冊子vol.2

『猫が星見たー歴史旅行』vol.2を本日刊行しました。

 

今号からしばらく

朝鮮戦争と日本社会”を大きなテーマにしていきたいと思います。

 

その最初のテーマは「日本人にとっての朝鮮戦争」です。

 

今号をご希望の方はお手数ですが下記までご連絡ください。
なお、今号からは有料となります。

お支払い方法などは個別にご連絡させていただきます。

よろしくお願いします。

nishiogiminami3@yahoo.co.jp

 

 

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 1953年7月27日、板門店朝鮮戦争の休戦協定が調印されました。休戦協定は米国が支配した国連軍司令部の代表、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)の人民軍、中華人民共和国(以下、中国)の義勇軍が調印しました。韓国は調印しませんでした。現在も、最終的な平和条約には至っていません。分断と恐怖と軍事化を特徴とするこの国際的な体制は現在も消え去っていないのです。またこの戦争は多くの点で1950年代全体を通じて日本の運命にも影を落とし続けました。
 日本は、敗戦後、連合国の占領下に置かれましたが、その実質的な統治は米国によりなされました。その米国が対日方針を懲罰的なものから寛大なものへと大きく転換したのは冷戦を背景としてのことでした。そして朝鮮戦争の勃発は、平和国家としてスタートした戦後日本のあり方を形骸化させることになりました。在日米軍基地の固定化と日本の再軍備が始まったのです。憲法の理念と明らかに矛盾する体制はこの時から始まっていました。このように朝鮮戦争は戦後日本のあり方を規定しました。ターニングポイントだったのです。

 日本の文脈では、朝鮮戦争をめぐる人びとの記憶は間接的で非軍事的な側面に焦点が当てられる傾向があります。とくに強調されるのが、日本の戦後の高度経済成長への機動力となった朝鮮戦争の特需の役割です。ですが、実際のところ、日本社会に住む人びとは特需のメリットを享受していただけではないはずです。様々な面で朝鮮戦争の影響を受けていました。例えば、朝鮮戦争サンフランシスコ講和条約のあり方に影響を与え、それは、日本国内における講和論議にも影響を与えたのですから。また、朝鮮戦争の発端はそもそも日本による植民地支配をどう払拭するかをめぐる戦いであったことは強調しておかなくてはなりません。解放後も日本に留まることになった在日朝鮮人も日本においてこの戦争に翻弄されることになりました。
 2015年の夏から秋にかけ、安保法制の論議が日本社会では盛んに行われました。安保法制に反対する人びとの間では、戦後の日本は、憲法9条により一切の軍隊を持たず、あらゆる戦争に関わらず、よって一人の戦死者も出さずにきました。一人も殺さずここまで来たのだから、これからも戦争のできる国にしてはならない。そういう声をよく聞きました。本当に、戦後の日本は、一切の軍隊を持たず、一人の戦死者も出さずに、あらゆる戦争に関わらずにきたのでしょうか。実際は、そうではありませんでした。日米安保条約が締結され、米軍基地が固定化され、9条とは相矛盾した形で再軍備は進められてきたのです。そして今、その矛盾を「正す」べきだという声が大きくなっています。ですがそれは正しいことなのでしょうか?それよりもなぜ私たちはそうした矛盾を認めてきたのか。認めてきてしまったのか、ということについて自省するべきなのではないでしょうか?

 わたしが朝鮮戦争に焦点を当てて日本の戦後を再検討しようと思ったのは4年ほど前でした。そのときは日韓会談について日本社会を対象に勉強していました。その中で朝鮮戦争についての態度が多様で、それぞれのグループ、個人、そして社会全体と見渡すとなんとも温度差があることに気づきました。また、朝鮮戦争といっても、人びとはそれ自体にいくつかの側面を見ていたり、人によっては自分の過去との関係からより朝鮮の人たちに気持ちを近づけている人もいたりしていることが見えてきました。また、今度は、朝鮮半島の人びとにスポットを当てた朝鮮戦争を主題とした映画や本、在日朝鮮人の方のエッセイを読んだりもしました。すると、それまでさらっと朝鮮特需で日本の経済は持ち直した、だとか、1950年に朝鮮動乱が起き53年に休戦協定が結ばれた、などとほんの数行だけ記述して済ませていた自分の想像力のなさに愕然としました。同時にそんな風に想像しないままにいられたことにこそ、何か戦後の日本社会を見つめ直すポイントがあるのではないのだろうかと思い始めました。そんなところから少しずつ今も日本社会にとって朝鮮戦争とは何だったのかということついて勉強を続けています。

