでした。大宮さんは、あの日のことなどけろりと忘れた顔で、いつものニコニコ目で肩をゆって(ママ:「ゆすって」か?)いうのでした。
「いやア、雑誌づくりはむずかしい、苦労なものですなあ」
(塚原とみ子「雑誌つくり-武蔵野の大宮さん」『大宮昇 遺作集』1974年)
結局、雑誌「沿線」は、この時の四号を最後に終刊となった。(織田一磨は『武蔵野の記録』において、五号で終刊となったとしている。さらに、辻克己は塚原健二郎への追悼文において三号で終わったと語っている。いずれが正しいのか調査の上、確定する必要がある。)
塚原とみ子は、1934年8月に発刊した「沿線」という雑誌が四号で終刊となるまでの経緯を振り返り次のような総括をしている。
それはたんに、雑誌づくりというよりは、あの昭和十年(1935年:筆者)前後の社会情勢(これは大宮さんの常用語録でありました)のなかであえぎながら生きたインテリ層の姿そのものであり、さらにいえば武蔵野の片隅の町の歴史のあり方であった。
(塚原とみ子「雑誌つくり-武蔵野の大宮さん」『大宮昇 遺作集』1974年)
今回は、大宮昇が武蔵野、三鷹の人たちと消費組合活動などを行なっていた頃に、塚原健二郎らとともにつくった「沿線」という雑誌について検討した。この雑誌については全部で四号(五号や三号だとする証言もある)と少ないが、第二号の内容しか確認できていない。今後はできれば全号を確認し、その内容からも製作者が目指した理想や、そこに伴う困難、あるいは人間関係などを明らかにしていきたいと考えている。
次回は、「赤い家」の所有者について改めて詳しく検討する予定である。
牟礼の「赤い家」の調査の記録 その2〜「赤い家」の人びとと消費組合
2018年から始まった「吉祥寺文化村」の調査の結果をひとまずのまとめとして昨年2024年の7月に冊子『抵抗の文学と吉祥寺文化村 吉祥寺・西荻窪・荻窪・阿佐ヶ谷・高円寺周辺に居住したプロレタリア作家や、牟礼の森の芸術家たちの暮らした足跡をたどる』(編集:むさしの科学と戦争研究会 吉祥寺分科会、発行:むさしの科学と戦争研究会)(以下、「冊子」)を刊行した。
私もこのグループに所属し、以下で取り上げる「赤い家」ほかいくつかの作家や団体の調査を担当した。
「冊子」については書店等で販売はされていないため、関心をお持ちくださった方は、下記までお問い合わせくださいますようお願いいたします。(頒価:1000円)


お問合せ先:nishiogiminami3@gmail.com(五郎丸)
牟礼の「赤い家」の調査の記録 その2
五郎丸聖子(むさしの科学と戦争研究会 吉祥寺分科会)
このような形で一区切りを終えたことで、ようやく、それぞれの作家やテーマの継続調査や検討が再スタートできる状況となった。私も、すぐにでも調査を始めたい作家や団体、テーマがあった。そのうちの一つが、牟礼(今の三鷹市井の頭)にあった「赤い家」だった。
「赤い家」とは彫刻家の高田博厚らを中心に1920年代中頃に始められた芸術家たちの「共産生活」の二つ目の拠点である(一つ目は下高井戸)。共同で梅と山羊を育て、その実と乳を販売することで、芸術活動に専念できると考え、そして挫折したのであった。居住した人、住居は別に持ちつつ通った人も含めると関わった人として冊子では12人を取り上げた。
牟礼の「赤い家」に関わる人びと
実際にはこれより多くの人が関わっていたようで、そのこと一つをとってもまだまだ明らかにするべき課題が残された。
だが、それ以上に、地元でもその存在がほとんど知られていないことが不思議なくらいに「赤い家」とそこでの活動はとても魅力的で、私自身が「赤い家」のことをもっと知りたかったというのが本音としてあった。
そんな気持ちを持ちながらもなかなかそのことに時間を割けず、年が開けた1月下旬、「赤い家」の最後の住人、つまり最終的に「赤い家」を所有したと私たちが推定した洋画家の真垣武勝の親族の方(以下、Sさん)から冊子を購入したいというメールが届いた。
Sさんは、親族のことで5年ほど調査をしている過程で真垣武勝の存在を知り、彼を手がかりとして調査を続ける中で私たちの「冊子」を知り、さらなる手がかりとなるのではとの期待を持って連絡をしてくださったということだった。以降、Sさんがこれまでに調べられた貴重な情報が私のところへ届くことになる。やりとりはもう十回は重ねただろうか。その情報を手がかりにさらに私も調査を深めて今に至る。
こうして、この一ヶ月ちょっとという短い期間に、これまで不明だった「赤い家」のことがいくつも明らかになった。その中では、真垣武勝と従兄弟関係にあり、やはり「赤い家」の住人だった高橋勝之の人間関係についても知ることにもなるのだが、そうしたいわば「赤い家」の外の人間関係が見えたことで、「赤い家」の武蔵野、三鷹という地域における位置付けもおぼろげながら見えてくることになった。「牟礼の「赤い家」の調査の記録」では、2024年7月に「冊子」を刊行して以降に「赤い家」について明らかになったことを、調査のプロセスに沿って記していこうと思う。「赤い家」に関わる各人物、テーマについては今後、さらに調査と検討を加えた上でまとめる予定だが、このブログでは、これまで全貌が明らかにされてこなかった「赤い家」の活動、そこに関わった人びとについてわかったことを、明らかになっていくそのプロセスとともに記していくつもりである。
前回の「牟礼の「赤い家」の調査の記録 その1」では、真垣武勝が高知を出て牟礼に来るまで、そして彼が暮らし始めたころの「赤い家」の住人として大宮昇や高橋勝之のことなどについて検討した。詳しくは、前回の投稿をお読みいただきたい。
今回は、『大宮昇 遺作集』を通じてわかった、大宮昇と消費組合活動(武蔵野消費組合)について、さらに、武蔵野、三鷹地域における消費組合活動について検討したいと思う。実は、消費組合活動については、「冊子」で取り上げたプロレタリア作家が複数名参加していたこともあり、いつかきちんと検討したいと思っていた。だが、いつものように目の前の課題に追われて、先送りされていた。しかし、今回、真垣武勝と「赤い家」に関する資料をまとまった形で読み込む機会をえた中で、思いがけずに「赤い家」の住人を含めた武蔵野、三鷹の人たちがこの消費組合活動に非常に熱心に取り組んでいたことが浮かび上がってきた。
以下では、大宮昇と真垣武勝がどのような形で関わっていたのかという切り口で、武蔵野、三鷹の消費組合について検討していこうと思う。
7.「赤い家」の人びとと消費組合
7−1.大宮昇と雑誌『明るい子供』〜塚原健二郎、とみ子たちとともに〜
真垣武勝の親族であるSさんから教えていただいた真垣について知ることのできる資料の一つに『大宮昇 遺作集』(1974年)があったことはすでに紹介した。ここには、何人かの大宮昇と縁のある人によって彼との関係が語られているのだが、その中に、塚原とみ子「雑誌つくり-武蔵野の大宮さん」という文章があった。塚原とみ子は、児童文学者、童話作家の塚原健二郎の妻である。
塚原とみ子によれば、大宮昇と塚原健二郎は雑誌を二度つくったという。そのうち一冊は消費生活組合の会員の子どもたちに向けた雑誌『明るい子供』だった。
十五年にわたる大宮さんとのおつきあいのあいだに、雑誌を二度つくりました。昭和十七年、町の消費組合(現在の生活協同組合)運動の中で子供会でつくったのがはじめ、謄写版刷りで、縦三十五センチ、横二十五センチという大版、クリーム色の厚手の紙を使った二十ページ『明るい子供』というのです。
(前掲、塚原とみ子「雑誌つくり-武蔵野の大宮さん」)
翻訳物や「昔と今」というやさしい考証読み物、塚原健二郎の童話のほか、詩、楽譜付きの歌、子供の生活スナップ、科学ものなど多彩な内容だったという。大宮昇はこの雑誌の表紙を描いただけでなく、「イラストから内容の刷りまで全部引受けた」。刷り上がると、一部組合員の五、六人で手製本し、「折ってページを揃え、絹テープでとじ、一冊一冊積み上げ」ていった。その光景を大宮は「ニコニコのさがり目」で眺めていたのだと、塚原とみ子は振り返っている。こうして組合員の一部の人たちが手作りした『明るい子供』は子どものいる組合員に二十銭の定価で販売された。「ぜひまたつくってほしい」と評判を呼んだが、「余りにも素朴な手づくりの仕事」はそうは続かなかった。
