牟礼の「赤い家」の調査の記録 その1

 2018年から始まった「吉祥寺文化村」の調査の結果をひとまずのまとめとして昨年2024年の7月に冊子『抵抗の文学と吉祥寺文化村 吉祥寺・西荻窪荻窪・阿佐ヶ谷・高円寺周辺に居住したプロレタリア作家や、牟礼の森の芸術家たちの暮らした足跡をたどる』(編集:むさしの科学と戦争研究会 吉祥寺分科会、発行:むさしの科学と戦争研究会)(以下、「冊子」)を刊行した。

 私もこのグループに所属し、以下で取り上げる「赤い家」ほかいくつかの作家や団体の調査を担当した。

 

「冊子」については書店等で販売はされていないため、関心をお持ちくださった方は、下記までお問い合わせくださいますようお願いいたします。(頒価:1000円)

 

お問合せ先:nishiogiminami3@gmail.com(五郎丸)

 

 牟礼の「赤い家」の調査の記録 その1

五郎丸聖子(むさしの科学と戦争研究会 吉祥寺文化村分科会)

 

 このような形で一区切りを終えたことで、ようやく、それぞれの作家やテーマの継続調査や検討が再スタートできる状況となった。私自身も、すぐにでも調査を始めたい作家や団体、テーマがあった。そのうちの一つが、牟礼(今の三鷹市井の頭)にあった「赤い家」だった。 

 「赤い家」とは彫刻家の高田博厚らを中心に1920年代中頃に始められた芸術家たちの「共産生活」の二つ目の拠点である(一つ目は下高井戸)。共同で梅と山羊を育て、その実と乳を販売することで、芸術活動に専念できると考え、そして挫折したのであった。居住した人、住居は別に持ちつつ通った人も含めると関わった人として冊子では12人を取り上げた。


牟礼の「赤い家」に関わる人びと

  1. 高田博厚
  2. 中原中也
  3. 高村光太郎
  4. 高橋元吉
  5. 長尾宏也
  6. 松田利勝
  7. 大宮昇
  8. 大野金二
  9. 真垣武勝
  10. 江森盛弥
  11. 高橋勝之
  12. 牧野弘之


 実際にはこれより多くの人が関わっていたようで、そのこと一つをとってもまだまだ明らかにするべき課題が残された。だが、それ以上に、地元でもその存在がほとんど知られていないことが不思議なくらいに「赤い家」とそこでの活動はとても魅力的で、私自身が「赤い家」のことをもっと知りたかったというのが本音としてあった。 

 そんな気持ちを持ちながらもなかなかそのことに時間を割けず、年が開けた1月下旬、「赤い家」の最後の住人、つまり最終的に「赤い家」を所有したと私たちが推定した洋画家の真垣武勝の親族の方(以下、Sさん)から冊子を購入したいというメールが届いた。 

 Sさんは、親族のことで5年ほど調査をしている過程で真垣武勝の存在を知り、彼を手がかりとして調査を続ける中で私たちの「冊子」を知り、さらなる手がかりとなるのではとの期待を持って連絡をしてくださったということだった。以降、Sさんがこれまでに調べられた貴重な情報が私のところへ届くことになる。やりとりはもう十回は重ねただろうか。その情報を手がかりにさらに私も調査を深めて今に至る。 

 こうして、この一ヶ月ちょっとという短い期間に、これまで不明だった「赤い家」のことがいくつも明らかになった。その中では、真垣武勝と従兄弟関係にあり、やはり「赤い家」の住人だった高橋勝之の人間関係についても知ることにもなるのだが、そうしたいわば「赤い家」の外の人間関係が見えたことで、「赤い家」の武蔵野、三鷹という地域における位置付けもおぼろげながら見えてくることになった。


 以下では、2024年7月に「冊子」を刊行して以降に「赤い家」について明らかになったことを、調査のプロセスに沿って記していこうと思う。「赤い家」に関わる各人物、テーマについては今後、さらに調査と検討を加えた上でまとめる予定だが、このブログでは、これまで全貌が明らかにされてこなかった「赤い家」の活動、そこに関わった人びとについてわかったことを、明らかになっていくそのプロセスとともに記していくつもりである。