 ここまでみてきたように、朝鮮戦争は日本の安全保障(在日米軍の固定化、再軍備)のあり方を規定しました。そのことにより、国のあり方を定めた憲法と相矛盾する体制を現在まで続けることになりました。つまり、矛盾を抱えた戦後日本社会の原点ともいえるのが朝鮮戦争です。それからもうひとつ忘れてはならないことがあります。朝鮮戦争はそもそも日本による植民地支配をどのように払拭するかをめぐる戦争でしたが、そのことが現在まで日本社会できちんと議論されていないということです。
 朝鮮戦争は、戦後の日本社会でほとんど注目されずに来ました。それはどうしてだったのでしょう?「シリーズ“朝鮮戦争と日本社会”」では、日本社会が朝鮮戦争をどのように見ていたのか、様々な人びとを対象に、様々な角度から検討していこうと思います。まず、今回から数回にわたっては、多数の日本人にとって朝鮮戦争はどのように受け止められたのかということにアプローチしてみたいと思います。当時の人びとが、朝鮮戦争をめぐってどのようなことに関心を持ち、どのような態度をとったのか。新聞や雑誌、国会論議などを通じて、できるだけ当時のムードに近づいていきたいと思っています。そしてそこから今度は現在を見つめ直してみたいのです。そうすることでここから先、わたしたちがどのような態度をとるべきなのか見えてくることを願っています。

朝鮮国連軍と日本

 ここ数日、まるで戦争前夜であるかのような雰囲気が日本社会では醸成されています。今までも朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)を脅威とみなすことで、様々な背景を見ることを放棄するような議論が日本社会では跋扈していましたが、ここ数日は、それ以上に、もはや冷静な思考や判断などする余地がないほどに「脅威」を煽る報道ばかりが目立ちます。このような状況の中でこそ、立ち止まって、今ここに至るまでの経緯や背景を見返しておくことが必要です。事実を直視することから始めましょう。何が本当の脅威なのか?各自で見極め、本当の脅威を正しく怖がることがやるべきことだと私は思います。

 ここでは、改めて、朝鮮戦争勃発直後から現在まで、日本には朝鮮戦争の後方基地の役割が課せられてきたという基本的な事実を改めて確認しておきたいと思います。

 

 東京の西部にある横田飛行場。ここには日本の国旗、米国の国旗の他に、淡い青地に白抜きの図柄のある国際連合の旗が掲げられています。私が意識するようになったのは割に最近のことです。

 

http://www.mod.go.jp/asdf/adc/

(*横田飛行場に司令部が置かれている航空自衛隊航空総隊のHPで国連旗が確認できます。)

 

 H市の外れにあるミッションスクールに入学して間もなくの頃、私は担任のシスターから、この学校の校舎は横田飛行場離発着の米軍機が飛来する際の騒音を防ぐために二重窓になっていること、そのための補助金が出ていることを聞きました。もうずいぶん前のことです。。。

 横田飛行場が隣町のF市とM町にあることは知っていましたが、それまで騒音だとか、米軍機の存在を身近に感じたことがなかった私にとって、その時が基地の存在を明確に認識した最初でした。実際に、校庭で体育をしていると辺りが暗くなるほどに低空飛行する米軍機があったこともありました。また横田飛行場の近くに住む友人も何人かいて、騒音の話は聞いたことがありました。ですが、その横田飛行場が在日米軍基地の中でもどのような位置付けのものなのかということにまでは関心は向かず、国連旗のことも目に入っていたとしても何ら気にすることはありませんでした。

 

 朝鮮戦争は1953年7月27日、朝鮮国連軍と北朝鮮中華人民共和国(以下、中国)との間で締結された休戦協定によって現在まで64年間の「停戦」状態が続いています。朝鮮国連軍は在韓米軍司令官・在韓連合軍司令官が司令官を兼任する形で現在も存続しています。それを後方から支え、朝鮮半島の有事事態に備えているのが日本に置かれている朝鮮国連軍後方司令部です。先ほどお話しした、日米の国旗の他に国連旗が掲げられていた基地というのはまさに後方司令部のある基地だったというわけです。朝鮮国連軍後方司令部の存在は日本社会ではほとんど知られていません。少なくとも、日本で反戦平和運動を担ってきた人びとの間でも、朝鮮半島が有事事態となった時にここが日本国内の後方基地拠点となることについてほとんど議論の対象になってきませんでした。