それどころか、当時は「思想弾圧の厳しい時代」だったため、この雑誌を一緒に作った「女学校の女先生」は、「アカの仲間に入っているといわれて勤めをクビになり」、その上、「子供会までやめさせられてしま」ったという。当時の日本社会で「アカ」というレッテルをはられることは問答無用にこれまでの生活を取り上げられることと同義であった。しかし、「子供会までやめさせられてしま」ったとはどういうことだったのだろうか。いずれにしても、このことによって、『明るい子供』はこれ以降、作られなくなってしまったという。塚原健二郎、とみ子たちとともに、大宮昇が尽力した雑誌づくりの一つ目は、このように消費組合の子供会から始まったものだったが、こうして悲しい終わりを迎えた。その後、大宮の消費組合での役割は、帳簿の計算や配給の手伝いなどに変わっていった。大宮が、こうした役割を担うことになるのにも消費組合の常務者が検挙され人手不足となるという背景にあった。
塚原健二郎とのもう一つの雑誌のことは、また別項にて述べることにして、次項では、ここまで述べてきた武蔵野、三鷹での消費組合とは如何なる団体で、どういう人たちによって誕生し、そしてどのような活動が行われたのか。これらのことをまずは共有したい。
7−2.武蔵野地区の消費組合のはじまりと高揚
武蔵野地域の消費組合は、西郊共働社(城西消費組合の前身)に始まる。西郊共働社の組合員は順調に増えていき、やがて発展的に武蔵野地域と落合地域が分離独立し、武蔵野消費組合が創立するのは1929(昭和4)年のことである。(江口渙「武蔵野消費組合創立時代の思い出」、河田禎之『物語 城西消費組合』労働旬報社、1994年、64〜65頁)
西郊共働社は社会運動家、思想家の岡本利吉によって1926(大正15)年に創立された。労働者階級ではなく無産インテリのための消費組合という特徴があった。中央線沿線を対象に組合員は募集され、1928(昭和3)年、新宿以西、吉祥寺までの中央線一帯を対象とした「城西消費組合」となった。この組合は「階級的立場に立脚する労働者消費組合の理論的指導の地位」(『中野区史 昭和編1』中野区、1971年、258頁)あったと評される一方、自由で先進的な雰囲気を持った文化的サロンとして「中央線のインテリといってよい人はほとんどといってよいほど入っていた」(同上、同頁)ような雰囲気もあったという。その後、城西消費組合は、野田醤油などの労働争議を積極的に支援していくが、「日雇男人夫の一日当たり賃金は二円」という時代に、出資金は一口一〇円程であったことから、組合員の大半は俸給生活者が占めていたという。(中野区女性史編纂委員会『椎の木の下で 区民が綴った中野の女性史』ドメス出版、1994年、76頁/武蔵野市女性史編纂委員会『武蔵野市女性史 通史編』、武蔵野市、2004年、72〜73頁)
西郊共働社の創立時に話を戻そう。「創立総会は、高円寺町から50メートルほど東に寄った中野区囲町3244番地(現中野4丁目、現在中野区役所のあるところ)、中野電信隊があった近くの二階家でひらかれた」。(前掲、『物語 城西消費組合』17頁)
こうした消費組合は、西郊共働社だけでなく、それ以前に月島共働社、東京共働社などがつくられ、1922(大正11)年にはこれらを糾合して消費組合連盟が結成されていた。以後、東京市内外の労働組合の中に多くの消費組合が結成され、1926(大正15)年には関東消費組合連盟(関消連)と改名される。関消連は、自主的消費連盟の中心となって運動の発展に尽くした。西郊共働社は創立と同時に関消連に加盟した。(同上、15〜17頁)
先述のように西郊消費組合は1928年(昭和3)年には城西消費組合となるが、会員が増えたこともあって、翌1929年(昭和4)年、武蔵野と落合地区は分離独立する。武蔵野消費組合で最初の組合長となったのはプロレタリア作家の江口渙だった。江口は創立に至るまでの状況を次のように語っている。
西郊消費組合の吉祥寺居住の一組合員として一週一回の配給をうけていた。それが非常に不便で困り抜いていたところへ細田民樹、大宅壮一、早坂二郎、貴司山治などという進歩的な人達が相次いで引っ越して来たので、何時とはなしに、独立した消費組合を作ろうという機運が熟していった。(同上、64〜65頁)
ここにあがった名前のうち、細田民樹(1928年)、大宅壮一(1927年)、貴司山治(1929年)は、「冊子」で取り上げた作家たちである。名前の後に示したのは彼らが吉祥寺に暮らし始めた年であるが、江口は1925年に吉祥寺暮らし始めており、この中で最も早くから吉祥寺の住人であった。
江口の記憶によれば、武蔵野消費組合の創立総会は、1929(昭和4)年の4月20日で、「吉祥寺の大宅壮一君の家に十四、五人ほど集まっ」て開かれたという。(前掲『物語 城西消費組合、64〜65頁)
西郊から出張してきた橋浦泰雄君の「消費組合に関する注意」を、まるで小学校の生徒が校長さんの訓話を聞くような気持ちで一日おとなしく聞いた…、至極のんびりと組合成立を決議してしまった。最初は店舗を持たないで、大宅壮一君の家の大きな物置を倉庫にして、常務者は同君の家へ寝泊まりして配給した。人数が少なかったのと、創業の意気旺盛だったので、組合員の気持ちはぴったり合っていた。そのために、組合員はだんだん増えていった。
(同上、同頁)
江口の回想からは、およそ100年前の吉祥寺の人びとの消費組合運動にかける意気込みと、高揚する雰囲気が伝わってくる。結果としては、その後、数年のうちにそうした高揚を抑え込むムードが徐々に広がり、やがては消費組合自体が弾圧の対象となっていくのだが、この当時はもちろんそんなことは当時の人びとは知らない。
役員の一人だった丸岡秀子によれば、武蔵野消費組合の創立が伝わると、「武蔵野地区だけでも昭和五年(1930年)10月末には組合員百九十二名と」なったという。先の江口の回想には、創立時点では「荻窪、西荻窪、吉祥寺の全部にわたってたった四十何人だった」ともあり、飛躍的に組合員が増えたことがわかる。(同上、65頁)
組合員にはどのような人たちがいたのだろうか。昭和11(1936)年に城西消費購買組合創立十周年記念出版として「耀かしき今日を築くまで――【組合略史】」という小冊子が作られており、そこには昭和11(1936)年末現在の組合員名簿が地区ごとにまとめられている。杉並地区513名、中野地区291名、武蔵野地区201名の計1246名の名前が列挙され、さらに創立以来の役員と常務者の名前が挙げられている。なお、前述したように、武蔵野地区と落合地区は、西郊共働社城西消費組合から、それぞれ1929(昭和4)年の4月と11月に独立したが、その後、1932(昭和7)年になると、城西、武蔵野、落合は統合されて城西消費組合が結成されている。すなわち創立十周年の際の名簿は、城西消費組合となってからのものである。
以下では、同名簿のうち、武蔵野地区の組合員201名のみを列挙する。(1936(昭和11)年末現在)
村上俊亮、細田民樹、田村正美、江口萬造、丸山義二、松尾宇田、貴司山治、米倉清子、
大石俊比古、福岡誠一、早坂二郎、田中留吉、野口雨情、飯野集史、益守武雄、山本有三、
三角泰、野村愛正、波多野一郎、片岡弓八、鶴巻盛一、江口渙、三宅伊三郎、清水登之、
時岡辨三郎、上原専祿、安井俊雄、芳賀勝雄、鈴木潔治、江口孝、塚原健二郎、難波卓爾、
栗飯原梧樓、鈴木ハナ子、池田亀、深澤省三、槇本楠郎、大井亀吉、鈴木直作、江藤純平、
花野冨蔵、福間敏男、皆川省三、江口キクエ、佐藤益治、舟木重信、倉澤量世、西村仁志、
中村徳治、二ノ宮、木ノ下信武、井上俊、明比忠之、本田昇、中原貫一、西方まき子、
大塚金之助、坪谷英五郎、大井默也、大宮昇、上田健一、寺島善八、江口義雄、正木初枝、
池田傳枝、三宅武郎、今和次郎、高田武夫*、大村群次朗、山際満壽一、笹本寅、織田一磨、
仁禮宗、吉田之助、藤浦敏雄、玉城肇、森卯喜知、渡邊誠四郎、新道繁、田崎昌亮、西宣雄、
冬木松五郎、原素行、本多謙三、亀掛川浩、宇佐美啓助、山崎和一、砂田榮、北郷千春、
牧野靖彦、茂木得時、須田芳江、小林英尚、佐藤秀子、永田一修、吉田雄三郎、平澤一郎、