1. 真垣武勝がなぜ平塚に来て、そこから阿佐ヶ谷へ移転したのか。

 高知出身の真垣武勝が、1929(昭和4)年に牟礼に来る前、神奈川県の平塚にいたことはわかっていたが、なぜ平塚にいたのかということは全くわかっていなかった。だが、今回、Sさんから、真垣武勝の資料として平塚の画廊「フクスケ」の機関誌『レアリテ』第32号(1973年5月)と「真垣武勝 年譜」を見せていただき、その空白期間を知ることができた。 

 「真垣武勝 年譜」(以下、「年譜」)は、「国画会展出品目録」という彼の国画会への出品の年表をベースに、プライベートな出来事が手書きで書き加えられたものであった。この「年譜」と、1973(昭和48)年に平塚の画廊「フクスケ」で真垣武勝の個展が開かれた際に刊行された同画廊の機関誌『レアリテ』第32号(1973年5月)(以下、『レアリテ』)が最初にSさんが送ってくださった資料であった。『レアリテ』第32号は「画家・真垣武勝特集号」と題され、同画廊顧問の古川恂氏によるインタビューをもとにまとめられた真垣の半生の記録である。

 これらの資料によると、真垣は、高知の小学校卒業後、高等科へ進み、高知工業学校に入学し、ここで応用科学を学び、そして1921(大正10)年に高知工業学校後、「知人の紹介で、(中略)その頃、火薬学の大家として知られた、平塚海軍火薬廠長、楠瀬(引用者:熊治)中将をたよって」平塚へやってきたのだということがわかった。彼の仕事は、火薬の分析と改良だった。ここで二、三年は研究員として仕事に従事した。(『レアリテ』6〜7頁)

 三年目の1924(大正13)年に彼は転機を迎える。洋画家の鳥海青児との出会ったのである。鳥海はギターなどを弾くハイカラな学生だったが、真垣も学生時代にマンドリンを習い覚えていたこともあってか二人は結びつけられたという。鳥海の家には、若き画家たちが出入りし、何人か集まれば美術の討論が交わされた。こうした環境の中で真垣は、次第に、子どもの頃から好きだった絵画への思いが強くなり、火薬廠を勤務三年目に辞めることになる。楠瀬の厚い計らいで、当時としては高額の退職金・三百六十円を得て、絵画の制作に没頭した。(前掲『レアリテ』、7〜9頁)

 平塚では仲間たちと美術展を開いたりもするが、絵の具を買うにも東京まで汽車でたっぷり二時間はかかり、また次第に退職金も減っていくことに悩んだ真垣は、親しい友人の一人にこのことを打ちあける。 

 そして、この友人のはからいで、阿佐ケ谷で、一軒の古ぼけた農家を借り入れることが出来た。彼はこの友人と共に、ここに暫く住むことになる。これが彼の東京での最初のアトリエとなった。

(前掲『レアリテ』、13頁)


 この親しい友人が誰なのか。それは上記の文章の元となったインタビューテープでも語られていないようだ。Sさんによれば、テープでは、「阿佐谷に住んでいた高知の地元の金持ちの友人に誘われて、養蚕をやっていた家を間借りして友人と同居し、割り勘で自炊した」といった内容が語られていたという。 

  真垣を阿佐ヶ谷へ呼び寄せた友人の名前がわからないのは残念だが、それでも『レアリテ』の「画家・真垣武勝特集号」よって、これまで不明だった高知から平塚を経由して阿佐ヶ谷に至るまでのことは随分明らかになった。ただ、『真垣武勝 風景画集』(青蛾書房、1970年)で記されていた「神戸」でのことはここでは触れられていなかった。 

  真垣武勝の高知から平塚、阿佐ヶ谷への移動の経緯についてだが、Sさんからは、『レアリテ』を教えていただいた数日後に、今度は『高知県人物事典 新版』(高知新聞社、2000年)に掲載された真垣の情報を教えていただいた。ここからは以下のことが新たにわかった。

 

高知市鷹匠町25番屋敷下1番戸で生まれた

・敬愛、徳猪の間に生まれた三男。

・高知工業学校応用化学科(学んでいた科名までわかった)

