有限。(雑感)

有限

 

 わたしは、中央線沿いの西荻窪と吉祥寺暮らしています。幼少の頃にも今とほぼ同じ場所に数年住み、別の街を転々としてまた十数年前に戻ってきました。

 

 毎日、中央線の高架下や高架脇を朝、昼、夜と様々な時間に歩きます。目の前に映る景色は、幼少の頃とまったく変わっていなかったり、少し面影を残しつつ変化していたり、以前を思い出せないほどになっていたり、色々です。

 

 そんな景色を目にしながら日々を過ごすことで、わたしの意識は幼少の頃と今との時間を往来させられています。かつて母と離れて社会と関わることに怖れを感じ泣いていた日々、プールがこわくて雨が降って授業が中止になればいいと線路沿いに咲く雨降り朝顔を抜いていたある日の夕方、色あせた「外環道絶対反対」の看板を眺めていた真夏の昼間。毎日、目にする景色が、かつてのいろんな光景とその時の思いを呼び寄せるのです。

 

 そんな日常を過ごしていると、次第に、自分が生きてきたこれまでの時間を否応なく実感させられ、それは自分の人生の有限性への実感と繋がっていきます。

 

 この街に戻ってきてから、祖母と猫二匹と父の死に直面しました。死は、それまでの世界とその後の世界とを分け隔てる点のような存在ですが、でもそれを祖母の、猫の、父の生命が全うされた着地点だと捉えることもできます。

 

 生命は有限である、という当然のことを、愛する存在の命が全うされる姿を間近でみたことと、自分の生の時間を日々感じるなかで、自然と実感していくようになりました。

 

 過去の自分との交信は、これからも続いていくのでしょう。それは不思議で心地よい時間です。