長野惠太、久慈光二、宮田秀雄、袴田杉太郎、山本俊夫、小島、出口貞、山本正巳、
本村四郎、松尾、小川正夫、宮下平一、下田芳雄、河原、土井義信、井上美代子、丸野、
津留信人、山中健次、佐久間啓一、五十嵐重虎、吉日圭、河瀬亮一、齊田文一、吹本喜一、
打矢信之助、森谷とみ子、田中戌一、折田學、黒川、後藤、佐々木英雄、水月、中村越郎、
宮坂好安、田畑修一郎、南きく、淺野、高津一雄、大橋冬夫、梅井、高野四方治、尾關定治、
齊藤直、齊藤徳三郎、小島、塚原正美、鈴木信太郎、宮部一郎、川西時雄、鈴木傳助、
佐々木幸惠、櫻井、淺野研眞、堀安夫、飛鳥鉄雄、駒田、中島信次、岩崎磯吉、入交鬼之助、
加藤陽、山口嚴、高井嘉三郎、森下岩太郎、福田稔、深井宗吾、廣澤一雄、武部久四郎、
萩原謙造、菅原公平、山本種市、寺尾一幹、秦道治、穴山孝道、齊藤巌、須崎祐男、
永島隆二、伊藤嘉夫、片山康次、武藤春世、平山修次郎、時田保夫、飛澤盛次郎、河角廣司、
稲井常夫、土屋茂、甲樂城テル、木元正、根岸元吉、勝田勝年、山岡貞、近藤康男、
岡本賢超、小見茂一郎、小林享、小林仙次、三原喜助、埋橋眞、本宮行保、伊東ちゑ子、
高谷太郎、古田友次郎、中村健三、平塚フジヱ (前掲『物語 城西消費組合』巻末)
上記のうち、青字の細田民樹、貴司山治、江口渙、槇本楠郎は「冊子」で取り上げたプロレタリア作家であり、赤字の大宮昇は「赤い家」の住人、舟木重信は、別項にて触れたように「赤い家」住人の高橋勝之、真垣武勝と交友関係にあったドイツ文学者である。「高田武夫」はおそらく、三鷹の牟礼で養蜂業を営んだ「高田武雄」の誤りではないかと思われる。高田が大宮昇が亡くなった際に送った文章「蜜蜂の追憶」(前掲『大宮昇 遺作集』)に自分と「赤い家」の住人の交流が始まったのは消費組合運動が契機だっただろうと振り返っていたことからすると、高田自身も組合員だったと思われる。
このほかに、1936(昭和11)年時点では、武蔵野地区には名前がないが、前述の通り、大宅壮一は組合員だったことがあり、また佐々木孝丸も1931(昭和6)〜35(昭和10)年には吉祥寺に在住しており、その際には武蔵野地区で組合員だったと思われる。
実際、同名簿の中にあった「創立以来の役員、並びに常務者名簿」の中に、役員として、佐々木孝丸の名が見える。また、同じく役員の欄には、細田民樹、大宅壮一、江口渙、貴司山治はもちろんのこと、前述の大塚金之助、それから大宮昇の名前も上がる。さらに大宮昇と武蔵野消費組合の子どもたちに向けた雑誌「明るい子供」を作った塚原健二郎の名前もあった。そのほかに「冊子」で取り上げた杉並在住だった前田河廣一郎の名も役員欄にあった。既出の丸岡秀子によれば、最初の組合長の江口渙に続き、第二回は大塚金之助、第三回は貴司山治だったという。(前掲、『物語 城西消費組合』、65頁)
このように「冊子」で取り上げたプロレタリア文化運動を担った人たちも何人もがこの消費組合運動に参加していたことがわかるが、このほかに職業で言えば学者や文化人(大塚金之助、舟木重信、塚原健次郎ほか)、あるいは女性の参加者が多いことが特徴として見られる。上記名簿には、江口渙の妻である江口孝の名前も見られた。同じ地域での日常生活に関わる運動だけに、文化運動以上に広がりがあったと思われる。
具体的にはどのような活動をしていたのだろうか。組合員には小説家や詩人、画家や俳優など様々な職業の人びとが参加しており、さらに思想的には「進歩的」な人たちだったことから、「特に文化的教育活動が盛んで、演劇、音楽、図書室、ピオニールなどの活動や催し」が盛んに行われ、「その創意ある取り組みは注目を集め」たという。(同上、65〜66頁)
ピオニールとは一般的には共産圏の少年団のことを指すが、日本でも大正末期から昭和初期にかけて労働運動・農民運動の高揚の中で、短期間ではあるが全国的に組織された。
(増山均「昭和初期ピオニール運動の組織と教育」『人文学報』第11号、東京都立大学人文学部、1976年)
また、武蔵野消費組合では、1930(昭和5)年7月4日には、国際消費組合デー記念の講演会を高円寺演舞場で開き、東京商科大学教授(現・一橋大学)であった大塚金之助が「世界経済恐慌と生活問題」と題した講演を行なっている。さらに翌年の1931(昭和6)年6月23日には武蔵野消費組合主催で、国際消費組合デー記念「講演と映画と音楽の夕べ」を開催し、会場の吉祥寺会館には400人を超える人びとが集まり、大盛会だった。そこでも大塚は「恐慌と我等の消費組合」を講演し、これは大好評となってその後パンフレット化されて全国に普及された。(前掲『物語 城西消費組合』、80頁)
武蔵野消費組合を基盤として町会議員を出そうという運動も起こった。候補者は江口渙だったが、この運動は成功し江口は見事、当選する。
(玉城肇「塚原さんと消費組合」『日本児童文学 塚原健二郎追悼号』1966年2月号、日本児童文学者協会)
プロレタリア作家として名の知られた江口が1929(昭和4)年の町制施行後初めての町会選挙で当選したことは一大センセーションを巻き起こしたという。その後、江口は二期八年在職するのだが、在任中に逮捕、投獄されたこともあり、町会議員としては「府税の自動車税の廃止を強く主張したことが印象に残っている程度」だったと武蔵野市史には記されている。
(『武蔵野市百年史記述編 第一巻』 武蔵野市、2001年、777頁)
また、武蔵野消費組合の活動は当初から、「家庭生活・消費経済の担い手となり得る女性の参加を視野に入れていたが、江口の妻、考や貴司(山治:引用者)の妻、悦子らも積極的に婦人部の活動に加わっていた」。
一九三〇年三月九日付の『婦女新聞』には、神近市子や勝目照子らに並び、武蔵野支部の考や悦子、また梶原彩子が、関東消費組合連盟大会において、未組織婦人に働きかける方法や消費組合婦人部の活動方針について討論したことが記載されている。この記事は、「婦人部も労働争議、政治運動に進出すべしとなす論者と、家庭相互扶助運動に専念すべしとなす論者があり、今後婦人部の政治的進出が如何に解決されるかは興味ある問題である」と結ばれている。
(『日本女性運動資料集成第七巻』/前掲『武蔵野市女性史 通史編』72〜73頁)
その後も婦人部の活動は盛んになっていく。1931(昭和6)年12月27日の『消費組合新聞』婦人版には、「武蔵野地区の婦人部は班活動を基礎に活発になって来たので役員にも五名の婦人が選出されました。(中略)お正月には合同班会をもって家族大懇談会を催そうと、その準備に意気ごんでいます」とある。また、翌1932(昭和7)年2月25日の同新聞には、武蔵野婦人部で、プロレタリア作家同盟から東北基金地方視察に派遣された大宅壮一の話を聞く会が開催されたことが記載されている。
さらに同年8月20日の『消費組合新聞』には、東京城西消費組合婦人部主催の夏季講習会の日程とプログラムが掲載されている。そこには、勝目照子や平林英子、中條百合子らとともに無産者診療所関係者による「夏の衛生」、「産児制限法」という題の講演も見られる。だが、実際に、農業や商業など家の仕事とともに家事労働も担いつつ、子育てもしていた女性たちがこのような講演会に参加することは困難であった。この当時、井の頭公園近くで食堂を営んでいた母親が、父の病気中に身籠り、その弟をおろそうとして、ビール瓶の木箱に登り、何遍も何遍も飛び降りたり、水風呂に入ったりしていたことを、1924(大正13)年生まれの上野常代(仮名)は語っている。(前掲『武蔵野市女性史 通史編』72〜73頁)
とはいえ、ここまで見て来たように、武蔵野消費組合の人びとは、それぞれの立場において日常の生活を取り巻く様々な課題に果敢に取り組もうとしていた。
こうした中で、「赤い家」の住人はどのように組合運動に関わっていたのだろうか。大宮昇が塚原健二郎たちとともに子どもたちに向けた雑誌『明るい子供』を作っていたこと、ドイツ文学者の舟木重信が研究会講師となり、そこに真垣武勝と高橋勝之が参加していたことはすでに述べたが、そのほかにも「赤い家」の人びとは組合の活動に関わっていたようなのだ。
7−3.「赤い家」の住人・大宮昇たちが取り組んだ武蔵野消費組合での煙突掃除
