「戦後の日本」について考える。

 

 以前、日本社会党(以下、社会党)の朝鮮認識について日韓会談への態度を通じて検討したことがある。そこにあった問題意識は、90年代に戦争責任、植民地支配責任について被害当事者の方々から問い直しを受けた際に、それを日本政府への追及および日本社会における議論へとつなげる上で重要な役割を担った社会党が、なぜ日韓会談期間においては日韓会談に異議を唱えつつも植民地支配の責任追及を二次的としたのかというものであった。(「日韓会談への態度を通してみた日本社会党の朝鮮認識—党機関紙/誌の分析(1950-65)—」『明治学院大学大学院国際学研究科紀要 第14号』2015年)

 それを読まれた方に「なぜ、社会党なのかという点をもっと明確に書いて欲しかった」という感想をいただいた。いつか明確にしなくてはならないなと思いつつずいぶん時間が経ってしまった。数年越しだが、「なぜ、社会党なのか」ということを明らかにするための思考の整理を記しておきたいと思う。

 

 今から15年前の2005年、いわゆる歴史教科書問題(1)の渦中にあった地域に暮らしていたわたしは、言いようのない焦燥感に襲われていた。これまで積み重ねられてきたと思っていた「戦後」の日本が知らぬ間に覆されようとしていると、そのとき感じたのであった。

 それから10年後の2015年、戦後70年の特集のなかで、歴史家の鹿野政直さんが、「『戦後』が潰されようとしている、という以上に雪崩れている」と現状について表現された。さらに、そのような状況に対して様々な理由が挙げられることを受けて、「しかしわたくしには、『戦後』と称されてきた時代の“地”が出たとの思いがつよい」と述べられていた。

鹿野政直「『玉音』の呪縛」『社会評論』180号、2015年。鹿野政直さんのこのような「戦後」のとらえかたに触れ、わたし自身も「戦後」について思うところを書いており、本blogでも公開している:「ナショナリズムからの解放を求めて(雑感)」)

 

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 かつてその要因が不明瞭だったわたしの焦燥感は、鹿野政直さんの語る思いと似た感覚に由来するものだったのだと、そのとき腑に落ちた。「戦後」の日本が知らぬ間に覆されたのではなくて、「“地”が出た」のだとしたら、わたしがやるべきことはそのような「戦後」を見直すことだった。実際には、このようにはっきりと自覚する前に、冒頭で触れた拙稿は書き終わっていたのだが、そのテーマに進むきっかけが時間差で明確になったのだった。

 明確に言語化される以前、わたしのなかには素朴な二つの問いがあった。なぜ、戦後の日本は、憲法9条を掲げているのに日米安保条約自衛隊という矛盾した存在を並存させてきたのか。なぜ、戦後の日本では、戦争責任、植民地支配責任(2)の議論が広まらなかったのか、深まらなかったのか。(3)

 

 戦後日本の政治体制を構築してきたのは、ほぼ一貫して自由民主党(以下、自民党)であった。一方、自民党による政治に批判的な態度をとり続けてきたのは「革新」と呼ばれた勢力であった。「革新」という用語は戦時中にも「革新官僚」-国家総動員体制を企画推進していた中堅官僚を総称-という形で使われたが、戦後にそれとは区別して「戦後革新勢力(4)」と呼ばれる一群があった。(清水慎三『戦後革新勢力-史的過程の分析』青木書店、1966年、p.13) 五十嵐仁は、戦時期に用いられた「革新」が戦後に復活・定着するのは「55年の自民党結成以降のこと」だとしている。さらに、ここから遡って「革新」の語を適用する形で45−60年の「形成期」、60−80年の「全盛期」、80年代以降の「衰退期」という時期区分を行っている。(五十嵐仁編『「戦後革新勢力」の源流:占領前期政治・社会運動史論 1945-1948』大月書店、2007年、p221,238-239。)

