中島飛行機武蔵製作所と朝鮮人*戦前編

『猫が星見たー歴史旅行』冊子vol.1では「軍と人びとー中島飛行機武蔵製作所の戦後史」と題し、中島飛行機武蔵製作所の跡地における戦後の出来事を通じて、現在、日本社会が直面している安全保障のあり方、自衛隊をはじめとした軍のあり方を、個人の視点で検討しました。米軍宿舎グリーンパークをめぐる様々なアクターの態度や行動に焦点をあてたために、冊子では取り上げることができなかったことも出てきました。そこで今回と次回は、武蔵製作所周辺に居住し、労働した朝鮮人について、戦前篇と戦後篇と2回にわたってを書いていきたいと思います。

 

 なお、冊子vol.1「軍と人びとー中島飛行機武蔵製作所の戦後史」をご希望の方は、お手数ですが、こちらまでご連絡ください。nishiogiminami3@yahoo.co.jp

 

中島飛行機武蔵製作所と朝鮮人*戦前編

かつて関前(現在の八幡町三丁目)には朝鮮人の登録住所が集中していた。戦前そこは、中島飛行機武蔵製作所の門前にあたる場所だった。宮本組、武田組、白山組など比較的大きな飯場には、朝鮮人の親方のもとで中島飛行機関係の土木作業、運搬作業を担う朝鮮人労働者がいた。こうした飯場は多くが若い単身男性のためのものであったが、その飯場を切り盛りしたのは親方や労務者の妻である女性たちであった。

 

「巨大な兵舎のような建物があり、中はベニヤ板一枚で20~30坪ほどの各区画に仕切られていて、それぞれに家族とともに5、6人の人夫たちが一緒にくらしていた。床はパネル貼りの上に厚めのござを敷いていた。台所は土間造りで、竈が三つ作られていた。長い飯台とベンチ状の椅子があり、人夫たちはここで食事をしていた。」(武蔵野市女性史編纂委員会(2004)『武蔵野女性史 通史編』p111—112)

 

武蔵製作所は中島飛行機の各工場の中でも中核をなす拠点工場のひとつであったが、日中戦争が進み戦局が悪化すると青壮年従業員の多くが出兵し、その穴は学徒、挺身隊、報国隊、応徴士らの戦時動員者が埋めることになった。応徴士とは徴用された者をさし、ここに朝鮮人も含まれていた。

在日朝鮮人と私たちが当たり前のように呼ぶ人びとは、どのように「形成」されてきたのか。普段、そのようなことはあまり意識することがない。どこから来て、どのような時を過ごして、今に至ったのか。当然、在日朝鮮人は多数いて、そこには様々な人生や家族、親族の歴史があるだろう。私の住む武蔵野市にも在日朝鮮人がいた(いる)。そのルーツを垣間知る、見ることが数年前にあった。武蔵野の在日朝鮮人について調査研究されていた在日朝鮮人2世の方からそのお話を伺ったことがきっかけだった。自分の住む町には様々な人びとの思いや暮らしが折り重なっているのだなと感じた。当たり前のことだけど、頭ではなく体で感じたような気がしたのだった。

 

 

◯総力戦へ

1937年の盧溝橋事件(1937年7月7日。「支那事変」と称された日中戦争の発端。)を境に、日本は中国での戦争を全面的に展開。総力戦を戦うことになった。総力戦とは国の人的・物的全資源をあげて戦争に動員し、戦うこと。これにより、何よりもまず軍事・軍隊が重要視しされ、青壮年は兵士に徴兵され、産業では軍需産業が最優先された。

総力戦にそなえて日本政府は翌1938年に国家総動員法を施行した(日本内地では1938年5月5日、朝鮮では5月10日に施行。)同法によって日本政府は戦時ないし戦争に準じる事変の際に国が人的及び物的資源を統制運用のために必要な措置を可能とする根拠が与えられた。そして手続きなどの詳細規定は議会の承認を必要としない勅令で定めることとなった。以後、各種の総動員についての勅令が次々と出されていった。(外村大(2012)『朝鮮人強制連行』、岩波書店、p38。)