例えば、江口渙は、大宮昇が亡くなった直後に遺族に向けて書いた手紙の中で、次のように消費組合時代の大宮の活躍を振り返っている。
…大宮君とは戦争前、武蔵野市の吉祥寺にいたとき、大宮君が長野県にゆくまでのあいだ、お互い実にしたしく暮らしていました。とくに吉祥寺に武蔵野消費組合という進歩的な消費組合ができてからは、二人とも組合の世話人として一そう親しくなりました。大宮君はじつに良い人でした。組合のだれからも「大宮さん、大宮さん」といって親しまれました。
大宮君は組合に入った当初、生活を支えるために、豊田君という画家と組んで組合員の家を一軒一軒、まわっては顔も手も真っ黒にして煙突掃除をしてくれました。
(「江口渙さんからの手紙」前掲『大宮昇 遺作集』)
冒頭に、大宮が「長野県にゆくまでのあいだ」、武蔵野でお互い親しくしたと江口は述べている。ここで、大宮昇の略歴を年譜形式で共有しておこう。先に述べておくと、大宮が長野に疎開したのは1944(昭和19)年である。その時まで「赤い家」にいたのかというとそれは現在のところよくわからない。ただ、塚原とみ子「雑誌つくり-武蔵野の大宮さん」(前掲『大宮昇 遺作集』)によれば、塚原健二郎と二冊目の雑誌づくりをしていた際に、塚原が大宮のために「近所に貸間」を見つけたとの記述があることからも、長野に疎開する直前には「赤い家」以外の家に居住していたのではないかと思われる。
「大宮昇 略歴」
・1901(明治34)年4月23日 愛媛県松山市三津浜生まれ
・旧制 北予中学卒業
1925(大正)年 上京 絵画生活に入る
この頃から下高井戸、三鷹牟礼で高田博厚らとの「共産生活」に参加
・戦前は日本版画協会に石版を出品している
・時期不明だが、家族は朝鮮へ渡っており南朝鮮の馬山で暮らしている
・1939(昭和14)〜1941(昭和16)年まで同志と新版画会を組織
・1941(昭和16)年 旧作炭山画譜を絵読本となし、西村要吉が「石炭を生む山」と題名を付して学習社から出版。
文部省並に出版文化協会から推薦された。
・同年 国際文化振興会の仏印巡回展に招待出品をした。
・戦時中 東京第三陸軍病院の石版教室の講師を務めた
・1943(昭和18)年 たづ子と結婚
・1944(昭和19)年 『絵画と印刷』を出版
・同年 桐子生まれる
・同年 長野県に疎開し、少国民文化協会会員として故下村千明氏と疎開児童慰問講演に歩いたりした
・1945(昭和20)年 終戦とともに山本縣氏の流れをくむ農民美術草木信濃紬の指導に従事
・1951(昭和26)年 上記の仕事を辞めて版画に専念。
・1957(昭和32)年 松山に帰る。愛媛大学講師、愛媛県美術会理事等をつとめて版画教育の普及に努める。
・1961(昭和36)〜没年に至るまで 愛媛県警察機関誌「かゞりひ」の表紙を担当
(1966(昭和41)〜1968(昭和43)年の入院期間含む)
独特の製版法「色調合製網版」を完成する
・1969(昭和44)年から半年間 愛媛新聞に「絵本わらべうた」を連載する
・同年 妻・たづ子没
・1972(昭和47)年秋 胆のう炎を発病
・1973(昭和48)年早春 手術の結果、一時快方に向かうが治療の甲斐なく
・同年6月16日夜 没 享年72歳
(「大宮昇 略歴」『大宮昇 遺作集』をベースに一部本文などから加筆した)
江口渙の手紙に戻ろう。手紙の文面によると、大宮昇とは消費組合活動を通じて親しくなったという。年齢も江口の方が14歳上で、江口は最初の組合長を務めたような存在ではあったが、組合の中では同じ役員という立場で仲間でもあった、そのような雰囲気が江口の文面からは感じられる。なお、家族は、この手紙を「故人(大宮昇)が心から崇拝していた江口渙」からの手紙と紹介している。
大宮が組合加入当初に行なっていた煙突掃除だが、これを共に担っていた豊田という人物は、前回の「「赤い家」調査の記録 その1」の「3.「赤い家」は真垣武勝の住所・牟礼231とイコールではない?!」で取り上げた写真において、「赤い家」の前で真垣武勝、大宮と共に映っていた豊田秀造とみて間違いないだろう。大宮と豊田は「赤い家」で暮らしながら組合活動に参加していたようだ。前述の1936(昭和11)年末の名簿には豊田の名前は見られなかった。この当時には別場所へ移転していたか、あるいは組合員としては参加していたなかったのだろう。この点は不明である。
ところで、最近、高田博厚の『分水嶺』を読み返していたところ、豊田の兄のことが書かれていることに気がついた。高田が1931(昭和6)年に渡仏するにあたって、途中、上海で二泊したときのことを次のように高田は振り返っているのだ。
船は上海で二泊、私たちの共同村にその頃加わっていた豊田の兄が税関吏なので、日本租界の彼の家に泊り、中国でも第一級という宴席に招かれ、三十皿もあったろう料理をたべたと同時に、日本人は危ないから絶対に行かないという中国人街へもひとりで行ってみて、…
「私たちの共同村」とは「赤い家」のことであることは間違いなく、その頃加わっていた「豊田」ということだから、豊田秀造のことだろう。その兄が上海に税関吏としていたのを事前に知り、頼ったということなのだと思われる。
「赤い家」に当時暮らしていた、大宮昇と豊田秀造が生活のため、武蔵野消費組合の組合員の家の煙突掃除にまわっていたという話に戻る。これについても、高田博厚の『分水嶺』に次のような記述があった。
…そうして「食うため」に最後まで残った「開拓者」松田、大野、大宮が「煙突掃除夫」になり、夕刻になると金のない私の家へ飯を食いに来る。
(前掲『分水嶺』12頁)
これには少し補足が必要だろう。まず、「開拓者」松田とは、北海道出身で彫刻家を志望していた松田利勝のことである。大野は画家の大野金二であり、大宮は大宮昇のことである。彼らは皆「食うため」に最後まで「赤い家」に残ったと高田は言っているのだ。松田と大野についても「冊子」では取り上げている。高田博厚は、牟礼の「赤い家」には居住してはおらず、西荻に自宅とアトリエがあった。その自宅へ夕刻になると、自分も金がないのにそんな自分のところへ夕食を食べに来るほど彼らは困っていたということなのである。
しかしここで注目したいのは、そのことではなく、「煙突掃除夫」として松田も大野も労働していたということである。松田と大野も、大宮と豊田とともに武蔵野消費組合員の家をまわっていたのかどうかは不明だが、その可能性もあるのではないだろうか。
7-4.消費組合への弾圧の過程
各地域にあった消費組合活動は様々な課題に多様な方法で取り組み、その運動は活気に満ちていたが、次第にその運動は弾圧の対象となっていった。「消費組合に対する弾圧は1932(昭和7)年3月、全国二百余の消費組合を結集して日本無産者消費組合連盟(翌年、日本消費組合連盟と改称)が結成され、同じ年「米よこせ運動」が全国的に展開されて以来、激しさを増して」いった。「とくに、その年『特高月報』が三月号から調査項目に「消費組合の状況」を特設し、組合の動静を系統的に克明に記録するようになってから、役員・常務者や活動家に対する不当な逮捕拘留が日常的に行われるように」なった。
(前掲『物語 城西消費組合』117〜118頁)
このような弾圧の嵐は、1932(昭和7)年に、再び城西、落合、そしてそれ以前に合流していた和田堀と共に統合されて城西消費組合となった武蔵野消費組合にも襲った。「大塚金之助をはじめ城西消費組合の役員になっていた指導者や主だった活動家たちはことごとく検挙され」組合の機能は次第に麻痺していく。(前掲『武蔵野市女性史 通史編』74〜75頁)
当時、新進の経済学者であった東京商科大教授(現・一橋大学)の大塚金之助が武蔵野消費組合主催の講演会で活躍していたことはすでに述べた。彼は、野呂栄太郎の指導の下、刊行されることになる『日本資本主義発達史講座』(岩波書店刊)の「経済思想史」を執筆中の1933(昭和8)年1月に治安維持法容疑で突然逮捕されている。その後起訴されて豊多摩刑務所に収容される。この裁判所から刑務所へ向かう途中に、城西消費組合オートリアカーと遭遇した場面を、大塚は短歌にしている。彼はアララギ派の歌人でもあった。
護送車を/追い越すオートリアカー/マークは城西消費組合!