・同期同科卒業生の高知の時計商・大西賢吉はその縁で終生支援者だった

高知県人物事典 新版』(高知新聞社、2000年)

 

 真垣の芸術活動は様々な人たちに支えられていたことがここまででも見えてくる。最後にある「高知の時計商」とは、おそらく現在も高知にある大西時計店(創業140年)のことではないだろうか。 また、後日、阿佐ヶ谷の家の住所が、『芸天』(17)(芸天社、1925年)の「個人消息」欄において真垣の情報として記載されていたこともSさんからご教示いただいた。


・真垣武勝氏 杉並町阿佐ヶ谷521 西田方へ転居

「個人消息」(『芸天』(17)、芸天社、1925年)


 上記住所が借り入れて友人と住んだ農家の家の住所である。


2. 真垣武勝と高田博厚との出会い 

 『レアリテ』では、阿佐ヶ谷時代に、「同じ高知出身のドイツ文学専攻の片山敏彦が荻窪に住んでいた関係で、その友人であった外語出身の彫刻家・高田博厚、詩人の中原中也尾崎喜八高村光太郎たちとの交友も生まれた」という記述もあった。(前掲『レアリテ』17頁) 

 牟礼の「赤い家」は、元々、高田博厚が中心となってできた拠点であり、詳細は「冊子」で述べたので割愛するが、牟礼の前には下高井戸ですでに同様の活動(梅と山羊による共産活動)が始められていた。その高田や、高田の友人たちと、真垣がいつどのような経緯で接近したのかはこれまで不明であった。それが、同郷の片山敏彦を通じてのことであったと分かったことは非常に大きな進展である。 

 ただ、片山敏彦と真垣武勝が高知のどこかですでに接点があったのかどうかまでは今のところわからない。片山は1898(明治31)年生まれで、高知市帯屋町三十四番屋敷に生まれ、1905(明治38)年に高知市立第三尋常小学校へ入学。その後、1911(明治44)年に高知県立第一中学校に入学している。真垣の小中学校の経歴は不明なため、高知時代にすでに両者に接点があったのかどうかはわからないのである。(「片山敏彦年譜」『片山敏彦著作集 復刻版 第九巻』日本図書センター、1998年) 

 いずれしても、片山が東京の荻窪に暮らし始めて以降に二人は交流し、それを通じて高田博厚らとも交友関係が始まったのである。ところで、片山は、いつから荻窪で暮らし始めたのだろうか。片山が上京したのは、1921(大正10)年であり、それは東京帝国大学文科独逸文学科に入学するタイミングであった。彼はこの頃に高田博厚と知り合い、その紹介で高村光太郎尾崎喜八と知り合っていったという。その後、帝大を卒業した1924(大正13)年に、高田、高村、尾崎、そして高橋元吉と共に雑誌『大街道』を創刊しているのだが、この高橋元吉も「赤い家」に関わった人物であった。 

 さて、そんな片山が荻窪に暮らし始めるのは、1926(大正15/昭和元)年の12月である。22(大正11)年にすでに結婚していた彼は、荻窪に父からもらった金で家を建てており、以降、終生この場所に暮らすこととなる。(『片山敏彦著作集 復刻版 第九巻』66頁)

 真垣は、牟礼には1929(昭和4)年に移転しているので、1925(大正14)年から29(昭和4)年に牟礼に移転するまでが阿佐ヶ谷時代となる。片山が1926(大正15/昭和元)年12月に荻窪生活を始めたことを考えると、真垣は高田博厚らと交流を始めたのは、1926(大正15/昭和元)年12月から29(昭和4)年の間のどこかでということになる。 ここまでみてきたように、真垣武勝にとって高知を同郷とする人々との人脈が彼の大事な局面で彼を支え、あるいはその後の世界を広げる役割を果たしてきたようだ。


3. 「赤い家」は真垣武勝の住所・牟礼231とイコールではない?!   

