中島飛行機武蔵製作所と朝鮮人*戦後編

戦前篇では、中島飛行機武蔵製作所の門前にあった飯場を中心に朝鮮人のコミュニティができていたことを述べた。そのコミュニティは戦後にも継続して残されることになった。その背景と、そこでの人びとの様子はどのようなものだったのだろうか。

 

〇戦後の朝鮮人集住地区〜学校づくりと団体結成

 日本の敗戦は、朝鮮の人々にとっては植民地支配からの解放と受けとめられ、内地にいた朝鮮人は解放の喜びに沸き立ち我先にと朝鮮半島をめざして大阪、神戸、下関、博多などの港湾周辺に集まった。日本国内に200万人近くいた朝鮮人は、1946年3月の人口調査では64万7706人となっており、解放後半年で少なくとも130万人が朝鮮半島へ帰ったことがわかる。(鄭栄桓(2013)『朝鮮独立への隘路 在日朝鮮人の解放五年史』、法制大学出版局。)帰還は1946年に入ると急激に鈍りはじめていった。その要因は、連合国軍最高司令部(以下、GHQ)が帰還に際しての持ち出し財産を少額に制限したこと、帰還者の再入国を禁じたこと、さらに当時の朝鮮が急激な人口増で住宅難・食糧難に陥り、帰還どころか日本へと戻ってくる人々が増えたためであった。日本政府による「計画輸送」も1946年末をもって終わった。帰還者の大半は徴用や戦時の経済需要に引き寄せられた集団「移入」労働者であった。それ以外の帰還対策は遅れていた。

 このように日本政府の帰還対策や救済措置が不備な中で、自ら現状を打開するための組織が自然発生的に誕生した。戦前の朝鮮人は協和会(注)など一部の親日団体以外は組織を持つことは禁じられていたが、戦後になると様々な団体が組織された。組織の結成は、初期段階においては戦時からの政治的・組織的なつながりー共産主義者民族主義者などーによって形成されたが、1945年10月15日には在日本朝鮮人連盟(以下、朝連)という全国組織に統一された。

 解放後、人びとがまっさきに取り組んだのは子どもたちのための学校づくりと自らの団体の結成であった。帰還希望者の中には、日本の植民地支配時代の同化政策の中で朝鮮語を習得する機会が失われていた「二世」や幼児期に移住してきた者がおり、こうした背景は朝鮮語習得のための「国語講習所」開設へとつながっていった。雨後の筍のように国語講習所は全国の朝鮮人居住地の至るところにつくられていった。その数は、全国でおよそ600〜700か所くらいであったと考えられる。人びとは個人の家や、キリスト教会、あるいは焼け残った倉庫などありとあらゆる場所を利用して学校を始めたのであった。朝連はその運営に力を入れた。(金徳龍(2004)『朝鮮学校の戦後史—1945〜1972[増補改訂版]、社会評論社

 学校設立にかける在日朝鮮人の情熱にはすさまじいものがあり、貧しい生活の中から、なけなしの金銭を持ちより資材を購入し、率先して校舎の建設作業に参加し、運動場の整備に汗を流し、教材の購入にも心血を注ぎ込んだ。(金賛汀(2011)『非常事態宣言 在日朝鮮人を襲った闇1948』岩波書店、p10。)武蔵野の関前にも関前朝鮮学校(後に立川初等学院となり、さらに後には現在の西東京朝鮮第一初中級学校に統合された。)と在日本朝鮮人連盟関前分会事務所がつくられた。朝連事務所と学校が同じ建物を使用するケースは多かった。

 ところで朝連が日本共産党と密接な関係を持ち左翼化する中で、これをきらう在日朝鮮人もいた。彼らは1946年10月3日、在日本朝鮮居留民団(以下、民団)を結成する。民団は、朝連のように日本社会における権利擁護について直接的な行動をとるのではなく、日本政府と「協調」し、「本国政府の実力」をもって解決すべだと考え行動した。(鄭栄桓(2011)「「解放」後在日朝鮮人運動と「二重の課題」―在日本朝鮮人連盟を中心に」(五十嵐仁編著『「戦後革新勢力」の奔流―占領後期政治・社会運動史論1948―1950』、大月書店、p335。)

 

朝鮮半島の南北分断—2つの国家

 1948年8月15日、朝鮮半島南半部に大韓民国(以下、韓国)、9月9日には北半部に朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)が成立し、朝鮮半島に2つの国家が存在することになった。 

 同時期の日本国内では、教育基本法・学校教育法の制定にともない、GHQと日本政府は朝鮮学校の認可申請と教育の適格審査を求めていた。文部省学校教育長は1948年1月24日に通達「朝鮮人学校の取扱について」を出し、課外以外での朝鮮語教育を認めない。また、学齢児童・生徒を対象とする各種学校の設置も認めないと通知した。さらに同月26日には通達「朝鮮人の学校の教職員の資格審査について」によって教職員の審査を命じた。各都道府県では3月にかけて次々と学校閉鎖命令を出したが、朝連はこれに強く抗議した。4月24日には人びとが兵庫県庁に押しよせて知事に閉鎖命令の撤回を確約させた。このような事態を受けてGHQ第八軍は同日「非常事態宣言」を発令し、戒厳令下での徹底的な取り締りを実施した。(鄭栄桓前掲書、p341。)この「非常事態宣言」は占領下においてこのとき限りの発令であり、いかにGHQがこの事態を重くみていたかがうかがわれる。