街路樹のかげになりゆく/組合の/オートリアカーのなつかしきかな
見も知らぬ常務者なれど/護送車の/小窓の顔に笑いかけてくれるなり
消費組合運動の理屈は/わからずも/六十の母は経営部員なりき
関消が/サルマタとシャツを呉しとて/母が持ち込む団結のちから
この短歌は、『大塚金之助著作集』(全10巻)(岩波書店)に収録されたものの一部である。この歌の注には、「…控訴公判の判決がくだり、裁判所から護送車で刑務所に帰る途中、赤坂見附付近を城西消費組合のオートリアカーがすれすれに追い越して行った。ハンドルを把る青年はぼくの知らない人だったが、護送車の小窓の私の顔をしげしげと見ていた。私もかれ氏の顔を見た。あとで聞くと、その青年は護送車の小窓の黒ぶち眼鏡の男のことを、組合の人たちに話していたそうである。城西消費組合は自分の所属の組合であり自分にも親しいものであった」と書かれている。
『大塚金之助著作集 第9巻』(岩波書店、1981年221〜222頁)
大塚金之助は西郊共働社の創立初期からの組合員で、武蔵野消費組合では組合長を務めたり、講演会や集会でたびたび講演し、その温厚な人柄とわかりやすい話は組合員に大変親しまれていた。大塚は逮捕後、学校を追われ、戦後まで職を得ることができなかった。このため、妻や妹のわずかなピアノ指導料や友人の援助によって生活せざるを得なかった。また、特高警察の圧力により蔵書1500冊を焼却させられたともいう。
しかし、このような中でも、大塚の母親や妻は消費組合のことを心配し、注力したことが当時の『消費組合運動』誌(1933年4月号)の検挙された組合員宅への激励訪問記として残されている。大塚金之助教授留守宅を訪ね、「『組合の事こそ心配……』健気なお母さん」の見出し記事が載っているが、訪れた記者が逆に励まされたと書かれている。
(前掲『物語 城西消費組合』、129〜130頁)
組合員で検挙された人数などその全貌は不明だが、記録や聞き取りによればわかっているだけでも二百人は超えるという。その中で、大塚のように本人やその家族の当時の状況がわかるケースは稀だと思われるが、組合の機関誌からは、検挙された当事者や家族を励まし、そのことを記事とすることで読者である組合員をも励まそうとするそうした姿勢が伝わってくる。
だが、さらに日本は戦争への道を直走り、それとともに弾圧はより厳しくなっていき役員となっていた指導者や主だった活動家はことごとく検挙されてしまう。残された人員でなんとか組合活動の生き残る道を模索していった。1939(昭和14)年の『組合ニュース』新年号の「年頭の辞」には、新居格組合長に代わり下田芳雄が筆をとっている。「そこでは、戦争2年目に入り、物資不足、物価高、収入源と国民生活が急速に悪化し、消費生活への期待が高まっているのに、その役割が果たせない苦渋に満ちた思いと悲壮な決意が綴られてい」た。現状の分析を記した後、下田は結びで「関係組合が力を合わせて政府に物資の輸送に便宜を与えるよう強く働きかけること、若い労働力確保に全力をあげ、この難局を乗り切る決意を述べて」いる。このような下田の訴えを、河田禎之は当局の干渉によるギリギリの“ドレイの言葉”を持って書かれていると受け取っていいと述べている。当時の社会状況の中で、さらに、消費組合内部の人員がことごとく検挙されていく中で、重責を全うしようとした彼のギリギリの心情を想像する。彼はその後、三年間の激務ののちに、「慢性の中耳炎をわずらい、耳を黒布で包帯しながら奔走し」そして42歳で急逝した。
(前掲『物語 城西消費組合』181、176頁)
しかし、組合にとって一層深刻で致命的な事態が進行していた。それは政府による「隣組」づくりであった。1940(昭和15)年、大政翼賛会、大日本産業報告会が結成され、日本共産党をのぞき、すべての政党や労働組合が自ら解散してこれになだれ込んでいった。そして戦争体制の総仕上げとして政府は「上位下達の組織づくりと連帯責任・相互監視の役割をもたせた町会、部落会のもとに「隣組」制度を全国に網の目のように張り巡らせた」のである。生活必需物資の配給ルートもこの組織に組み込み、こうして国民すべての生殺与奪の権利を握った」のである。
最後までがんばっていた城西消費組合と共働社も、ついに1941(昭和16)年10月25日、家庭購買組合に吸収合併という形で解散させられた。「創立以来、戦争と不況、弾圧の嵐のなかで、勤労市民のくらしを守るトリデとして活動した城西消費組合はこうして一五年の輝かしい歩を終えた」。(前掲『物語 城西消費組合』184頁)
ここまで、武蔵野消費組合が武蔵野、三鷹という地域でどのような位置付けのものだったのか、その中で「赤い家」の住人たちがどのような活動をしていたのかということを切り口にしてみてきたが、大宮昇と塚原健二郎のもう一つの雑誌については次回に検討することにしたい。塚原健二郎は大宮昇と語り合う中で、「消費組合よりももっと幅もひろく、奥行もある大きなつながり」のある活動を夢見たという。どうしてそのような思いが芽生え、それはどのような雑誌だったのか、みていきたい。
牟礼の「赤い家」の調査の記録 その1
2018年から始まった「吉祥寺文化村」の調査の結果をひとまずのまとめとして昨年2024年の7月に冊子『抵抗の文学と吉祥寺文化村 吉祥寺・西荻窪・荻窪・阿佐ヶ谷・高円寺周辺に居住したプロレタリア作家や、牟礼の森の芸術家たちの暮らした足跡をたどる』(編集:むさしの科学と戦争研究会 吉祥寺分科会、発行:むさしの科学と戦争研究会)(以下、「冊子」)を刊行した。
私もこのグループに所属し、以下で取り上げる「赤い家」ほかいくつかの作家や団体の調査を担当した。
「冊子」については書店等で販売はされていないため、関心をお持ちくださった方は、下記までお問い合わせくださいますようお願いいたします。(頒価:1000円)


お問合せ先:nishiogiminami3@gmail.com(五郎丸)
牟礼の「赤い家」の調査の記録 その1
五郎丸聖子(むさしの科学と戦争研究会 吉祥寺文化村分科会)
このような形で一区切りを終えたことで、ようやく、それぞれの作家やテーマの継続調査や検討が再スタートできる状況となった。私自身も、すぐにでも調査を始めたい作家や団体、テーマがあった。そのうちの一つが、牟礼(今の三鷹市井の頭)にあった「赤い家」だった。
「赤い家」とは彫刻家の高田博厚らを中心に1920年代中頃に始められた芸術家たちの「共産生活」の二つ目の拠点である(一つ目は下高井戸)。共同で梅と山羊を育て、その実と乳を販売することで、芸術活動に専念できると考え、そして挫折したのであった。居住した人、住居は別に持ちつつ通った人も含めると関わった人として冊子では12人を取り上げた。
牟礼の「赤い家」に関わる人びと
実際にはこれより多くの人が関わっていたようで、そのこと一つをとってもまだまだ明らかにするべき課題が残された。だが、それ以上に、地元でもその存在がほとんど知られていないことが不思議なくらいに「赤い家」とそこでの活動はとても魅力的で、私自身が「赤い家」のことをもっと知りたかったというのが本音としてあった。
そんな気持ちを持ちながらもなかなかそのことに時間を割けず、年が開けた1月下旬、「赤い家」の最後の住人、つまり最終的に「赤い家」を所有したと私たちが推定した洋画家の真垣武勝の親族の方(以下、Sさん)から冊子を購入したいというメールが届いた。
Sさんは、親族のことで5年ほど調査をしている過程で真垣武勝の存在を知り、彼を手がかりとして調査を続ける中で私たちの「冊子」を知り、さらなる手がかりとなるのではとの期待を持って連絡をしてくださったということだった。以降、Sさんがこれまでに調べられた貴重な情報が私のところへ届くことになる。やりとりはもう十回は重ねただろうか。その情報を手がかりにさらに私も調査を深めて今に至る。