『レアリテ』を読み進めていった私は、次のところまで来たとき、どこか引っかかりをおぼえて何度も読み返した。  

 真垣は阿佐ヶ谷から、井の頭公園の近く三鷹の牟礼に移り、そこに住みつく。 それから現在にいたるまでの四十数年間、ここが彼の永住の地となると共に、彼が一人前の画家としての本格的な仕事に打ちこむ場ともなった。 敷地には二反ほどの畑地を借り、ここに自らの手で家を建て、鶏を飼い、畑を耕した。

(前掲『レアリテ』18頁)


 真垣は、「阿佐ヶ谷から、井の頭公園の近く三鷹の牟礼に移り、(中略)それから現在にいたるまでの四十数年間」住み続け、「ここに自らの手で家を建て」たとある。

 ここでは「赤い家」のことが触れられていない。しかし、阿佐ヶ谷から移転した牟礼に晩年まで住んだとして、少なくともそのうちの数年は「赤い家」に住んでいるはずなのだが、である。高田博厚が渡仏した後の「赤い家」には真垣武勝と高橋兄弟(高橋勝之、牧野弘之)が暮らしていたと、貴司山治が「私の文学史」という文章の中で述べているのだ。(「冊子」13頁) 

 さらに、上記には、牟礼の家は「自らの手で」建てたとある。真垣が牟礼に移ったのは1929(昭和4)年であることは間違いなく、そのとき「赤い家」は存在しており、そこで真垣が共同生活をしていた証言もあることから、考えられることは、「赤い家」とは別に、真垣は家を建てたということになる。しかし、そうだとすると、これまで、「赤い家」の所在地が牟礼の森だったといういくつかの記述や証言から、真垣の住所、牟礼231を「赤い家」の所在地として推定してきたが、これを訂正する必要が出てくる。上記の記述は非常に重要な部分であることには間違いないが、この文章だけではどうにもこれ以上検討しようがない。 

 そんなふうに思っていたとき、再びSさんから資料が送られてきた。その中のひとつ『大宮昇 遺作集』にあった高田武雄「蜜蜂の追憶」という、大宮への追悼の文章に、「赤い家」と真垣の建てた「家」との関係を示唆する記述と写真があった。


 その頃、牟礼の林の中には大宮昇さんの他に豊田秀造さんと真垣武勝さんの三人が居て絵をかいていた。(中略) 真垣さんは間もなく結婚して、あの林の中の藁屋根の家におちついていたように思う。

(前掲「蜜蜂の追憶」)

武蔵野の林の中で画家仲間達と生活していた頃の写真(1930年代初期) 前列向かって左端豊田氏右端大宮後列向かって左端真垣氏  
高田武雄「蜜蜂の追憶」(大宮真弓・大宮桐子・中西俊佳『大宮昇 遺作集』1974年

 まず初めに写真から読み解いていこう。実はSさんからこの資料が送られたとき、「おそらく後ろの家が「赤い家」ではないでしょうか」という文章が添えられていた。確かにこの写真の雑木林の風景と家の形は、高田博厚の「山羊を飼ふ(共産村が失敗した話)」(『思想』1930年3月号、岩波書店)にあった「緑の林の中に白い山羊が遊んでいる光景」や「コッテージ」、貴司山治の「私の文学史」に書かれた「小さな森の中に、木樵小屋のようなアトリエ」といった表現とも合致する。モノクロのため、「赤い家」であることの確認ができないのが残念だが、おそらくこれこそが牟礼の「赤い家」だろう。それを裏付ける次のようなキャプションが、この写真には付いていた。


武蔵野の林の中で画家仲間達と生活していた頃の写真(1930年代初期)前列向かって左端豊田氏 右端大宮 後列向って左端真垣氏

 

 私はここで、初めて真垣武勝の若いころの、そして「赤い家」の住人時代の写真を見た。そして大宮昇に至っては、初めて顔を知ることとなった。この写真とキャプションにより、1930年代初期の頃、牟礼の森の「赤い家」には真垣武勝と大宮昇、そしてもう一人豊田という人物が生活していたことが明らかとなった。(この豊田秀造という人物については、「大宮昇と武蔵野消費生活組合」を検討する際に詳しく紹介したい。) 