1939年7月には国民徴用令(日本内地では7月15日、朝鮮では10月1日施行。)が、また徴用の前提としての国民登録(自己の就業場所、居住地などの職業紹介所への登録)、徴用とは異なる各動員業務への協力、職場移動の制限、賃金統制といった勅令が出され、人びとの生活は縛られていった。

国家総動員法が施行されたのちに政府は厚生省を新たに置き、労働市場の統制を行うこととした。また職業紹介法を改正(1938年施行)。職業紹介所を国営化し、政府以外が職業紹介をすることを原則禁じた。

一方、朝鮮人の労務動員計画はどのように進められたのだろうか。1939年7月4日、労務動員実施計画が閣議決定。これはその年度に必要とされる戦争遂行のための労働力の需要とその給原を記したもので、その中に、日本内地の炭鉱等に配置するべき労働力の給原として朝鮮半島からの労働者85000人分が計上された。これが日本帝国による日本内地にかかわる朝鮮人労務動員政策の最初の決定であった。(外村前掲書、p42。)この決定は日中戦争初期段階まで朝鮮人労働力活用に慎重だった方針が大きく転換したことを意味した。転換の後押しをしたのは、戦争の長期化の見通しと労働力不足の進展であった。だが、動員計画策定の調整に入った時点においても、政策当局者のすべてが朝鮮人労働者活用に積極的であったわけではなかったことは確認しておきたい。

なぜ積極的ではなかったのか。日本内地における当問題の関係省庁は、厚生省と内務省のほか、産業政策担当の商工省があった。このうち商工省は当初から朝鮮人導入に賛成だったのに対し、厚生省と内務省は1939年の段階でも賛成しなかった。両省の担当行政内容から考えれば、戦後における失業問題や民族的葛藤を含む治安への影響の懸念が関係していたといえるだろう。また官僚だけでなく民間にも朝鮮人導入への否定的意見があった。『東洋経済新報』1939年5月27日号は「朝鮮人労働者移入問題 将来永遠の立場より見て極めて慎重なるを要する」と題した社論を掲載している。ここでは、すでに日本内地に住む朝鮮人数が同化しうる量ではないこと、平時となった際の失業問題への懸念、さらに「日本国家にとつて、果して彼等が健全なる構成分子と言へるかどうかも疑問」だとして、安易に朝鮮人労働者導入を進めるべきでないことが主張された。(外村前掲書、p42-44。)

だが、結局は、こうした消極論をも圧倒するほどに日本内地では炭鉱等での労働力不足の現実が差し迫っていた。これ以降、朝鮮人は計画的な労力移動の対象となり年々その数は増やされていくことになる。だが、消極論での懸念は内地で払拭されたわけではなく、そのことは朝鮮人労働者への内地における労働環境へ少なからず影響を与えることになった。朝鮮人の戦時動員は、動員方法、移入方法、動員先配置、労務管理、賃金・環境などの諸待遇、残された家族への援護策、敗戦後の処理など、さまざまな面で日本人と異なる扱いがなされた。

軍需産業、工場などへの朝鮮人労働者「調達」は、敗戦間近の戦局が悪化する1942年ごろから始まった。中島飛行機武蔵製作所ではどれくらいの朝鮮人がどのように労働していたのだろうか。そのことがわかる資料は戦後にほとんど残されなかったが、女性史研究家の梁裕河によって警察関係資料から手がかりとなるものが発見された。内務省警保局の「特高月報・昭和19年11月<朝鮮人運動の状況>」によれば、

 