こうして、この一ヶ月ちょっとという短い期間に、これまで不明だった「赤い家」のことがいくつも明らかになった。その中では、真垣武勝と従兄弟関係にあり、やはり「赤い家」の住人だった高橋勝之の人間関係についても知ることにもなるのだが、そうしたいわば「赤い家」の外の人間関係が見えたことで、「赤い家」の武蔵野、三鷹という地域における位置付けもおぼろげながら見えてくることになった。
以下では、2024年7月に「冊子」を刊行して以降に「赤い家」について明らかになったことを、調査のプロセスに沿って記していこうと思う。「赤い家」に関わる各人物、テーマについては今後、さらに調査と検討を加えた上でまとめる予定だが、このブログでは、これまで全貌が明らかにされてこなかった「赤い家」の活動、そこに関わった人びとについてわかったことを、明らかになっていくそのプロセスとともに記していくつもりである。
1. 真垣武勝がなぜ平塚に来て、そこから阿佐ヶ谷へ移転したのか。
高知出身の真垣武勝が、1929(昭和4)年に牟礼に来る前、神奈川県の平塚にいたことはわかっていたが、なぜ平塚にいたのかということは全くわかっていなかった。だが、今回、Sさんから、真垣武勝の資料として平塚の画廊「フクスケ」の機関誌『レアリテ』第32号(1973年5月)と「真垣武勝 年譜」を見せていただき、その空白期間を知ることができた。
「真垣武勝 年譜」(以下、「年譜」)は、「国画会展出品目録」という彼の国画会への出品の年表をベースに、プライベートな出来事が手書きで書き加えられたものであった。この「年譜」と、1973(昭和48)年に平塚の画廊「フクスケ」で真垣武勝の個展が開かれた際に刊行された同画廊の機関誌『レアリテ』第32号(1973年5月)(以下、『レアリテ』)が最初にSさんが送ってくださった資料であった。『レアリテ』第32号は「画家・真垣武勝特集号」と題され、同画廊顧問の古川恂氏によるインタビューをもとにまとめられた真垣の半生の記録である。
これらの資料によると、真垣は、高知の小学校卒業後、高等科へ進み、高知工業学校に入学し、ここで応用科学を学び、そして1921(大正10)年に高知工業学校後、「知人の紹介で、(中略)その頃、火薬学の大家として知られた、平塚海軍火薬廠長、楠瀬(引用者:熊治)中将をたよって」平塚へやってきたのだということがわかった。彼の仕事は、火薬の分析と改良だった。ここで二、三年は研究員として仕事に従事した。(『レアリテ』6〜7頁)
三年目の1924(大正13)年に彼は転機を迎える。洋画家の鳥海青児との出会ったのである。鳥海はギターなどを弾くハイカラな学生だったが、真垣も学生時代にマンドリンを習い覚えていたこともあってか二人は結びつけられたという。鳥海の家には、若き画家たちが出入りし、何人か集まれば美術の討論が交わされた。こうした環境の中で真垣は、次第に、子どもの頃から好きだった絵画への思いが強くなり、火薬廠を勤務三年目に辞めることになる。楠瀬の厚い計らいで、当時としては高額の退職金・三百六十円を得て、絵画の制作に没頭した。(前掲『レアリテ』、7〜9頁)
平塚では仲間たちと美術展を開いたりもするが、絵の具を買うにも東京まで汽車でたっぷり二時間はかかり、また次第に退職金も減っていくことに悩んだ真垣は、親しい友人の一人にこのことを打ちあける。
そして、この友人のはからいで、阿佐ケ谷で、一軒の古ぼけた農家を借り入れることが出来た。彼はこの友人と共に、ここに暫く住むことになる。これが彼の東京での最初のアトリエとなった。
(前掲『レアリテ』、13頁)
この親しい友人が誰なのか。それは上記の文章の元となったインタビューテープでも語られていないようだ。Sさんによれば、テープでは、「阿佐谷に住んでいた高知の地元の金持ちの友人に誘われて、養蚕をやっていた家を間借りして友人と同居し、割り勘で自炊した」といった内容が語られていたという。
真垣を阿佐ヶ谷へ呼び寄せた友人の名前がわからないのは残念だが、それでも『レアリテ』の「画家・真垣武勝特集号」よって、これまで不明だった高知から平塚を経由して阿佐ヶ谷に至るまでのことは随分明らかになった。ただ、『真垣武勝 風景画集』(青蛾書房、1970年)で記されていた「神戸」でのことはここでは触れられていなかった。
真垣武勝の高知から平塚、阿佐ヶ谷への移動の経緯についてだが、Sさんからは、『レアリテ』を教えていただいた数日後に、今度は『高知県人物事典 新版』(高知新聞社、2000年)に掲載された真垣の情報を教えていただいた。ここからは以下のことが新たにわかった。
・敬愛、徳猪の間に生まれた三男。
・高知工業学校応用化学科(学んでいた科名までわかった)
・同期同科卒業生の高知の時計商・大西賢吉はその縁で終生支援者だった
真垣の芸術活動は様々な人たちに支えられていたことがここまででも見えてくる。最後にある「高知の時計商」とは、おそらく現在も高知にある大西時計店(創業140年)のことではないだろうか。 また、後日、阿佐ヶ谷の家の住所が、『芸天』(17)(芸天社、1925年)の「個人消息」欄において真垣の情報として記載されていたこともSさんからご教示いただいた。
・真垣武勝氏 杉並町阿佐ヶ谷521 西田方へ転居「個人消息」(『芸天』(17)、芸天社、1925年)
上記住所が借り入れて友人と住んだ農家の家の住所である。
2. 真垣武勝と高田博厚との出会い
『レアリテ』では、阿佐ヶ谷時代に、「同じ高知出身のドイツ文学専攻の片山敏彦が荻窪に住んでいた関係で、その友人であった外語出身の彫刻家・高田博厚、詩人の中原中也、尾崎喜八、高村光太郎たちとの交友も生まれた」という記述もあった。(前掲『レアリテ』17頁)
牟礼の「赤い家」は、元々、高田博厚が中心となってできた拠点であり、詳細は「冊子」で述べたので割愛するが、牟礼の前には下高井戸ですでに同様の活動(梅と山羊による共産活動)が始められていた。その高田や、高田の友人たちと、真垣がいつどのような経緯で接近したのかはこれまで不明であった。それが、同郷の片山敏彦を通じてのことであったと分かったことは非常に大きな進展である。
ただ、片山敏彦と真垣武勝が高知のどこかですでに接点があったのかどうかまでは今のところわからない。片山は1898(明治31)年生まれで、高知市帯屋町三十四番屋敷に生まれ、1905(明治38)年に高知市立第三尋常小学校へ入学。その後、1911(明治44)年に高知県立第一中学校に入学している。真垣の小中学校の経歴は不明なため、高知時代にすでに両者に接点があったのかどうかはわからないのである。(「片山敏彦年譜」『片山敏彦著作集 復刻版 第九巻』日本図書センター、1998年)
いずれしても、片山が東京の荻窪に暮らし始めて以降に二人は交流し、それを通じて高田博厚らとも交友関係が始まったのである。ところで、片山は、いつから荻窪で暮らし始めたのだろうか。片山が上京したのは、1921(大正10)年であり、それは東京帝国大学文科独逸文学科に入学するタイミングであった。彼はこの頃に高田博厚と知り合い、その紹介で高村光太郎、尾崎喜八と知り合っていったという。その後、帝大を卒業した1924(大正13)年に、高田、高村、尾崎、そして高橋元吉と共に雑誌『大街道』を創刊しているのだが、この高橋元吉も「赤い家」に関わった人物であった。
さて、そんな片山が荻窪に暮らし始めるのは、1926(大正15/昭和元)年の12月である。22(大正11)年にすでに結婚していた彼は、荻窪に父からもらった金で家を建てており、以降、終生この場所に暮らすこととなる。(『片山敏彦著作集 復刻版 第九巻』66頁)
真垣は、牟礼には1929(昭和4)年に移転しているので、1925(大正14)年から29(昭和4)年に牟礼に移転するまでが阿佐ヶ谷時代となる。片山が1926(大正15/昭和元)年12月に荻窪生活を始めたことを考えると、真垣は高田博厚らと交流を始めたのは、1926(大正15/昭和元)年12月から29(昭和4)年の間のどこかでということになる。 ここまでみてきたように、真垣武勝にとって高知を同郷とする人々との人脈が彼の大事な局面で彼を支え、あるいはその後の世界を広げる役割を果たしてきたようだ。
3. 「赤い家」は真垣武勝の住所・牟礼231とイコールではない?!