 

 ですが、実は、この後方基地の存在こそが、反戦平和運動の中でも象徴的存在とされる憲法9条を形骸化させた再軍備と、全土基地化を進めた日米安保条約と密接に関連しているのです。このことを指摘し続けて来なかったことは反戦平和運動において大きな問題だったのではないかと思っています。 

 さて、ここからは国連軍とはそもそも何か?というところまでさかのぼります。朝鮮半島の現在の「緊迫状態」とはいかなるものなのかを私たちが考えるにあたって、その前提としての現状把握が今回のテーマです。

 

 国連軍の根拠となっているのは国連憲章第7章です。国際連合の目的達成のために、その指揮下で使用される軍隊を指します。第7章で予定していたのは、平和の破壊国に対して取られる強制行動に使用される兵力でした。これは国連常備軍ではなく、都度、加盟国が提供する兵力によって編成されることを想定していました。そして、その際には、憲章43条にあるように国連と加盟国との間であらかじめ特別協定を結び、加盟国の兵力の一部を安全保障理事会の利用に委ねることが定められています。ですが、多くの方がご存知のように、このような協定は今まで一度も結ばれていません。よって本来の意味での国連軍は実在しないのです。

 では、朝鮮戦争の際に、組織された国連軍とは何なのでしょうか?朝鮮国連軍司令部は、1950年6月、北朝鮮の韓国侵略に対する国連の対抗措置として創設されたもので、韓国の安全を回復するための国際的な軍事組織です。国連安全保障理事会の決議第2号(Code;S/1501)では1950年6月25日の北朝鮮の韓国侵略を、平和に対する破壊行為として規定しました。また安保理決議第3号(Code;S/1511)では国連加盟国に対して北朝鮮の武力攻撃を撃退し、国際平和と安全を回復するための対韓国支援を勧告しました。これらの決議に基づいて朝鮮国連軍司令部は創設されたのです。(金斗昇(2012)「国連軍司令部体制と日米韓関係—いわゆる朝鮮半島有事に焦点を合わせてー」『立教法学』第86号)安保理は、朝鮮での軍事行動の指揮権を米国に委ねることとし、決議で米国軍に統一司令部の司令官の任命を要請し、他の加盟国に対してその軍隊を合衆国の下にある統一司令部に提供することを勧告しました。

 なお、朝鮮国連軍創設に至る一連の安保理決議は、ソ連の欠席の中で採択されたものであり、その後にソ連安保理へ復帰するとともに安保理が機能不全に陥ったことはよく知られています。こうした実態に照らし合わせてみると、朝鮮国連軍とは実際には米国を中心とした多国籍軍だったことが改めて確認できるでしょう。とはいえ、朝鮮戦争の際に、「国連軍」が組織され、そして「国連軍」として唯一の軍事強制行動がとられたということは厳然たる事実です。いずれにせよ、60年以上前に組織された国連軍は今でも機能しているということ、そしてその後方司令部が日本国内に存在しているということは日本社会においてきちんと認識しておくべきことだと思います。

 

  • 朝鮮国連軍と日本との関係

 朝鮮国連軍司令部は、今まで見てきた一連の国連安保理決議に基づいて1950年7月7日に、東京において設置されました。この時、日本は、連合国軍(実質的には米軍)の占領下にありました。その後、日本は、朝鮮戦争の真っ只中の1951年9月8日に、サンフランスコにて講和条約日米安保条約を締結して国際社会へ復帰しました。同じ日、吉田茂首相はアチソン米国務長官と、「吉田・アチソン交換公文」に署名しています。アチソンは、ここで当時すでに行われていた朝鮮国連軍に対する支援を追認すること、講和条約の発効後も、現に朝鮮半島に不幸な事態が続いているので引続き日本に朝鮮国連軍を支援することを要請しました。吉田首相はこれを受け入れました。以上のように米国は日米安保条約を締結し米軍の日本駐留と日本国内の基地使用権を確保し、また同時に、朝鮮国連軍に対する全面的な支援を日本政府に要求したのでした。(金斗昇前掲書)