 そして、引用した文章によれば、真垣はこの写真の頃から程なくして結婚し、同じ「林の中の藁屋根の家におちつい」たということになるのだろう。前述の『レアリテ』にあった「自らの手で家を建て」たとあるのはこの「藁屋根の家」のことなのではないだろうか。ちなみに真垣が結婚したのは1931(昭和6)年であるから、それ以降のどこかのタイミングでこの家を建てたのだろう。『レアリテ』には詳しく書かれていないが、インタビューテープを聞いたSさんによれば、真垣は「工業学校を出ているので簡単な家を建てるのは造作ない」と語っていたという。「藁屋根の家」がいつできたかは現時点では不明だが、結婚直後は「赤い家」に大宮らと共に新婚生活を送りながら、家を建築したということもあったかもしれない。あるいは、同じ牟礼の森の中にあったとすれば、妻との家と「赤い家」との行き来もあったのではないかと推測することもできる。 整理すると、真垣武勝は、1929(昭和4)年に阿佐ヶ谷から三鷹の牟礼に移転し、1930年代初期までは「赤い家」で共同生活をしていたが、結婚したのち、同じ「林の中の藁屋根の家」を「自らの手で」建て、そこに終生暮らした。つまり真垣武勝の終のすみかとなった「牟礼231」は「赤い家」の住所ではないが、二つの家は同じ「牟礼の森」にあった、ということなのではないだろうか。

 さて、もう一度、この項の冒頭で『レアリテ』から引用した文章に戻ってみたい。最後に「敷地は二反ほどの畑地を借り、ここに自らの手で家を建て、鶏を飼い、畑を耕した」とある。この中の「鶏を飼い、畑を耕した」という箇所は非常に興味深い。なぜなら、高田博厚たちは下高井戸の家から始まり、「赤い家」でも当初は、山羊を飼い、梅を育てるという生産活動を行なっていた。それは失敗に終わったわけだが、そのことを知っている(あるいはもしかしたら終盤、ともに担ったかもしれない)真垣が、今度は「鶏を飼い、畑を耕し」ているのである。対象こそ異なるが、似たような活動をしているところに、やはり目指す道は共通していたのかと想像することができる。あるいは、「赤い家」の初期の活動に影響を受けたということなのかもしれない。

 さらに、『レアリテ』では、このすぐ後で、1934(昭和9)年に吉祥寺へ越して来た武者小路実篤との出会いについて語られており、さらに、実篤が1939(昭和14)年に埼玉に第二の「新しき村」を建設する際に、養鶏事業を始めたのは真垣の勧めによるものだったことが記されている。「赤い家」の生産活動と「新しき村」の活動との共通点、相違点とお互いの見解についてはすでに「冊子」で明らかにしたが、真垣と実篤とのこうしたエピソードを見ると、両者にはやはり切り離せない関係性があったことをあらためて感じる。真垣のいう「二反ほどの畑地」の場所は現在のところ不明だが、おそらく「赤い家」や「藁屋根の家」のある牟礼の森に隣接していたのではないだろうか。今後も調査を続けたい。 

 ところで、真垣と実篤との出会いは、真垣の親友の一人であったドイツ文学者の舟木重信によるものであったことも、『レアリテ』の中で語られている。白樺派の同人でもあった舟木が、「鶏を飼いながら絵をかいている変わった画家」として真垣のことを実篤に紹介したというのだ。そしてそれ以前に、真垣と舟木を結びつけたのは、真垣のいとこ高橋勝之なのだが、そのあたりについては、別の項で詳しく述べることにする。 

 最後に、この項の冒頭でも少し触れたが、『レアリテ』に書かれた真垣の半生においては「赤い家」のことが全く語られていなかった。牟礼への移転についてはもちろん語っているのだが、「赤い家」ないし、共同生活のことが語られていないのである。これは何を意味するのか。この点については、もう少し、資料にあたった上で、あらためて考えたいと思っている。

 

4. 「赤い家」の住人Oは大宮昇だった! 