 朝鮮半島では、戦後処理としての信託統治をめぐって米ソ間での交渉が不調に終わり、米国は朝鮮半島の戦後処理を国連に持ち込んでいた。そして国連の監視下による選挙が決定されるが、ソ連北朝鮮(半島北半部のこと)はこれを拒否。南朝鮮のみで選挙が実施されようとしていた。5月10日の単独選挙を控える中で、GHQは在日朝鮮人の抗議行動が単独選挙に対する南朝鮮での反対運動と結びつくことを極度に恐れていた。おりしも、4月3日、大阪の在日朝鮮人にゆかりの深い済州島で単独選挙に反対する武装蜂起(4.3事件)があったことから、日本における朝連の動きにGHQは非常に敏感になっていたのである。(水野直樹・文京洙(2015)『在日朝鮮人 歴史と現在』岩波書店、p114-115。)

 こうしたなか、朝連の在日本朝鮮人教育対策委員会と森戸文部大臣は、48年5月3日に朝鮮人教育についての「覚書」に仮調印した。正式調印は5日なされ、翌6日になると文部省は「朝鮮人学校に関する問題について」(「5.6通達」)を都道府県知事あてに発した。この通達は、設置基準に合致した朝鮮学校の私立学校としての認可、日本学校へ転学する朝鮮人への便宜供与、地方庁による朝鮮学校責任者の意見聴取などを定めたものである。だが、ここではあくまで教育基本法・学校教育法の枠内での「選択教科」「自由研究」「課外」としての朝鮮語朝鮮史教育、日本学校在学の朝鮮人児童については「放課後又は休日」の朝鮮語教育などを許容したにすぎない。しかも、このうち「認可」を受けた学校は弾圧前に比べて四割弱にすぎず、日本学校の校舎を借用していた学校のほとんどは強制閉鎖されることとなった。(小沢有作(1973)『在日朝鮮人教育論 歴史編』亜紀書房。)

 さらに1949年9月8日、吉田内閣は、朝連に団体等規正令を適用して解散に追い込んでいった。朝連の活動は、GHQだけではなく日本政府にとっても共産主義勢力の日本移入の防止という観点から注視されていた。以下の法務府特審局の「朝連について(1949年6月)」という調査報告書を見ると、当時の日本政府が朝連をどのように見ていたかがよく分かる。

 

 中国における共産主義者の国内での勝利はアジア各地をゆさぶる「赤い解放線」に重大な影響を与えている。中国に直接隣接する朝鮮に対する影響はいっそう深刻なものがあるようである。…伝えられる米軍の南朝鮮からの撤退説をめぐって、朝鮮における右派・左派の抗争は将来において深まり、強まると考えられる。そしてこの朝鮮情勢を前にして…朝連に関連する団体の活動を注視するならば、彼らが密かに共産主義陣営の一翼として、北朝鮮の最新の動きに応じて、日本の共産分子と秘密裡に連絡をもって、地方で日本国民の扇動のため術策を弄しつつ、この国の革命成就の機会を待っていると想定される。(法務府特別特審局(1951)『朝鮮人団体の動向(自1949年6月至1960年9月)』法務府、p1。)

 

 解放された朝鮮人が熱意をこめてつくった学校はGHQと日本政府により強制的に廃校にさせられ、朝連も団体等規正令により解散させられ、在日朝鮮人は厳しい状況に置かれた。

 こうした状況下で関前の在日朝鮮人はこのころどのような生活をしていたのだろうか。証言によれば、関前のほか、北裏や千川上水べり、東伏見早大グラウンドに面した土手の上などには軒の低いバラックが連なり、ニコヨンや土方、失対などで暮らしていた人々が多かったという。

 

「自分たちで建てたおもちゃみたいな家に住んで、みんな貧しかったね。朝鮮戦争が始まって日本は戦争特需にわき、間もなく戦前の水準まで経済が回復したけど、朝鮮人にはその余禄がなかった。企業に就職できるわけじゃないし、仕事といったら男は土方、女は闇米を売ったり、ぼろ拾い、ドブロク作りかな。じめじめして日当たりが悪くて、水道もないところにかたまって住んでましたね。」(武蔵野市女性史編纂委員会編集前掲書、p163。)

 

 さらに翌50年には朝鮮戦争が勃発し、解放のよろこびもつかの間、「祖国」は戦場となってしまった。その同じ朝鮮戦争によって日本の経済は回復し、特需に日本社会は湧いた。 

 

(注)協和会について

 戦前篇で述べたように、日本政府は労働力の補てんのために朝鮮人労働者の内地受け入れに舵を切ったが、そのことで様々なトラブルが起こることを懸念していた。そのため労務動員実施以前からその対策を準備した。朝鮮人管理のための組織、協和会発足と全国設置もその一環であった。そこでは、自主的な朝鮮人の活動を抑圧しつつ、朝鮮人を組み込み、そのもとで生活習慣の同化や日本語教授、日本国家への忠誠心教化が実施された。指導の中心は警察官であり、抗日意識を持つ人びとの監視も彼らの重要な任務であった。
日中戦争開始以降にはこの対策はさらに重要性を増し、全国的な組織整備が国家の施策として推し進められた。1939年6月には厚生省管轄の財団法人中央協和会が発足する。各都道府県(朝鮮人の少なかった沖縄県を除く)に設置。以降、労務動員により日本内地にやってきた朝鮮人は協和会に強制加入させられていった。また厚生省管轄の団体といっても協和会の運営には引き続き警察が関与した。職場での労使紛争も含めて朝鮮人が何か問題を引き起した場合にいつでも弾圧できる体制が築かれたのである。(外村前掲書、pp51-52。)