帰国事業の痕跡をたずねる1〜JR鶴見線・鶴見駅ホームの時計

横浜の鶴見からは多くの人が帰国事業で北朝鮮へ渡った。JR鶴見駅鶴見線ホームでは帰国者から贈られた時計が今も使用されている。

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全国各地に帰国事業の痕跡が残されている。シリーズ「帰国事業の痕跡をたずねる」では全国各地に今も残されている帰国事業の痕跡を紹介していきたい。まずは東京近郊から少しずつ・・・。

 

以下では、そもそも帰国事業とは何だったのか、記しておきたいと思う。

 

帰国事業とは何だったのか。

日本と朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮と呼称する。)両政府の了解のもと、両国の赤十字社による帰国協定に基づき1959年12月にはじまり1984年で終了した「帰国事業」では延べ93340人の在日朝鮮人とその縁者となる日本人(や中国人)が北朝鮮へ渡った。その多くはルーツが朝鮮半島南半部であった。それなのになぜ北朝鮮へ渡ったのか。

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従来、日本政府は帰国事業には消極的だったといわれてきた。「人道問題」のため受け入れはしたが日韓国交正常化交渉への配慮から国際赤十字委員会を仲介とした交渉を条件に事業実施を承諾したほどに。だが、実は日本政府は在日朝鮮人の「追放」を検討し、むしろ帰国事業推進に熱心であった。(このあたりについてはテッサ・モーリス=スズキ(2007)『北朝鮮へのエクソダス「帰国事業」の影をたどる』、朝日新聞社、に詳しい。)

1950年代の日本。恒久的失業を強いられた在日朝鮮人生活保護に頼るしかなく受給者は日本人の10倍以上であった。このような中で、厚生省が在日朝鮮人生活保護受給調査を熱心に取り組み、打切りと減額を断行したことは、在日朝鮮人が日本を去ることを後押しすることとなった。

こうした状況を背景に、1958年8月11日、在日朝鮮人による「集団帰国決議」が出されたことを契機に、在日朝鮮人総聯合会は大規模な帰国運動を展開。これに、金日成首相は帰国の熱烈歓迎を表明。南日(ナムイル)外相は帰国希望者即時引き渡しを日本に要求した。

一方、日本国内では、1958年11月17日に超党派による「在日朝鮮人帰国協力会」が結成され、積極的に帰国事業を推進。地方議会での帰国要求支持決議が相次ぐなど全国的に運動は盛り上がった。

 

これは単なる過去の出来事であり、日本にいた朝鮮人とその家族が当時「地上の楽園」とうたわれた北朝鮮へと自らの選択によって渡った出来事だったとだけで終わらせていいのだろうか。私は決してそのようにくくって終わらせてはならないと思っている。

先ほど、少し触れたように、戦後も日本に残った朝鮮人在日朝鮮人が日本社会で非常に生きづらい中で生活の安定を目指して北朝鮮へ渡ったことは、日本社会の彼ら彼女らへの態度と強く関係していたのではないのか。そのような視点を持って、現在に生きる私たちは過去のこの出来事を見る必要があるのだと思う。さらには、「祖国」にわたることを選択した当時の人びとの心境に思いをはせることができたらと。

「祖国」を失ったことのない私には、どうしたって同じ思いを共有することはできないが、それでもそれに近づこうとすることで何か違った景色が見えてくるように思うのだ。

 

各地域では旅立つ人びとを送る会が開かれ、帰国する人びとは記念碑や記念樹をその地へ贈った。その痕跡は多くが今も全国各地で遺されている。

帰国を選択した人たちにも、送った人たちにも様々な思いがあっただろう。帰国事業は、多様な主体の思惑がからみあった複雑な状況の中で進行していた。