 「武蔵野署管内に於ける労務者の状況、中島飛行機武蔵野工場に於ては第八十七部隊監督の下に目下同工場拡張土盛り工事の為朝鮮人土工約250名を使傭し、又中島飛行機工場に於ては朝鮮人職工二百名就労中なるが、十一月二十四日の空襲時に於ては、同所付近に数弾投下せるも敵機来襲と共に全員を防空壕に退避せしめたる為工場内に僅少の被害ありたるが、周辺に一人の被害者もなく敵機の脱すると共に平常の如く従業し何等動揺なし」

 

とあり、少なくとも1944年(昭和19年)当時に、工場拡張工事に250名、工場内に200名の朝鮮人が労働していたことがわかる。どのような労働環境だったのだろうか。当時の朝鮮人労働者の様子を元中島航空金属の学徒だった方は以下のように証言している。

 

「朝鮮の男の子たち、私たちと同い年くらいでしたが、大勢来ていましたね。彼らは最も低い身分で、まるで牛馬のような、いや、それ以下の扱いをされていました。…その見張り番を私たちがさせられたりもしましたよ。当時、朝鮮人というと一段低く見る習慣がありましたが、私たちはそのころ考える力もなく、そういう考えを批判する目もなかったんです」(梁裕河(2013)「ノート・中島飛行機朝鮮人」『武蔵野市 女性史 あのころそのときー国策に絡め捕られてー』p45。)

 

 「まるで牛馬のような、いや、それ以下の扱い」をされていた朝鮮人の少年の労働環境とはいかに過酷で差別的であったことだろう。一方で、中島飛行機青年学校生は「青年学校の寮に入っていて、寮では酒が飲みたくても飲むことが許されなかった」中で、寮から「朝鮮飯場にドブロクを飲みに行」くということもあったそうだ。また、「畑の野菜を分けてあげると、飴を作って持ってきてくれた。甘いものが少ないところだし、嬉しかったのと、飴造りが上手だなあと思ったことを覚えている」といった古くから関前の住人であった方の証言もある。(梁裕河(2013)前掲書。)

 軍需工場・武蔵製作所では労働力不足を補うために朝鮮人労働者が多数従事した。またその周辺には、同製作所に関連した土木作業、運搬作業を行う飯場が集まり、朝鮮人の親方のもと、ここにも多くの朝鮮人が労働従事した。このように軍需工場があったために、この場所に朝鮮人コミュニティが生まれ、それは戦後にも受け継がれていくことになる。

 

帰国事業の痕跡をたずねる1〜JR鶴見線・鶴見駅ホームの時計

横浜の鶴見からは多くの人が帰国事業で北朝鮮へ渡った。JR鶴見駅鶴見線ホームでは帰国者から贈られた時計が今も使用されている。

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全国各地に帰国事業の痕跡が残されている。シリーズ「帰国事業の痕跡をたずねる」では全国各地に今も残されている帰国事業の痕跡を紹介していきたい。まずは東京近郊から少しずつ・・・。

 

以下では、そもそも帰国事業とは何だったのか、記しておきたいと思う。

 

帰国事業とは何だったのか。

日本と朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮と呼称する。)両政府の了解のもと、両国の赤十字社による帰国協定に基づき1959年12月にはじまり1984年で終了した「帰国事業」では延べ93340人の在日朝鮮人とその縁者となる日本人(や中国人)が北朝鮮へ渡った。その多くはルーツが朝鮮半島南半部であった。それなのになぜ北朝鮮へ渡ったのか。

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従来、日本政府は帰国事業には消極的だったといわれてきた。「人道問題」のため受け入れはしたが日韓国交正常化交渉への配慮から国際赤十字委員会を仲介とした交渉を条件に事業実施を承諾したほどに。だが、実は日本政府は在日朝鮮人の「追放」を検討し、むしろ帰国事業推進に熱心であった。(このあたりについてはテッサ・モーリス=スズキ(2007)『北朝鮮へのエクソダス「帰国事業」の影をたどる』、朝日新聞社、に詳しい。)

1950年代の日本。恒久的失業を強いられた在日朝鮮人生活保護に頼るしかなく受給者は日本人の10倍以上であった。このような中で、厚生省が在日朝鮮人生活保護受給調査を熱心に取り組み、打切りと減額を断行したことは、在日朝鮮人が日本を去ることを後押しすることとなった。