『レアリテ』を読み進めていった私は、次のところまで来たとき、どこか引っかかりをおぼえて何度も読み返した。
真垣は阿佐ヶ谷から、井の頭公園の近く三鷹の牟礼に移り、そこに住みつく。 それから現在にいたるまでの四十数年間、ここが彼の永住の地となると共に、彼が一人前の画家としての本格的な仕事に打ちこむ場ともなった。 敷地には二反ほどの畑地を借り、ここに自らの手で家を建て、鶏を飼い、畑を耕した。
(前掲『レアリテ』18頁)
真垣は、「阿佐ヶ谷から、井の頭公園の近く三鷹の牟礼に移り、(中略)それから現在にいたるまでの四十数年間」住み続け、「ここに自らの手で家を建て」たとある。
ここでは「赤い家」のことが触れられていない。しかし、阿佐ヶ谷から移転した牟礼に晩年まで住んだとして、少なくともそのうちの数年は「赤い家」に住んでいるはずなのだが、である。高田博厚が渡仏した後の「赤い家」には真垣武勝と高橋兄弟(高橋勝之、牧野弘之)が暮らしていたと、貴司山治が「私の文学史」という文章の中で述べているのだ。(「冊子」13頁)
さらに、上記には、牟礼の家は「自らの手で」建てたとある。真垣が牟礼に移ったのは1929(昭和4)年であることは間違いなく、そのとき「赤い家」は存在しており、そこで真垣が共同生活をしていた証言もあることから、考えられることは、「赤い家」とは別に、真垣は家を建てたということになる。しかし、そうだとすると、これまで、「赤い家」の所在地が牟礼の森だったといういくつかの記述や証言から、真垣の住所、牟礼231を「赤い家」の所在地として推定してきたが、これを訂正する必要が出てくる。上記の記述は非常に重要な部分であることには間違いないが、この文章だけではどうにもこれ以上検討しようがない。
そんなふうに思っていたとき、再びSさんから資料が送られてきた。その中のひとつ『大宮昇 遺作集』にあった高田武雄「蜜蜂の追憶」という、大宮への追悼の文章に、「赤い家」と真垣の建てた「家」との関係を示唆する記述と写真があった。
その頃、牟礼の林の中には大宮昇さんの他に豊田秀造さんと真垣武勝さんの三人が居て絵をかいていた。(中略) 真垣さんは間もなく結婚して、あの林の中の藁屋根の家におちついていたように思う。(前掲「蜜蜂の追憶」)

高田武雄「蜜蜂の追憶」(大宮真弓・大宮桐子・中西俊佳『大宮昇 遺作集』1974年
まず初めに写真から読み解いていこう。実はSさんからこの資料が送られたとき、「おそらく後ろの家が「赤い家」ではないでしょうか」という文章が添えられていた。確かにこの写真の雑木林の風景と家の形は、高田博厚の「山羊を飼ふ(共産村が失敗した話)」(『思想』1930年3月号、岩波書店)にあった「緑の林の中に白い山羊が遊んでいる光景」や「コッテージ」、貴司山治の「私の文学史」に書かれた「小さな森の中に、木樵小屋のようなアトリエ」といった表現とも合致する。モノクロのため、「赤い家」であることの確認ができないのが残念だが、おそらくこれこそが牟礼の「赤い家」だろう。それを裏付ける次のようなキャプションが、この写真には付いていた。
武蔵野の林の中で画家仲間達と生活していた頃の写真(1930年代初期)前列向かって左端豊田氏 右端大宮 後列向って左端真垣氏
私はここで、初めて真垣武勝の若いころの、そして「赤い家」の住人時代の写真を見た。そして大宮昇に至っては、初めて顔を知ることとなった。この写真とキャプションにより、1930年代初期の頃、牟礼の森の「赤い家」には真垣武勝と大宮昇、そしてもう一人豊田という人物が生活していたことが明らかとなった。(この豊田秀造という人物については、「大宮昇と武蔵野消費生活組合」を検討する際に詳しく紹介したい。)
そして、引用した文章によれば、真垣はこの写真の頃から程なくして結婚し、同じ「林の中の藁屋根の家におちつい」たということになるのだろう。前述の『レアリテ』にあった「自らの手で家を建て」たとあるのはこの「藁屋根の家」のことなのではないだろうか。ちなみに真垣が結婚したのは1931(昭和6)年であるから、それ以降のどこかのタイミングでこの家を建てたのだろう。『レアリテ』には詳しく書かれていないが、インタビューテープを聞いたSさんによれば、真垣は「工業学校を出ているので簡単な家を建てるのは造作ない」と語っていたという。「藁屋根の家」がいつできたかは現時点では不明だが、結婚直後は「赤い家」に大宮らと共に新婚生活を送りながら、家を建築したということもあったかもしれない。あるいは、同じ牟礼の森の中にあったとすれば、妻との家と「赤い家」との行き来もあったのではないかと推測することもできる。 整理すると、真垣武勝は、1929(昭和4)年に阿佐ヶ谷から三鷹の牟礼に移転し、1930年代初期までは「赤い家」で共同生活をしていたが、結婚したのち、同じ「林の中の藁屋根の家」を「自らの手で」建て、そこに終生暮らした。つまり真垣武勝の終のすみかとなった「牟礼231」は「赤い家」の住所ではないが、二つの家は同じ「牟礼の森」にあった、ということなのではないだろうか。
さて、もう一度、この項の冒頭で『レアリテ』から引用した文章に戻ってみたい。最後に「敷地は二反ほどの畑地を借り、ここに自らの手で家を建て、鶏を飼い、畑を耕した」とある。この中の「鶏を飼い、畑を耕した」という箇所は非常に興味深い。なぜなら、高田博厚たちは下高井戸の家から始まり、「赤い家」でも当初は、山羊を飼い、梅を育てるという生産活動を行なっていた。それは失敗に終わったわけだが、そのことを知っている(あるいはもしかしたら終盤、ともに担ったかもしれない)真垣が、今度は「鶏を飼い、畑を耕し」ているのである。対象こそ異なるが、似たような活動をしているところに、やはり目指す道は共通していたのかと想像することができる。あるいは、「赤い家」の初期の活動に影響を受けたということなのかもしれない。
さらに、『レアリテ』では、このすぐ後で、1934(昭和9)年に吉祥寺へ越して来た武者小路実篤との出会いについて語られており、さらに、実篤が1939(昭和14)年に埼玉に第二の「新しき村」を建設する際に、養鶏事業を始めたのは真垣の勧めによるものだったことが記されている。「赤い家」の生産活動と「新しき村」の活動との共通点、相違点とお互いの見解についてはすでに「冊子」で明らかにしたが、真垣と実篤とのこうしたエピソードを見ると、両者にはやはり切り離せない関係性があったことをあらためて感じる。真垣のいう「二反ほどの畑地」の場所は現在のところ不明だが、おそらく「赤い家」や「藁屋根の家」のある牟礼の森に隣接していたのではないだろうか。今後も調査を続けたい。
ところで、真垣と実篤との出会いは、真垣の親友の一人であったドイツ文学者の舟木重信によるものであったことも、『レアリテ』の中で語られている。白樺派の同人でもあった舟木が、「鶏を飼いながら絵をかいている変わった画家」として真垣のことを実篤に紹介したというのだ。そしてそれ以前に、真垣と舟木を結びつけたのは、真垣のいとこ高橋勝之なのだが、そのあたりについては、別の項で詳しく述べることにする。
最後に、この項の冒頭でも少し触れたが、『レアリテ』に書かれた真垣の半生においては「赤い家」のことが全く語られていなかった。牟礼への移転についてはもちろん語っているのだが、「赤い家」ないし、共同生活のことが語られていないのである。これは何を意味するのか。この点については、もう少し、資料にあたった上で、あらためて考えたいと思っている。
4. 「赤い家」の住人Oは大宮昇だった!
さて、前項では、『大宮昇 遺作集』における高田武雄「蜜蜂の追憶」にあった集合写真には、大宮昇が写っており、少なくとも1930年代初期には大宮が牟礼の「赤い家」の住人だったことがわかったと述べた。このことは実は、「冊子」を刊行する段階で課題として残された、高田博厚が1930(昭和5)年に書いた「山羊を飼ふ」というエッセイで「赤い家」の住人Oとしてあげたのは、「大野金二なのか大宮昇なのか?」という疑問が解消されたことを意味していた。
牟礼の「赤い家」で行われていた芸術家たちによる共産活動は実は二度目の挑戦で、それ以前は下高井戸で同様の実践が行われていた。下高井戸時代からこの活動に参加していたメンバーの名前は、高田博厚が「分水嶺」というエッセイ(『世界』(岩波書店)、1974(昭和49)〜1975(昭50)年連載)において明らかにしていた。そのため、牟礼の「赤い家」のメンバーのうち「山羊を飼ふ」でイニシャルで書かれた人物と下高井戸時代の列挙されたメンバーとを照合することで、概ねその人物を推定することができたのだが、Oという人物については、大野金二と大宮昇の二名がいたためにそのいずれかだろうという推定にとどまっていたのである。しかし、今回、思いがけず出合った写真によって、それが大宮昇だったことが明らかとなったのである。
そして、『大宮昇 遺作集』を読み進めていくと、大宮昇は「赤い家」の住人だったことだけでなく、その芸術活動や人となりはもちろんのこと、彼が武蔵野、三鷹での消費組合活動に非常に熱心だったこともみえてきた。さらに、この消費組合は「冊子」で取り上げたプロレタリア作家も複数が参加しており、そのほかにも文化人、学者などこの地域に暮らす多様な人びとの関係を広めたり、深めたりした拠点あるいは活動であったことも浮かび上がってきた。大宮昇と武蔵野における消費組合の活動、あるいは武蔵野消費組合とそこで活動した人びとについては、別項にてあらためて検討したいと考えている。
5. 藤原定について
