冊子vol.4 朝鮮戦争と日本人船員(シリーズ朝鮮戦争と日本社会)

本日『猫が星見たー歴史旅行』vol.4を刊行しました。

テーマは「朝鮮戦争と日本人船員」です。

vol.2以降、朝鮮戦争と日本社会というシリーズで書いてきています。
vol.2とvol.3では「日本人にとっての朝鮮戦争」とはどのように受け止められていたのかということを
主に新聞などを通して検討してきました。

 

今号では、朝鮮戦争に実際に関与した日本人船員について検討しています。

米軍への物資・人員輸送、上陸作戦に日本人が船員として動員されたことを知っている人はそれほど多くないと思います。
彼らは機雷掃海隊とは異なり公務員でなく、様々な雇用形態ではあったが、あくまでも民間の船員でした。

わたしが、朝鮮戦争に関わった日本人がいたことを知ったのは比較的最近のことで、友人に誘われてある船員の方の朝鮮戦争体験記をお聞きしたのが最初でした。2013年のことです。その方は民間のLST乗組員として朝鮮戦争に関わったのだと話してくれました。LSTとは「Landing Ship Tank(戦車揚陸艦)」の略です。戦車と兵員を積んだまま海岸に乗り揚げて、それらを揚陸させ、敵前に橋頭堡を築くために使用される船のことです。これに乗り組むということは、敵前上陸を敢行した場合、敵に攻撃されて艦と運命をともにするかもしれないということを意味しました。 

戦後の日本は、憲法9条を持つ平和国家でした。にもかかわらず、実質的に戦争に参加していた日本人がいたということは何を意味していて、またなぜ広く知られずにきたのでしょうか。そしてそのことを今どのようにとらえるべきなのでしょうか。

シリーズ“朝鮮戦争と日本社会”の二つ目のテーマは、朝鮮戦争に船員として関わった方が語られたこと、そこから受け止めるべきこと、ということになります。今回は、種々の海上輸送業務、船員の様々な雇用形態を整理確認した上で、乗船した人びとが朝鮮戦争に関わる中で何を感じ、どのような態度を示したのかというように船員という個人に焦点を当てていきます。後者については直接お話をお聞きしたことのある方の語りと記録を中心に、先行文献や他の船員の日記、証言記録なども含めて検討します。

 

今号をご希望の方はお手数ですが下記までご連絡ください。

なお、1部500円となります。
お支払い方法などは個別にご連絡させていただきます。
よろしくお願いします。
nishiogiminami3@yahoo.co.jp

有限。(雑感)

有限

 

 わたしは、中央線沿いの西荻窪と吉祥寺暮らしています。幼少の頃にも今とほぼ同じ場所に数年住み、別の街を転々としてまた十数年前に戻ってきました。

 

 毎日、中央線の高架下や高架脇を朝、昼、夜と様々な時間に歩きます。目の前に映る景色は、幼少の頃とまったく変わっていなかったり、少し面影を残しつつ変化していたり、以前を思い出せないほどになっていたり、色々です。

 

 そんな景色を目にしながら日々を過ごすことで、わたしの意識は幼少の頃と今との時間を往来させられています。かつて母と離れて社会と関わることに怖れを感じ泣いていた日々、プールがこわくて雨が降って授業が中止になればいいと線路沿いに咲く雨降り朝顔を抜いていたある日の夕方、色あせた「外環道絶対反対」の看板を眺めていた真夏の昼間。毎日、目にする景色が、かつてのいろんな光景とその時の思いを呼び寄せるのです。

 

 そんな日常を過ごしていると、次第に、自分が生きてきたこれまでの時間を否応なく実感させられ、それは自分の人生の有限性への実感と繋がっていきます。

 

 この街に戻ってきてから、祖母と猫二匹と父の死に直面しました。死は、それまでの世界とその後の世界とを分け隔てる点のような存在ですが、でもそれを祖母の、猫の、父の生命が全うされた着地点だと捉えることもできます。

 

 生命は有限である、という当然のことを、愛する存在の命が全うされる姿を間近でみたことと、自分の生の時間を日々感じるなかで、自然と実感していくようになりました。

 

 過去の自分との交信は、これからも続いていくのでしょう。それは不思議で心地よい時間です。

送付方法について

みなさまへ

 