こうした状況を背景に、1958年8月11日、在日朝鮮人による「集団帰国決議」が出されたことを契機に、在日朝鮮人総聯合会は大規模な帰国運動を展開。これに、金日成首相は帰国の熱烈歓迎を表明。南日(ナムイル)外相は帰国希望者即時引き渡しを日本に要求した。

一方、日本国内では、1958年11月17日に超党派による「在日朝鮮人帰国協力会」が結成され、積極的に帰国事業を推進。地方議会での帰国要求支持決議が相次ぐなど全国的に運動は盛り上がった。

 

これは単なる過去の出来事であり、日本にいた朝鮮人とその家族が当時「地上の楽園」とうたわれた北朝鮮へと自らの選択によって渡った出来事だったとだけで終わらせていいのだろうか。私は決してそのようにくくって終わらせてはならないと思っている。

先ほど、少し触れたように、戦後も日本に残った朝鮮人在日朝鮮人が日本社会で非常に生きづらい中で生活の安定を目指して北朝鮮へ渡ったことは、日本社会の彼ら彼女らへの態度と強く関係していたのではないのか。そのような視点を持って、現在に生きる私たちは過去のこの出来事を見る必要があるのだと思う。さらには、「祖国」にわたることを選択した当時の人びとの心境に思いをはせることができたらと。

「祖国」を失ったことのない私には、どうしたって同じ思いを共有することはできないが、それでもそれに近づこうとすることで何か違った景色が見えてくるように思うのだ。

 

各地域では旅立つ人びとを送る会が開かれ、帰国する人びとは記念碑や記念樹をその地へ贈った。その痕跡は多くが今も全国各地で遺されている。

帰国を選択した人たちにも、送った人たちにも様々な思いがあっただろう。帰国事業は、多様な主体の思惑がからみあった複雑な状況の中で進行していた。

 

 

                              

冊子vol.1。

猫が星見たー歴史旅行vol.1を本日刊行しました。

 

今号では、「軍と人びとー中島飛行機武蔵製作所の戦後史」

ということで、現在の武蔵野市にある中島飛行機武蔵製作所跡地における

戦後の出来事を通じて、

 

いま現在、日本社会が直面している

安全保障のあり方、自衛隊のあり方について、

個人の視点で考えました。

 

今号をご希望の方はお手数ですが下記までご連絡ください。

なお、初号のみ無料にて配布しております。

nishiogiminami3@yahoo.co.jp

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原民喜と我が家。

 

 

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写真の家は、我が家です。我が家の前身といった方が正しいです。

これは、母方の祖父母の建てた家で写真は1950年8月のもの。

7月の時点ではもう少し小さい家だったようなので、増築したあとに記念に祖父が写真に収めたようです。

 

舗装のされていな道の向かいには、国鉄中央線が走っていました。

まだ当然、高架ではなかったわけですから目の前を電車が走っていたのでしょう。

 

時代は変わって、東日本大震災の翌年だったでしょうか、NHKの番組で『フクシマを歩いて、徐京植:私にとっての「3・11」』を見ました。

 

そのなかで原民喜の詩が取り上げられていました。

原民喜は広島で被爆し、原爆投下後の街や人びとの様子を何とか伝えようともがいた詩人、小説家ということで有名です。(詩「原爆小景」や小説「夏の花」など)

 

原発事故にしろ、原爆にしろ、その後の世界は、その現実は想像を絶するものであって、それを伝ようとすることの困難さを原民喜、それからプリーモ・レーヴィを取り上げることで徐さんは私たちに伝えてくれました。

 

原民喜は、しかし、被爆から六年後自ら命を絶ちます。朝鮮戦争で、アメリカによる三度目の原爆投下が取りざたされたときのことでした。

 