 さて、前項では、『大宮昇 遺作集』における高田武雄「蜜蜂の追憶」にあった集合写真には、大宮昇が写っており、少なくとも1930年代初期には大宮が牟礼の「赤い家」の住人だったことがわかったと述べた。このことは実は、「冊子」を刊行する段階で課題として残された、高田博厚が1930(昭和5)年に書いた「山羊を飼ふ」というエッセイで「赤い家」の住人Oとしてあげたのは、「大野金二なのか大宮昇なのか?」という疑問が解消されたことを意味していた。 

 牟礼の「赤い家」で行われていた芸術家たちによる共産活動は実は二度目の挑戦で、それ以前は下高井戸で同様の実践が行われていた。下高井戸時代からこの活動に参加していたメンバーの名前は、高田博厚が「分水嶺」というエッセイ(『世界』(岩波書店)、1974(昭和49)〜1975(昭50)年連載)において明らかにしていた。そのため、牟礼の「赤い家」のメンバーのうち「山羊を飼ふ」でイニシャルで書かれた人物と下高井戸時代の列挙されたメンバーとを照合することで、概ねその人物を推定することができたのだが、Oという人物については、大野金二と大宮昇の二名がいたためにそのいずれかだろうという推定にとどまっていたのである。しかし、今回、思いがけず出合った写真によって、それが大宮昇だったことが明らかとなったのである。 

 そして、『大宮昇 遺作集』を読み進めていくと、大宮昇は「赤い家」の住人だったことだけでなく、その芸術活動や人となりはもちろんのこと、彼が武蔵野、三鷹での消費組合活動に非常に熱心だったこともみえてきた。さらに、この消費組合は「冊子」で取り上げたプロレタリア作家も複数が参加しており、そのほかにも文化人、学者などこの地域に暮らす多様な人びとの関係を広めたり、深めたりした拠点あるいは活動であったことも浮かび上がってきた。大宮昇と武蔵野における消費組合の活動、あるいは武蔵野消費組合とそこで活動した人びとについては、別項にてあらためて検討したいと考えている。


5. 藤原定について 

 ところで、高田博厚が1974(昭和49)〜75(昭和50)年に『世界』で連載した「分水嶺」で「赤い家」を振り返った中で、その「事業」の終末には「なにもしない」藤原定と画家の真垣武勝が住んでいるだけだったと述べていたことを「冊子」では紹介したのだが、この藤原定については情報が乏しかったため、今後の課題として残されていた。 ところが、今回、真垣武勝の調査を通して、初めて注目した片山敏彦の交友関係に同姓同名の人物を見つけた。片山の法政大学予科での教え子に藤原定という人物がいたのである。片山敏彦が高田博厚と交友関係を持っていたことはすでに述べたが、そうすると、これはあくまで推測だが、片山を通じてその教え子の藤原定が高田博厚の関わっていた「赤い家」に住むこともあり得るのではないかと考えた。今後も藤原定という「赤い家」の住人については調査していきたい。

 

藤原定(ふじわら・さだむ)1905年福井県に生まれる。法政大学予科で片山敏彦のドイツ語の授業をうけ、自作の詩を見せるなどしてしばしば私宅を訪問した。詩人・ドイツ文学者・元法政大学教授。訳書『カロッサ詩集』 著書『現代作家の人間探究』『日本近代詩』『詩集』など。

(『片山敏彦 著作集 第10巻 書簡集』復刻版、日本図書センター、1998年)

 


6. 高橋勝之の「赤い家」の居住時期について 

 再び、「蜜蜂の追憶」に掲載された「赤い家」の前での集合写真に戻りたい。この写真に映る住人たちの名前と撮られた時期を見て、私の中に新たな疑問が湧いてきた。この時、高橋兄弟や江森盛弥はまだ住んでいなかったのだろうか。ただ写真に写っていないだけなのか、これより後から住人となったのか。そんな疑問が生じたのである。 

 貴司山治によれば、高田博厚が渡仏した1931(昭和6)年以降の「赤い家」には「後輩の画家真垣武勝が住み、そこへ真垣のイトコの高橋兄弟が同居し、さらにそこへ江森が転がり込んでい」たという。(「冊子」13頁) 写真の撮られた時期は「1930年代初期」とキャプションにはあり、貴司が真垣や高橋兄弟、江森が住んでいたと述べているのは1931(昭和6)年以降とあるのだから、そこに矛盾はないのだが、これまでは高橋兄弟や江森たちが「赤い家」にいた時期がかなり曖昧だったところに、新たな情報がわかったことであらためて考える必要に迫られたということになる。ただしここで、真垣が牟礼に来た時期、すなわち「赤い家」に暮らし始めた時期は1931(昭和6)年以降ではなく1929(昭和4)年からであることは真垣自身が記録し、あるいは語っていることはあらためて確認しておく。 