 「戦後革新勢力」のなかでも、国会において1/3の議席を持つ野党第一党の座を長く保持するなど、日本社会において小さくない影響力を持ったのは社会党であった。社会党は、憲法9条の実現を一貫して、訴えてきた。9条と日米安保、9条と自衛隊という矛盾した体制を正面から長く批判してきたのである。9条堅持の意識が広くそして長く現在まで浸透していることからも、社会党の日本社会への影響力は説明できるだろう。あるいは、そのような日本社会の意識を反映できる議会勢力だったとも言える。また、社会党は議会内のみならず、議会外におけるいわゆる運動の場面でも社会への影響力を持っていた。

 また、自民党社会党新党さきがけによる連立政権において与党第二党だった社会党の党首が首相の座を務めた村山富市政権は1994年7月に発足し、翌95年に国会決議と首相談話によって侵略と植民地支配への加害意識と謝罪の意思を示した。(5)

 90年代は日本の侵略、植民地支配の被害を受けたアジア諸国を中心とした人びとが日本国や日本の企業を相手に訴訟という形でまさに侵略と植民地支配についての問い直しをせまった時期であった。このとき、これまで不十分であった戦争責任、植民地支配責任について政府(あるいは企業)への追及はもちろんのこと、自分自身を含めた日本社会における議論へとつなげる役割の一端を担ったのは「戦後革新勢力」だった。前述の国会決議と村山首相による談話は、それまでの自民党政権下で繰り返された「国際社会に向けて不明瞭な反省のメッセージを送るという慣習を破る」ことになった。しかし、日本の戦争責任を明確にしようと社会党の主導で提起された「不戦決議」は、議会の内外で強い反対にあう。(具裕珍「日本における政治的脅威と保守運動—1990年代の不戦決議反対運動を中心に-」『アジア地域文化研究』No.14、2018.3)

 そして、1995年6月9日の衆議院本会議では議員のうち241人が欠席する中で可決されたように、当初期待された形とは異なるものであった。だが、その2ヶ月後の8月15日、村山は日本がアジア太平洋戦戦争の加害国として犯した過ちを公式に認める談話を発表したのである。

 もう一つ、村山政権においては、社会党が平和、反戦という理念に則って否定的態度を堅持してきた自衛隊日米安保条約、日の丸・君が代に対して容認へ転じるという大きな局面があった。(6)これは、社会党にとってはもちろんのことだが、戦後の日本社会にとっても非常に大きな転換点だったと言えるだろう。

 90年代以降に「戦後革新勢力」の力が減退していく背景には、冷戦構造の崩壊があったことはよく知られているが、まさに、その冷戦構造の崩壊は、それまで見えなくされていた、あるいは見ずに済んでいた様々な問題をあらわにした。すなわち戦後の日本社会がそれらのことに正面から向き合わざるをえなくなる契機にもなったと言えるのではないだろうか。そのような状況の中で、村山政権がとってきた態度や選択を改めて見たとき、わたしにはそれが戦後の日本の限界の象徴のように感じられてならない。言い換えれば、それは、「『戦後』と称されてきた時代の“地”が出た」ということなのだろう。

 社会党を含めた「戦後革新勢力」は今、どのような形で散らばっているのだろうか。現在、リベラルと呼ばれる人たち、自称する人たちとの関係はどのように見ることができるだろうか。ここまで見てきたように戦後という長い時間の中で、社会党が、少なからず、というよりかなり大きな影響力を持ち続けてきたことを確認した今、社会党社会党にシンパシーを感じてきた人たちを通じて戦後の日本を問い直すことは、改めて、重要なテーマであると、わたしには思える。

 

 戦後の日本の批判的再検討は、進めても進めても知らないことやわからないことが増えるばかりである。そのなかで、ここ数年は、具体的なテーマとして、「朝鮮戦争と日本社会」について様々な人びとを対象に調査と考察を重ねている。過去の人たちの置かれた状況と、その心情をできうる限り知りたい。そこに限界のあることなどわかりきっているが、それでも、その時点から現在に至る過程を少しでも紐解くことで、現在のわたしの置かれた囚われの状況はひらかれたものに変容するかもしれないし、これから進んで行く道が仮に険しいものであったとしてもそこへの一歩を踏み出す力が強まるかもしれない。そんな望みを密かに抱きつつ、今後も検討を進めていくつもりである。