おしらせです。

冊子の送付については基本的には郵送とさせていただいていましたが、

何件かご希望がありましたので、

データでもお送りいたします。

 

どうぞ、ご検討ください。

よろしくお願いいたします。

冊子vol.3〜朝鮮戦争と日本社会〜

〜『猫が星見たー歴史旅行』vol.3を本日刊行しました。〜

 

「日本人にとっての朝鮮戦争」後編です。

多数の日本人にとって朝鮮戦争はどのように受け止められていたのかということにアプローチしてきました。 

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帰国事業の痕跡をたずねる3〜札幌大通公園の集団帰国碑〜

札幌に来ています。
以前、わたしは札幌にほんの短い間でしたが住んでいました。

大通公園に帰国事業で集団帰国した際の記念碑があると知人に聞いたことがあって

こちらに来たときにはぜひ見に来たいと思っていました。

大通公園は札幌市の象徴的存在。テレビ塔のある大通西1丁目から札幌市資料館のある大通西13丁目まで東西に1.5キロもの長さのある公園です。
エリアごとに雰囲気も少しずつ違いますが、どこも訪れた人をスッと受け入れてくれる緑あふれる空間です。

記念碑のあるのは、西7丁目の南側。電話ボックスのうしろ。とてもひっそりとして、そこに在りました。

わたし、この7丁目あたりは好きで、札幌在住のときもよく来て、ベンチで本を読んだり珈琲を飲んだりしていたはずでした。
とくにこの電話ボックス。以前は赤を基調としたもので、素敵だなと思っていてとてもよく覚えているのです。

でも、記念碑の存在、まったく気づいていませんでした。

 

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記念碑には

贈野村楓七本
朝鮮民主主義人民共和国公民

集団帰国記念

1959年11月
朝鮮総聯札幌支部帰国者集団

植栽 日策 種?造園業造園所

とあります。
1959年の12月14日が最初の帰国船が新潟港を出発した日ですから
その直前ですね。11月にセレモニーがあったのでしょうか。

野村楓とは、オオモミジ系の園芸品種。
海外では、朝鮮半島や中国にも分布するそうです。日本では江戸時代から武蔵野(ムサシノ)の古称で知られた伝統的な品種の庭木です。

でも、いま記念碑のまわりにあるのは
ユリノキ
イチイ
トチノキ

で楓はないようです。
植えられてから58年もの歳月ですからね。
どういう経緯でいまは見当たらないのかわかりません。


札幌に戦後も暮らした朝鮮半島の人びとについては帰京してから調べてまた追記したいと思います。

 

 

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冊子vol.2〜朝鮮戦争と日本社会〜

今号からしばらく

朝鮮戦争と日本社会”を大きなテーマにしていきたいと思います。

 

〜『猫が星見たー歴史旅行』vol.2を本日刊行しました。〜

 

 

その最初のテーマは「日本人にとっての朝鮮戦争」です。

 

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 1953年7月27日、板門店朝鮮戦争の休戦協定が調印されました。休戦協定は米国が支配した国連軍司令部の代表、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)の人民軍、中華人民共和国(以下、中国)の義勇軍が調印しました。韓国は調印しませんでした。現在も、最終的な平和条約には至っていません。分断と恐怖と軍事化を特徴とするこの国際的な体制は現在も消え去っていないのです。またこの戦争は多くの点で1950年代全体を通じて日本の運命にも影を落とし続けました。
 日本は、敗戦後、連合国の占領下に置かれましたが、その実質的な統治は米国によりなされました。その米国が対日方針を懲罰的なものから寛大なものへと大きく転換したのは冷戦を背景としてのことでした。そして朝鮮戦争の勃発は、平和国家としてスタートした戦後日本のあり方を形骸化させることになりました。在日米軍基地の固定化と日本の再軍備が始まったのです。憲法の理念と明らかに矛盾する体制はこの時から始まっていました。このように朝鮮戦争は戦後日本のあり方を規定しました。ターニングポイントだったのです。

