ナショナリズムからの解放を求めて(雑感)

 韓国釜山の日本総領事館前に平和の少女像(以下、少女像)が新たに設置されたことをめぐって、日本政府は韓国政府に対して駐韓大使を一時帰国させるなどして抗議の意思を示しています。

 一昨年、2015年の12月に外相間で交わされたいわゆる日韓合意。ここで、韓国の市民団体が設置した少女像を撤去することを要請(努力義務ではあるが)したにもかかわらず、今回、新たに設置されたことに対して、日本政府は合意の不履行だとして抗議をしたわけです。

 こうした事態を受けて、韓国政府、韓国の人びと、日本政府、日本の人びと、在日朝鮮人など、様々な立場で様々な態度や意思の表明がなされている状況です。その中で、わたし自身が感じていることを少しお話ししたいと思います。

 

 まず、わたしは、日韓合意自体に反対の立場です。そもそも被害当事者の女性たちの声にきちんと耳をかたむけることなく政府間で強引に「解決」へと進めたことは許されないことです。さらに、これは今回の「慰安婦」問題に限らず、一貫して日本政府がしてきた、植民地支配の法的責任は一切とらないことを示したものであり、この点が、わたしが日韓合意に反対する最も大きな理由です。

 日本は、そもそも、日韓会談(1951年の予備会談〜1965年妥結)期間中より、ずっと、植民地支配は当時としては合法であった、すなわち日本には法的責任は一切ないという主張を貫いています。わたしはこの点に否という立場なのです。

 

 こうした立場をとる人は、日本の「リベラル」の中でもそれほど多くはありません。当然、条約締結までなされた現在、これを覆すことが容易でないことはよくわかっています。ですから、残された道からより良い、より被害当事者に寄り添った選択を考えるという人たちの考え方もわかります。

 ですが、戦後の日本社会において、あまりにも植民地支配をめぐる責任についての議論が足りなさすぎたように思うのです。日韓会談当時の「革新」、その系譜だといえるだろう「リベラル」の中では、そのような議論がもっと活発であっても良かったのではないかと。もちろんそのような問題意識を持った人がたくさんいたことも知っています。それでも・・・

 この点については、以前に書いたエッセイでより具体的に述べています。良かったらお読みください。

 

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『社会評論』181号(2015年7月)

敗戦後70年目の今年、日本社会は私が知っている限りにおいてかつてないほどに「戦後とは何だったのか」という問いを突き付けられ、そしてそれに向き合おうとしている。例えばそれは白井聡氏の『永続敗戦論―戦後日本の核心』や矢部宏治氏『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』がベストセラーとなっていることからもよくわかる。どちらも私たちが直視することを避け続けてきた戦後日本の核心をストレートに読者に提示している。

著者がこうした問いを提示せざるを得なくなったのも、多くの人がこの問いを受け止めずにはいられなくなっているのも、前号の鹿野政直氏のエッセイにあるように「戦後」がつぶされようとしている、雪崩れている状況に私たちが直面させられているからである。こうした状況は日本社会にとって厳しく辛くまた悔しいものであるが、こうなったからには見たくないものをどこまでも直視し自問自答することから始める以外にないのではないだろうか。

そうした中で、戦後日本を直視する際にどうしても抜け落ちがちな植民地支配責任の議論もこれを契機に広がってほしいと思っている。冒頭で述べた白井氏、矢部氏の著書では戦後日本がいかに対米従属のもとで生きてきたかということが書かれていたわけだが、まさにそのことは、日本がアジアの脱植民地化の過程に自覚的に主体的に向き合うことを回避してきたことと表裏一体の関係にあった。

だが1990年代以降に噴出した戦後補償裁判の中で植民地支配により被害当事者となった人々が声を上げたことで、日本社会は植民地支配責任についての応答をせまられた。戦後処理の中では冷戦という状況もあって米国をはじめとした連合国から不問にふせられた植民地支配責任について、厳然たる被害の事実を知ることによって私たちはようやく自覚的にならざるを得なくなったのである。とはいえそれが90年代当時も国民的議論にまで広がったとはいえなかったし、いまや被害当事者が声をあげたことで明るみになった「慰安婦」問題はその存在を否定し問題の矮小化を進める動きがある一方で、真の救済からはますます離れていっている。

昨年1月、大島渚の撮ったドキュメンタリー『忘れられた皇軍』(1963年放映)が約50年ぶりにTV放映された。ここで扱われていた「皇軍」は植民地支配によって「皇軍」とならざるをえなかった朝鮮人であった。彼らは日本人として「皇軍」として戦い、傷痍軍人として戦後日本社会を生きた。だが日本国籍者でないことを理由に日本政府から一切の補償を支給されないという理不尽な目にあうことになる。こうした状況を打破すべく様々な方面に訴えかける「皇軍」の姿をカメラは追った。番組のラストで、「皇軍」兵士のアップとともに「もっと大きな喜びが与えられるべきではないのか。しかし、今この人たちは何も与えられていない。私たちは何も与えていない。日本人たちよ。これでいいのだろうか。これで、いいのだろうか。」という怒りに満ちたナレーションが入る。これを聞いたとき、それまで私の心の中で静かに燻り続けていた思いと重なった。自分自身の怒りの向く先がどこにあるのか、その怒りがいかに強いものだったのか初めて自覚した。戦後70年間、私たちは向き合うべく問題をいかに放置しつづけてきたことか。すぐ近くにいる人々の声にさえ、きちんと耳を傾けてこなかった。

日本社会で戦後補償問題が話題に上るときは「もう国家間の交渉で解決済み。終わった話なのに何をいまさら」という議論になりがちな状況はずっと変わっていない。そして国家間交渉における「解決済み」の中身が「経済協力」であったこと、つまりそこに植民地支配に対する評価の意味合いがなかったことを改めて問う視点はほとんど皆無である。

こうした状況の日本社会において、戦後70年議論されることのなかった植民地支配の問題についてここで改めて一から考えていくことが必要だと私は思う。そこではナショナルな枠を超えた視点で被害当事者を見つめることが重要である。例えば、被害当事者と日本国民である私において、ナショナル対ナショナルで問題を捉えるのではなく、同じ民衆という立場で被害当事者の声に耳を傾け、それに対してどのような責任があるのか、どのような補償をなしうるのかということを考えるのである。その上で私の所属する国家がその責任を回避しているのであれば、そのことを国家に対して追及するという責任が私に発生することになるだろう。そしてその際には、そもそも植民地支配責任とは何なのか、ということを問わなくてはならなくなるだろう。これは難しい問いであり容易にこたえは出ないだろう。だがすぐ近くに被害当事者の存在があるのである。私たちはまずその声に耳を傾けるところから始めていこう。この作業こそが戦後70年の中で回避しつづけてきたもう一つの戦後日本の核心を直視し乗り越えることにつながっていくと私は信じている。