 

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(1)2005年度は、2001年度に続いて歴史教科書が社会問題として注目された年だった。「同年4月、「新しい歴史教科書をつくる会(「つくる会」)」編集の改訂版歴史「教科書」が文部科学省の検定に合格した」。国内外の市民は、その内容だけでなく、「検定申請図書(白表紙本)の不正配布、政界への働きかけなど「つくる会」側の動きや彼らに有利な動きを見せた政治と行政に対して、批判と対抗」を起こした。そして、その動きは日本の市民、歴史研究者、教育者へと広がり、教育委員会への働きかけのほか、「つくる会」の教科書の批判と不採択を求める運動として展開された。その批判の内容は、改訂版歴史「教科書」も旧版と同様に「歴史的事実を軽視し一国主義的な枠組みにしがみついた偏狭な歴史像を植えつけるもの」だというものであった。

 こうした批判の力もあり、「つくる会」の改訂版歴史「教科書」の最終的な採択率は0.4%にとどまった。それでも、2001年に比べその採択率は高まり、栃木県大田原市と東京都杉並区の公立中学で初めて採択された。太田修「2005年歴史教科書問題-「対話的」真実に向けて」『文学部論集』(佛教大学)第91号、2007年3月1日、pp.17-30.

 

(2)戦争責任、植民地支配責任をどのような概念として考えているのか。またどのような主体を想定しているのか。このことについて、現時点で考えていることを記しておくことにする。

 

 まず、植民地支配責任という概念だが、これは戦争責任に比べて広く浸透しているとは言えないだろう。このほかに「植民地犯罪」「植民地責任」といった用語もすでに合意を見ているような概念ではない。日本では2009年に『「植民地責任」論』において「植民地責任」という用語を採用しているが、この点について編者である永原陽子はこの用語は共同研究者らと2003年秋に考えついた「造語」だったと述べている。(永原陽子「あとがき」『「植民地責任」論』青木書店、2009年、p.419)

 とはいえ、板垣竜太によれば、これは全く「新しい」概念ではなく、「遅くとも1963年には、日韓会談反対運動の過程で広く頒布された小冊子において、「戦争責任」に対応させるかたちで「植民地支配の責任」との文言が用いられている」という。(板垣竜太「植民地支配責任論の系譜について」『歴史評論』784、2015.8、p.17) いずれにしても、「植民地支配責任」についての議論が広まらなかった背景については改めて検討したいと考えているが(冒頭で触れた拙稿もその一つのささやかな取り組みである)、一点だけここで触れておきたい。

 それは、その被害の対象者の違いについてである。戦争における被害を考えたとき、アジアへの日本による侵略行為を対象とすれば、その被害者は一義的にはアジアの人びととなる。(アジアでの戦闘行為の最中に、飢餓状態に置かれた兵士であるとか、満洲移民の人たちが敗戦後に軍をはじめとした日本国に半ば捨て置かれた状況も被害と捉えられるだろう。厳密には、戦争においては被害と加害は重層的であり、安易に二分することは避けるべきだと思うが、ここでは概念の整理のために明確に区別しておくことにする。) だが、太平洋戦争においては、日本においても爆撃、あるいは沖縄では米軍上陸による戦闘行為によって多大な被害を受けている。そのため、自身や周囲が受けた被害という実感から比較的早くから戦争責任については認識されたと言えるだろう。