 日本の文脈では、朝鮮戦争をめぐる人びとの記憶は間接的で非軍事的な側面に焦点が当てられる傾向があります。とくに強調されるのが、日本の戦後の高度経済成長への機動力となった朝鮮戦争の特需の役割です。ですが、実際のところ、日本社会に住む人びとは特需のメリットを享受していただけではないはずです。様々な面で朝鮮戦争の影響を受けていました。例えば、朝鮮戦争サンフランシスコ講和条約のあり方に影響を与え、それは、日本国内における講和論議にも影響を与えたのですから。また、朝鮮戦争の発端はそもそも日本による植民地支配をどう払拭するかをめぐる戦いであったことは強調しておかなくてはなりません。解放後も日本に留まることになった在日朝鮮人も日本においてこの戦争に翻弄されることになりました。
 2015年の夏から秋にかけ、安保法制の論議が日本社会では盛んに行われました。安保法制に反対する人びとの間では、戦後の日本は、憲法9条により一切の軍隊を持たず、あらゆる戦争に関わらず、よって一人の戦死者も出さずにきた。一人も殺さずここまで来たのだから、これからも戦争のできる国にしてはならない。そういう声をよく聞きました。本当に、戦後の日本は、一切の軍隊を持たず、一人の戦死者も出さずに、あらゆる戦争に関わらずにきたのでしょうか。実際は、そうではありませんでした。日米安保条約が締結され、米軍基地が固定化され、9条とは相矛盾した形で再軍備は進められてきたのです。そして今、その矛盾を「正す」べきだという声が大きくなっています。ですがそれは正しいことなのでしょうか?それよりもなぜ私たちはそうした矛盾を認めてきたのか。認めてきてしまったのか、ということについて自省するべきなのではないでしょうか?

 わたしが朝鮮戦争に焦点を当てて日本の戦後を再検討しようと思ったのは4年ほど前でした。そのときは日韓会談について日本社会を対象に勉強していました。その中で朝鮮戦争についての態度が多様で、それぞれのグループ、個人、そして社会全体と見渡すとなんとも温度差があることに気づきました。また、朝鮮戦争といっても、人びとはそれ自体にいくつかの側面を見ていたり、人によっては自分の過去との関係からより朝鮮の人たちに気持ちを近づけている人もいたりしていることが見えてきました。また、今度は、朝鮮半島の人びとにスポットを当てた朝鮮戦争を主題とした映画や本、在日朝鮮人の方のエッセイを読んだりもしました。すると、それまでさらっと朝鮮特需で日本の経済は持ち直した、だとか、1950年に朝鮮動乱が起き53年に休戦協定が結ばれた、などとほんの数行だけ記述して済ませていた自分の想像力のなさに愕然としました。同時にそんな風に想像しないままにいられたことにこそ、何か戦後の日本社会を見つめ直すポイントがあるのではないのだろうかと思い始めました。そんなところから少しずつ今も日本社会にとって朝鮮戦争とは何だったのかということついて勉強を続けています。

 ここまでみてきたように、朝鮮戦争は日本の安全保障(在日米軍の固定化、再軍備)のあり方を規定しました。そのことにより、国のあり方を定めた憲法と相矛盾する体制を現在まで続けることになりました。つまり、矛盾を抱えた戦後日本社会の原点ともいえるのが朝鮮戦争です。それからもうひとつ忘れてはならないことがあります。朝鮮戦争はそもそも日本による植民地支配をどのように払拭するかをめぐる戦争でしたが、そのことが現在まで日本社会できちんと議論されていないということです。
 朝鮮戦争は、戦後の日本社会でほとんど注目されずに来ました。それはどうしてだったのでしょう?「シリーズ“朝鮮戦争と日本社会”」では、日本社会が朝鮮戦争をどのように見ていたのか、様々な人びとを対象に、様々な角度から検討していこうと思います。まず、今回から数回にわたっては、多数の日本人にとって朝鮮戦争はどのように受け止められたのかということにアプローチしてみたいと思います。当時の人びとが、朝鮮戦争をめぐってどのようなことに関心を持ち、どのような態度をとったのか。新聞や雑誌、国会論議などを通じて、できるだけ当時のムードに近づいていきたいと思っています。そしてそこから今度は現在を見つめ直してみたいのです。そうすることでここから先、わたしたちがどのような態度をとるべきなのか見えてくることを願っています。