 では、一方で、高橋兄弟や江森は実際にはいつから「赤い家」に暮らし始めたのだろうか。実はこれについても、真垣武勝について調査しておられたSさんから送られた資料にその答えがあった。それは、兄の高橋勝之がドイツ文学者の舟木重信の告別式(1975年5月3日、信濃町の千日谷会堂)において語った「お別れのことば」(舟木重信『人間この愛しきもの:舟木重信書簡集』東洋出版、1987年)の中にあった。


舟木重信(ふなき・しげのぶ)小説家、ドイツ文学者、翻訳家。1893(明治26)年7月27日生まれ。1975(昭和50)年4月29日死去。広島県江田島生まれ。東京帝国大学独文科卒。1934(昭和9)年早稲田大学独文科創設以来、早大にあり、のち名誉教授に。1933(昭和8)年ファシズムに抗して学芸自由同盟を結成、書記長となる。ドイツ文学者としては日本におけるハイネの科学的研究の基礎を据え、1940(昭和15)年、大著『詩人ハイネ 生活と作品』を刊行したほか、『ゲーテ・生活と作品』などの著書がある。

(『20世紀日本人名辞典』日外アソシエーツ、2004年)


 高橋は「早稲田(大学)のロシア文科」の学生だったが、友人の多くが「ドイツ文科」だったことから舟木の講義を受講しており、それが舟木との出会いで1920年代のことだったとして、そのことから自身も「舟木学校」の弟子の一人だと語り始める。そして続けて、高橋は真垣との関係、吉祥寺(を含めた武蔵野)との関係について語っているのである。少し長いが引用したい。


…私は学校へほとんどいかなくなり、いつの間にか治安維持法で逮捕されました。一九三二年、保釈になって出ました。たまたま私の身元引受人が吉祥寺にいる従兄で画家の真垣武勝でしたから、その頃吉祥寺の消費組合でやっていたドイツ語の研究会に、何かの機会に顔を出したことがあります。そこではエンゲルスの「空想からの科学への発展」というドイツ語のパンフレットを舟木さんがやっておられたのです。その頃、幾度かお会いしましたが、まもなく(中略)、もう一度保釈取消となりまして、一九三六年にやっと出獄することができました。

(前掲「お別れのことば」)


 上記には、いくつも重要なことが語られているが、最も重要なのは1932(昭和7)年に保釈になったとき、身元を引き受けたのが真垣武勝だったということである。二人が従兄関係にあったことはすでにわかっていたことだが、身元引受人が真垣だったことは今回初めて明らかとなった。(上記では真垣が「吉祥寺」にいると語っているがこれは「牟礼」と「吉祥寺」は近接していることからこのように高橋が認識していたのだと思われる)さらにそのあとの部分で、吉祥寺の消費組合で師匠の舟木重信がドイツ語の研究会の講師をしていてそこに参加したというくだりがある。実は、舟木重信はすでに吉祥寺に暮らしていた江口渙との親交をより深めるために1930(昭和5)年に吉祥寺に家を新築し越してきており、以降、終生、吉祥寺で暮らした。(東京府北多摩郡武蔵野町吉祥寺548番地)

 そしてその年(あるいはその翌年)から「関東消費組合」の吉祥寺支部(「城西消費組合」)に参加し、その中で、上記のように自身の特性を活かしてドイツ語講習会を行ったという。このドイツ語講習会には真垣も参加しており、舟木と真垣はその後、生涯にわたって親交を重ねることになったことが舟木の記録に残されているのだが、二人を最初に結びつけたのは高橋勝之だったとみてよいだろう。(中村英雄・榎本重雄『人間 この愛しきもの 舟木重信書簡集』53、59、504頁) 