その時の原民喜の苦悩のことを思いながら番組を見ていて、それまでほとんど彼のことをよく知らなかったので少し調べてみたところ、

 

偶然、彼が亡くなったところ、自死した場所が我が家の近くであることがわかりました。


”1951年3月13日午後11時31分、国鉄中央線の吉祥寺駅 - 西荻窪駅間の線路に身を横たえ鉄道自殺する。享年45歳。”(wikipediaより)

 

また、偶然、ちょうど同じ頃に、朝鮮問題に注力していた藤島宇内という人のことを調べていたところ、彼と原民喜と親交があったことを知ったところでもありました。

 

原民喜の遺した数通の遺書の一つは藤島あてのものでした。

 

藤島宇内氏宛

 大変厄介なことをお願ひしますが、よろしく処理して下さい。
 佐々木基一君 講談社の大久保君 鈴木重雄君の三人にはすぐ連絡しておいて下さい
 渡すものが押入のなかにあります
 風呂敷に包んだ折カバンと風呂敷包みの書物と黒いトランク(名札をつけておきました)この三つを佐々木君に渡して下さい もう一つの風呂敷包みを群像の大久保君に渡して下さい
 佐藤春夫 奥野信太郎 丸岡明 山本健吉 庄司総一諸氏に手紙がありますがそれはそのうち渡して下さい
 切手をはった封書九通はすぐ投函しておいて下さい
 歴程詩集が出たら一冊左記へ送って下さい
 (祖田祐子氏の勤め先と名前)

 それから
 現代詩代表選集が出たら左記へ送るやう文芸家協会へ交渉して下さい
  広島市 幟町一六二ノ二 原 信嗣
 面倒なことばかりお願ひするのですが、これも詩の因縁でせう
 先日 能楽書林で「谷間より」を見せてもらひました お元気でやつて下さい
 あなたにはセビロ服をかたみに差上げます
(作品「悲歌」が同封された)

 

青空文庫より】

 

なんだか自分の中では偶然が重なったような気がしたのでした。

そしてつい昨年に、1950年のころの家の写真が出てきて、

ああ、ちょうどこのころに、原民喜は苦悩の末に亡くなったのだなあと思い、そしてその時、祖父や祖母、そして母はそのことにどう思ったのだろうか、そもそも知っていたのだろうか。そんなことを思ったのでした。

 

猫が星見たー歴史旅行

 だれでも、過去の上に築かれた現在を生きています。歴史を見る目をもつことは、過去を知るだけでなく、いまを見つめ、未来をみすえることにつながるのではないでしょうか。

 

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この冊子を発行するにあたって、これがどのような目的であるいはどのようなものを目指している冊子なのかということを示しておきたいと思います。

お気づきの方も多いと思いますが、このタイトルは、武田百合子の『犬が星見た―ロシア旅行』を模したものです。わたしが武田百合子の文章とこのタイトルが好きだから、という理由もあるのですが、ほかにも思いがあります。

猫が空の星を見上げる、そのさまには、とてつもなく遠く空間と時間を隔てたものをみている小さな存在を感じます。今の自分は今晩の寝床探しに熱心で、ちょっと見上げただけの星。でもなんだかきれいだな。そんな感想を猫はもつのかもしません。

 わたしたちは、今の生活に熱心で、それほど過去のことなど振り返らないでしょう。でもふとしたときに、過去、歴史を示唆する何かに触れて今にいたる過程に思いをはせることがありませんか?そうすると現在の出来事がまた違ったふうに見えてきたりする。きっとそんな経験が皆さんにもあるのではないでしょうか。わたしの場合は、今現在に起きている出来事―それは社会問題だったり、外交問題だったり、もっと個人的なことだったりします―について考えるとき、過去を振り返って「なぜ、今のようになったのだろうか?」と考えるのが習い性となっています。特に、大きな問題に直面したときには。 

 

 この冊子で読者の方々へ伝えたいのは、まさに、何か問題に直面したときの歴史的アプローチのすすめです。

 

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