 一方で、植民地支配責任については、日本の場合、敗戦と同時に植民地を「手放す」ことになったこと、また戦勝国による裁判においても植民地支配については不問に付されたことなどから、概念そのものを認識することがほとんどなかったといえるだろう。ただし、植民地支配下に置かれた朝鮮の人びとは、敗戦後の日本にも多く残ったのであり、その意味では戦後の比較的早い時期に植民地支配責任の意識があらわれてもよかったはずである。だが、実際には、多くの人たちにその意識は現れなかった。そのことの意味を考えることは、わたしにとってもっとも重要なテーマである。

 

 次に、概念の定義と主体について考えてみたい。まず、定義だが、言葉通りに捉えれば、戦争に対する責任と植民地支配に対する責任ということになる。ここでは、責任ということをどのように捉えるべきかということについて考えてみたい。日本では、「責任を」の後には「とる」という述語が置かれることが多い。その意味合いは、何かの事態に伴って生じた責務を引き受けるということになるが、わたしは、ある人に「責任の意識が表れる」という状況、あるいはその過程に着目したいと考えている。これは、後で触れるように、被害を受けた人たちの声を聴くことができたとき、つまり、被害を受けた人たちの中で損なわれたものが何なのかということに意識が及んだときにこそ、責任の意識が芽生えるのではないかと考えるからであり、さらに、その状況になって初めて何らかの形で「責務を引き受ける」すなわち「責任をとる」という態度や行動へと進むのではないかと思うのである。このプロセスをないがしろにして、「責任をとる」あるいは「責任をとらない」という判断を下してきたところに、戦争責任や植民地支配責任の議論が深まらなかったあるいは広まらなかった陥穽があったように思えてならないので、こうした意識あるいは仮説を持って歴史的経緯を検討していきたいと考えている。

 

 こうした考えからもわかるように、責任の主体に関しては、国家や企業といった法人格というよりも個人を想定している。では、その個人とは、どの時期の個人なのか。これは、戦争責任、植民地支配責任の議論において、しばしば言われる「当時生きていないのだから戦後生まれの人には責任はない」ということとも関係するので、少し丁寧に見ていきたい。

 

 確かに、この両者の責任の主体を考えるとき、当時を生きた人とそうでない人との間には線引きが必要になるだろう。前者には、戦争、植民地支配を始めた国家の中枢にいた人たち、それを積極的にせよ消極的にせよ、賛同した人びと、そして現地で具体的な行動をとった人たちなどが考えられる。

 一方、後者には、戦後に生まれた全ての人たちが含まれる。ではこの人たちの責任とはいかなるものを指すのか。考え得るのは、過去の事実を明らかにすること、あるいは国家などに過去の事実を明らかにさせること、そして未来に同じことをしない、あるいは国家などにさせないように行動する、ということになるだろうか。

 そして、実は最も重要なのは、戦争、植民地支配の被害を受けた人びとの「声を聴く」ということではないかと考えている。「声を聴く」というときの声は必ずしも現在発せられる声に限らない。つまり今この時代に生きてはおられない人びとの声をも含めて考えている。近い将来、体験者の方々がいなくなることが危惧されているが、音声や映像、あるいは書かれたものなどを通じて“声”を聴くことはできるはずである。ただし、その際には、対面がかなうとき以上に、受け手の構えがとても重要になってくるだろう。この点については今後も考えを深めていきたい。

 

 いずれにしても、こうした声をもし本当に聴くことができたならば、受け止めることができたのならば、責任意識というものは自ずと表出するのではないだろうか。当事者からの追及あるいは問いかけに対して、すぐに「責任をとる」といった態度を示すのではなく、その人たちの声にただ耳を傾けるとき、その人たちが求めることの理解に近づけるのではないのだろうか。そのようなプロセスの先に「責任意識」が表れ、そしてさらにその先に「責任をとる」というような態度が示されるのではないだろうか。しかし、こうしたプロセスの先の「結果」を目的とした瞬間に、その「結果」は遠のいてしまうのではないだろうか。この点についても、今後、考察を重ねた上で、言語化していきたいと思っている。

 