 上記にあるように、高橋勝之は、1932(昭和7)年に保釈になった際、身元引受人の真垣のもとで暮らしたことは間違いだろう。この時点で真垣は結婚しているが、未だ「赤い家」にいたか、「藁屋根の家」にいたかはわからないが、二つの家のいずれかに高橋は身を置いたと思われる。

 ここまで検討してきて、私の中でまた新たな疑問が生じた。それは、高橋は1932(昭和7)年から初めて真垣とともに(あるいは近くに)暮らすことになったのか、あるいはそれ以前からだったのではないのかという疑問である。というのは、前述の「お別れのことば」では語られていないが、高橋は1929(昭和4)年10月に治安維持法で検挙され投獄されている。そして1932(昭和7)年になり予審終結となって保釈されたところからが「お別れのことば」では語られていたのである。(『近代日本社会運動史大辞典3』日外アソシエーツ、1997年)

 私の中での新たな疑問というのは、この検挙された時に高橋が居住していたのが実は「赤い家」ではなかったのか、ということであった。そう考えた根拠として、まず、その時期すでに高橋の従兄の真垣は「赤い家」にいたことが挙げられる。そのことを知った高橋が、真垣が「赤い家」に住み始めてすぐに転がり込んでもおかしくはない。そして、すでに同居の実績があったことから、1932(昭和7)年の保釈においても真垣が身元引受人となったのではないかと推測したのである。

 さらに、もう一つ。高田博厚は1929(昭和4)年に「無産者新聞の記者をかくまった」として逮捕され、「赤い家」も家宅捜索されている。(「冊子」12〜13頁) 実は、高橋勝之は1929(昭和4)年に「無産者新聞」「第二無産者新聞」に加わり編集などに携わっている。(前掲『近代日本社会運動史大辞典3』) このことから、あるいは高田博厚が「かくまった」とした「無産者新聞の記者」とは高橋勝之のことだったのではないかと推測したのであるが、どうだろうか。さらに調査を進める必要がある。

 ただ、これらの推測と、高田の渡仏後(1931(昭和6)年以降)に真垣が住み、真垣の従兄の高橋兄弟が同居したという貴司山治の記憶には矛盾が生じてしまう。しかし、実際には真垣が「赤い家」に暮らし始めた時期が1929(昭和4)年だったことと考え合わせれば、上記の推測も可能性がないわけではな。いずれにしても高橋兄弟と江森盛弥が「赤い家」に居住した時期についてはさらなる調査の必要がある。

 ところで、高橋勝之の妻は、江森盛弥の妹であることも今回わかった。(前掲『近代日本社会運動史人物大事典3』)ここにも「赤い家」で育まれた交友関係の影響があるのではないだろうか。二人の結婚については、舟木重信への「お別れのことば」でも次のように述べられている。


 私たち(私と家内)が結婚するとき、舟木さんのお宅でささやかな、しかし実に愛情のこもったお祝いの会を開いていただいた(中略)。舟木さんのお宅でやっていただいた結婚の式が最初で最後の最も楽しい思い出になったわけです。そのときに今の吉祥寺の西十一小路の応接間になっている部屋ですが、あそこに花が活けられていて、お嬢さんが、一番上のお嬢さんですが、酒をもって私たちに注いで下さったことは、今も記憶に残っています。

(前掲「お別れのことば」)  

 

 「赤い家」に関わった人びとの中では、これまで高橋勝之についてはほとんど情報がなかったが、ここまで見てきたように、「赤い家」のみならず、舟木重信との交流やそこを通じて消費組合に関わったり、また真垣武勝と舟木を結びつけるなど、三鷹の牟礼、武蔵野での日々の豊かさを垣間知ることができた。とりわけ、舟木重信や消費組合については、高橋を通じて初めて知ることが多かった。

 消費組合については、「赤い家」の住人だった大宮昇にとっても重要な活動だったことも見えてきているので、あらためて別項にて検討したいと考えている。

 合わせて、舟木重信についても、消費組合という武蔵野地域での関わり、それから高橋勝之や江口渙など左翼活動家、プロレタリア作家との関係などにおいても注目すべき人物であることが見えてきたので、こちらも別項にて取り上げたいと考えている。