ところで、高田博厚が1974(昭和49)〜75(昭和50)年に『世界』で連載した「分水嶺」で「赤い家」を振り返った中で、その「事業」の終末には「なにもしない」藤原定と画家の真垣武勝が住んでいるだけだったと述べていたことを「冊子」では紹介したのだが、この藤原定については情報が乏しかったため、今後の課題として残されていた。 ところが、今回、真垣武勝の調査を通して、初めて注目した片山敏彦の交友関係に同姓同名の人物を見つけた。片山の法政大学予科での教え子に藤原定という人物がいたのである。片山敏彦が高田博厚と交友関係を持っていたことはすでに述べたが、そうすると、これはあくまで推測だが、片山を通じてその教え子の藤原定が高田博厚の関わっていた「赤い家」に住むこともあり得るのではないかと考えた。今後も藤原定という「赤い家」の住人については調査していきたい。
藤原定(ふじわら・さだむ)1905年福井県に生まれる。法政大学予科で片山敏彦のドイツ語の授業をうけ、自作の詩を見せるなどしてしばしば私宅を訪問した。詩人・ドイツ文学者・元法政大学教授。訳書『カロッサ詩集』 著書『現代作家の人間探究』『日本近代詩』『詩集』など。
(『片山敏彦 著作集 第10巻 書簡集』復刻版、日本図書センター、1998年)
6. 高橋勝之の「赤い家」の居住時期について
再び、「蜜蜂の追憶」に掲載された「赤い家」の前での集合写真に戻りたい。この写真に映る住人たちの名前と撮られた時期を見て、私の中に新たな疑問が湧いてきた。この時、高橋兄弟や江森盛弥はまだ住んでいなかったのだろうか。ただ写真に写っていないだけなのか、これより後から住人となったのか。そんな疑問が生じたのである。
貴司山治によれば、高田博厚が渡仏した1931(昭和6)年以降の「赤い家」には「後輩の画家真垣武勝が住み、そこへ真垣のイトコの高橋兄弟が同居し、さらにそこへ江森が転がり込んでい」たという。(「冊子」13頁) 写真の撮られた時期は「1930年代初期」とキャプションにはあり、貴司が真垣や高橋兄弟、江森が住んでいたと述べているのは1931(昭和6)年以降とあるのだから、そこに矛盾はないのだが、これまでは高橋兄弟や江森たちが「赤い家」にいた時期がかなり曖昧だったところに、新たな情報がわかったことであらためて考える必要に迫られたということになる。ただしここで、真垣が牟礼に来た時期、すなわち「赤い家」に暮らし始めた時期は1931(昭和6)年以降ではなく1929(昭和4)年からであることは真垣自身が記録し、あるいは語っていることはあらためて確認しておく。
では、一方で、高橋兄弟や江森は実際にはいつから「赤い家」に暮らし始めたのだろうか。実はこれについても、真垣武勝について調査しておられたSさんから送られた資料にその答えがあった。それは、兄の高橋勝之がドイツ文学者の舟木重信の告別式(1975年5月3日、信濃町の千日谷会堂)において語った「お別れのことば」(舟木重信『人間この愛しきもの:舟木重信書簡集』東洋出版、1987年)の中にあった。
舟木重信(ふなき・しげのぶ)小説家、ドイツ文学者、翻訳家。1893(明治26)年7月27日生まれ。1975(昭和50)年4月29日死去。広島県江田島生まれ。東京帝国大学独文科卒。1934(昭和9)年早稲田大学独文科創設以来、早大にあり、のち名誉教授に。1933(昭和8)年ファシズムに抗して学芸自由同盟を結成、書記長となる。ドイツ文学者としては日本におけるハイネの科学的研究の基礎を据え、1940(昭和15)年、大著『詩人ハイネ 生活と作品』を刊行したほか、『ゲーテ・生活と作品』などの著書がある。(『20世紀日本人名辞典』日外アソシエーツ、2004年)
高橋は「早稲田(大学)のロシア文科」の学生だったが、友人の多くが「ドイツ文科」だったことから舟木の講義を受講しており、それが舟木との出会いで1920年代のことだったとして、そのことから自身も「舟木学校」の弟子の一人だと語り始める。そして続けて、高橋は真垣との関係、吉祥寺(を含めた武蔵野)との関係について語っているのである。少し長いが引用したい。
…私は学校へほとんどいかなくなり、いつの間にか治安維持法で逮捕されました。一九三二年、保釈になって出ました。たまたま私の身元引受人が吉祥寺にいる従兄で画家の真垣武勝でしたから、その頃吉祥寺の消費組合でやっていたドイツ語の研究会に、何かの機会に顔を出したことがあります。そこではエンゲルスの「空想からの科学への発展」というドイツ語のパンフレットを舟木さんがやっておられたのです。その頃、幾度かお会いしましたが、まもなく(中略)、もう一度保釈取消となりまして、一九三六年にやっと出獄することができました。(前掲「お別れのことば」)
上記には、いくつも重要なことが語られているが、最も重要なのは1932(昭和7)年に保釈になったとき、身元を引き受けたのが真垣武勝だったということである。二人が従兄関係にあったことはすでにわかっていたことだが、身元引受人が真垣だったことは今回初めて明らかとなった。(上記では真垣が「吉祥寺」にいると語っているがこれは「牟礼」と「吉祥寺」は近接していることからこのように高橋が認識していたのだと思われる)さらにそのあとの部分で、吉祥寺の消費組合で師匠の舟木重信がドイツ語の研究会の講師をしていてそこに参加したというくだりがある。実は、舟木重信はすでに吉祥寺に暮らしていた江口渙との親交をより深めるために1930(昭和5)年に吉祥寺に家を新築し越してきており、以降、終生、吉祥寺で暮らした。(東京府北多摩郡武蔵野町吉祥寺548番地)
そしてその年(あるいはその翌年)から「関東消費組合」の吉祥寺支部(「城西消費組合」)に参加し、その中で、上記のように自身の特性を活かしてドイツ語講習会を行ったという。このドイツ語講習会には真垣も参加しており、舟木と真垣はその後、生涯にわたって親交を重ねることになったことが舟木の記録に残されているのだが、二人を最初に結びつけたのは高橋勝之だったとみてよいだろう。(中村英雄・榎本重雄『人間 この愛しきもの 舟木重信書簡集』53、59、504頁)
上記にあるように、高橋勝之は、1932(昭和7)年に保釈になった際、身元引受人の真垣のもとで暮らしたことは間違いだろう。この時点で真垣は結婚しているが、未だ「赤い家」にいたか、「藁屋根の家」にいたかはわからないが、二つの家のいずれかに高橋は身を置いたと思われる。
ここまで検討してきて、私の中でまた新たな疑問が生じた。それは、高橋は1932(昭和7)年から初めて真垣とともに(あるいは近くに)暮らすことになったのか、あるいはそれ以前からだったのではないのかという疑問である。というのは、前述の「お別れのことば」では語られていないが、高橋は1929(昭和4)年10月に治安維持法で検挙され投獄されている。そして1932(昭和7)年になり予審終結となって保釈されたところからが「お別れのことば」では語られていたのである。(『近代日本社会運動史大辞典3』日外アソシエーツ、1997年)
私の中での新たな疑問というのは、この検挙された時に高橋が居住していたのが実は「赤い家」ではなかったのか、ということであった。そう考えた根拠として、まず、その時期すでに高橋の従兄の真垣は「赤い家」にいたことが挙げられる。そのことを知った高橋が、真垣が「赤い家」に住み始めてすぐに転がり込んでもおかしくはない。そして、すでに同居の実績があったことから、1932(昭和7)年の保釈においても真垣が身元引受人となったのではないかと推測したのである。
さらに、もう一つ。高田博厚は1929(昭和4)年に「無産者新聞の記者をかくまった」として逮捕され、「赤い家」も家宅捜索されている。(「冊子」12〜13頁) 実は、高橋勝之は1929(昭和4)年に「無産者新聞」「第二無産者新聞」に加わり編集などに携わっている。(前掲『近代日本社会運動史大辞典3』) このことから、あるいは高田博厚が「かくまった」とした「無産者新聞の記者」とは高橋勝之のことだったのではないかと推測したのであるが、どうだろうか。さらに調査を進める必要がある。
ただ、これらの推測と、高田の渡仏後(1931(昭和6)年以降)に真垣が住み、真垣の従兄の高橋兄弟が同居したという貴司山治の記憶には矛盾が生じてしまう。しかし、実際には真垣が「赤い家」に暮らし始めた時期が1929(昭和4)年だったことと考え合わせれば、上記の推測も可能性がないわけではな。いずれにしても高橋兄弟と江森盛弥が「赤い家」に居住した時期についてはさらなる調査の必要がある。
ところで、高橋勝之の妻は、江森盛弥の妹であることも今回わかった。(前掲『近代日本社会運動史人物大事典3』)ここにも「赤い家」で育まれた交友関係の影響があるのではないだろうか。二人の結婚については、舟木重信への「お別れのことば」でも次のように述べられている。
私たち(私と家内)が結婚するとき、舟木さんのお宅でささやかな、しかし実に愛情のこもったお祝いの会を開いていただいた(中略)。舟木さんのお宅でやっていただいた結婚の式が最初で最後の最も楽しい思い出になったわけです。そのときに今の吉祥寺の西十一小路の応接間になっている部屋ですが、あそこに花が活けられていて、お嬢さんが、一番上のお嬢さんですが、酒をもって私たちに注いで下さったことは、今も記憶に残っています。(前掲「お別れのことば」)
「赤い家」に関わった人びとの中では、これまで高橋勝之についてはほとんど情報がなかったが、ここまで見てきたように、「赤い家」のみならず、舟木重信との交流やそこを通じて消費組合に関わったり、また真垣武勝と舟木を結びつけるなど、三鷹の牟礼、武蔵野での日々の豊かさを垣間知ることができた。とりわけ、舟木重信や消費組合については、高橋を通じて初めて知ることが多かった。
消費組合については、「赤い家」の住人だった大宮昇にとっても重要な活動だったことも見えてきているので、あらためて別項にて検討したいと考えている。
合わせて、舟木重信についても、消費組合という武蔵野地域での関わり、それから高橋勝之や江口渙など左翼活動家、プロレタリア作家との関係などにおいても注目すべき人物であることが見えてきたので、こちらも別項にて取り上げたいと考えている。