 植民地支配責任の議論については、2012年くらいから学び始めた。中でも、以下の論考から非常に多くのことを学んだ。

・板垣竜太「植民地支配責任を定立するために」(岩崎実ほか編著『継続する植民地主義 ジェンダー/民族/階級』、青弓社、2005年)

・板垣竜太「脱冷戦と植民地支配責任の追及-続・植民地支配責任を定立するために」(金富子/中野敏男編著『歴史と責任 「慰安婦」問題と1990年代』、青弓社、2008年)

・板垣竜太「植民地支配責任論の系譜について」『歴史評論』2015年8月号。

・吉澤史寿「日本の戦争責任論における植民地責任ー朝鮮を事例として」(永原陽子編『「植民地責任論」脱植民地化の比較史』、青木書店、2009年。

 また、上記では触れなかったが、テッサ・モーリス-スズキの「連累」という考え方は、過去へ向き合うということに関して大きな示唆を得たし、また勇気を与えられた。

・テッサ・モーリス-スズキ『過去は死なない メディア・記憶・歴史』、岩波書店、2004年。

 

(3)焦燥感につき動かされたわたしは、翌年の2006年から大学に再入学し、そこで戦後の日本を歴史的にふりかえるための学びを再開した。2009年からは「サンフランシスコ講和体制と戦後補償問題」をテーマに戦後の日本を再検討し始め、2010年に一応の結論に達したとき、戦後の日本における戦争責任、植民地支配責任の議論の不十分さという新たな課題が浮かび上がってきた。

 

(4)「戦後革新勢力」という存在は明らかにおり、戦後を検討する際にその存在と役割は決して軽視できない。だが同時に、その定義が難しい存在でもある。

 「戦後革新勢力」は社会主義的体制変革運動と分かちがたい存在であったし、社会主義的な組織(政党)をその政治代表として選択してきた。だが、それでも「革新」と「社会主義」は同意語ではなく、実体的にも全く同じではなかった。この点、清水の「『革新』と『反体制』は内包的にごく接近しているが、『革新』と『社会主義革命』の間には質的なへだたりがあった」という表現が最も適切にその実体を示しているだろう。このようにその中身が漠然としているためその定義は困難であったのである。(清水慎三『戦後革新勢力—史的過程の分析』青木書店、1966年、p.13)

 では、具体的にはどういう団体やどういう人たちがその担い手だったのだろうか。議会内(院内)における中心的な勢力は本文でも述べた通り社会党であったが、「院外の大衆運動には折々の大きな変化があった。労働運動においては、40年代の産別会議—総同盟の二大組織並立状況から50年代半ば以降の総評—全労・同盟の並立状況へ転換があり、同じ二大組織並立とは言ってもその間に『民主化運動』をはさんで磁場は大きく変化している。反戦平和運動や女性解放運動、農民運動、民族運動など、多様な社会運動においてはもっと複雑な力が交錯した」。(道場親信「読書ノート 「戦後革新勢力」をいかに歴史家するか-五十嵐仁編『「戦後革新勢力」の奔流』」『大原社会問題研究所雑誌』No.639/2012.1、p.54)

 

 「戦後革新勢力」に関連する先行研究については、自身も同テーマを研究した道場親信の論考を参照し、以下にまとめた。(著者名五十音順)。(道場親信「読書ノート 「戦後革新勢力」をいかに歴史化するのか-五十嵐仁編『「戦後革新勢力」の奔流』」『大原社会問題研究所雑誌』No.639/2012.1)

・五十嵐仁編『「戦後革新勢力」の源流—占領前期政治・社会運動史論1945-1948』大月書店、2007年

・五十嵐仁編『「戦後革新勢力」の奔流—占領後期政治・社会運動史論1948-1950』大月書店、2011年

・石田雄『現代組織論』岩波書店、1961年。

・清水慎三『戦後革新勢力—史的過程の分析』青木書店、1966年。

・清水慎三『日本の社会民主主義岩波新書、」1961年。

・徐勝編『東アジアの冷戦と国家テロリズム:米日中心の地域秩序の廃絶をめざして』御茶の水書房、2004年

・高畠通敏「大衆運動の多様化と変質」日本政治学会編『年報政治学1977 55年体制の形成と崩壊:続・現代日本の政治過程』岩波書店、1979年。

広川禎秀山田敬男編『戦後社会運動史論:1950年代を中心に』大月書店、2006年。

丸川哲史『冷戦文化論:忘れられた曖昧な戦争の現在性』双風舎、2005年。

道場親信『占領と平和:〈戦後〉という経験』青土社、2005年。

道場親信「革新ナショナリズム戦後民主主義広川禎秀山田敬男編『戦後社会運動史論』を読みつつ「戦後社会運動史」を考える」『アソシエ』第18号、2007年。

道場親信『抵抗の同時代史:ネオリベラリズムに抗して』人文書院、2008年。

道場親信「ゆれる運動主体と空前の大闘争:「60年安保」の重層的理解のために」『年報日本現代史』第15号、2010年。

 

(5)ここでいう国会決議とは「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」のことである。1995年6月9日に衆議院本会議で可決された。決議では、日本が植民地支配と侵略的行為を行い、アジアの諸国民に苦痛を与えたことへの深い反省の念が表明された。この決議が、同年8月15日の村山首相の談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」に繫がることになった。ここで村山首相は「日本が国策を誤り、侵略と植民地支配によってアジア諸国民に損害と苦痛を与えたことに対して反省し、お詫びする」と述べた。

 村山談話の評価については、板垣竜太が以下のように述べているが、わたしはこれに全面的に同意するものである。少し長いが重要なところなので引用しておきたい。

  

 「当時、日本軍「慰安婦」問題をいかに解決するのかが焦点化するなか、しばしばその内容の曖昧さが批判されてきた部分だが、その一方で、一国の首相が「植民地支配」による「損害と苦痛」について形式的にでも謝ったというのは、旧植民地帝国のなかでは画期的なことでもあった。もっとも、「損害と苦痛」の中身とその責任について、自ら積極的に全面的な真相究明をおこなおうとする意思を欠いた形式的な文言であった。また、どこまでも「損害と苦痛」について法的な責任は存在せず、したがって賠償・補償には一切応じられないという一線を堅持したうえでの文言であった。これをさしあたり法的責任論と区別して道義的責任論と呼べば、90年代半ばに至って日本政府は、日本軍「慰安婦」問題と並び、植民地支配に関して道義的責任論を、少なくとも表向きにはかかげるようになったのである。」

板垣竜太「植民地支配責任を定立するために」(岩崎実ほか編著『継続する植民地主義 ジェンダー/民族/階級』、青弓社、2005年、p.263.)

 

 村山政権の道義的責任を示した態度は、その後の政権にも踏襲されたが、2015年の安倍晋三首相による談話においては「植民地支配」という文言は盛り込まれているものの、日本の行為としてそれがあったことは明確に触れられておらず、態度としては踏襲されなかった。このように、90年代半ばから何歩も後退してしまった今、なぜそのような状況になったのかということを、戦後という長い時間の中で見つめなおす必要があるのではないだろうか。その文脈において、90年代半ばに示された日本政府の態度にあった限界について、より丁寧に考察したいと考えている。

 

(6)村山首相は、1994年7月18日から5日間の日程で召集された第130回臨時国会での羽田孜新生党代表による代表質問への答弁で、①専守防衛に徹し、自衛のための必要最小限の実力の実力組織としての自衛隊憲法の認めるものとの認識し、②日米安保体制を堅持し、③日の丸・君が代は国旗・国歌として国民に認識されていることを尊重する、などと述べて、社会党の基本政策の転換を表明した。この基本政策転換はのちに同年9月初めの社会党臨時大会で承認されるが、党内の議論を経ずして基本政策の転換を表明したことは、社会党へ投票した有権者をも裏切る行為として、当時多くの批判を呼んだ。(井田正道「村山政権を振り返る」『政経論叢』第84巻第3・4号)