 1954年2月19日には、日本政府は国連軍加盟国と「国連地位協定(SOFA: Status of Forces Agreement)」を締結しています。

 

(同協定は、データベース「世界と日本」(政策研究大学院大学東京大学東洋文化研究所)で全文参照可。)

http://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/JPUS/19540219.T1J.html 

 国連軍側の締約国は、米国、英国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド南アフリカ、フランス、フィリピン、イタリア。のちにタイとトルコも加入し11カ国。この協定のキモは、朝鮮国連軍司令部が日本国内の国連軍司令部の基地を日本政府が事前承認をしない場合でも使用可能とするということでした。その後、1953年7月27日に朝鮮戦争の休戦協定が締結され、1957年7月には極東地域における米軍の指揮体制が変更されたことを受けて、東京にあった朝鮮国連軍司令部はソウルへと移設されました。そして日本国内には、今度は後方司令部が置かれることになりました。(金斗昇前掲書)後方司令部には、現在4名が常駐し、8か国(英国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、フランス、フィリピン、タイ、トルコ)の駐在武官が朝鮮国連軍将校として在京各国大使館に常駐しています。

 朝鮮国連軍後方司令部は開設以来、ずっと在日米陸軍司令部のあるキャンプ座間にありましたが、2007年に在日米軍司令部・在日米空軍司令部の置かれる横田飛行場に移転しました。その後2012年3月には、日米軍事一体化政策の一環として横田飛行場に航空自衛隊航空総体司令部などが移転しており、横田飛行場を拠点として在日米軍自衛隊、朝鮮国連軍の三位一体化が進められている状況となっています。(高林敏之植民地主義的戦争としての朝鮮戦争と日本—アフリカの朝鮮国連軍参加と朝鮮国連軍後方司令部—」([PRIME主催国際シンポジウム]朝鮮戦争をいかに克服するか:「朝鮮国連軍」を問い直す、配布資料))

 現在、朝鮮国連軍は、国連地位協定第5条に基づき、横田飛行場を含めた日本国内7か所の在日米軍施設・区域(キャンプ座間,横須賀海軍施設,佐世保海軍施設,横田飛行場,嘉手納飛行場普天間飛行場,ホワイトビーチ地区)を使用することができるとされています。

雑感*朝鮮戦争について

 冊子『猫が星見たー歴史旅行』1号では、安全保障について、自衛隊について、もっというと軍について、個人として向き合うことの意味を検討しました。

 

nekohoshi.hatenablog.com

 安全保障といえば国家の専権事項と言われていて、現代ですとテロ行為など脅威の対象が国家ではない場合もありますが、それでもそうした脅威に対する対処、対応するための態度、方針を決定するのは国家です。ですが、ここで態度、方針を決定する国家と私たち個人の利害が必ずしも一致するとは限らない。むしろ全く異なるかもしれない。そうであるならば、安全保障、軍について思いをいたすとき、国家という視点でばかり考えることはやめて、個人、つまりあなたや私の視点で考えることが重要なのではないか?ということをお話ししました。

 そして次号以降では、安全保障のあり方を含む戦後の日本のあり方全体を方向づけた朝鮮戦争について考えていきたいと思っています、ということを巻末の次号予告でお伝えしました。

 

 そんな中で、ここ数日、日本社会では、朝鮮半島情勢の緊迫がメディアで伝えられるようになっていますが、ここでも私たち個人にとって、一体何が脅威であるのかということを冷静に考えることがとても大切なのだろうと思います。

 

 冊子の次号以降では、以下のように朝鮮戦争と日本社会の関係を様々な観点から考えていきたいと思っています。関連する投稿はこちらのblogでも書いていきます。

 

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日本は、敗戦後、連合国の占領下に置かれましたが、その実質的な統治をしたのは米国でした。その米国が、対日方針を「峻厳な講和」から「寛大な講和」へと大きく転換したのは冷戦の開始がきっかけでした。(細谷千博1984)『サンフランシスコへの道』、中央公論社。)さらに冷戦の熱戦化といわれた朝鮮戦争の勃発は、平和国家としてスタートした戦後日本のあり方を早くも形骸化させることになりました。すなわち、在日米軍基地の固定化と日本の再軍備です。朝鮮戦争は戦後日本のあり方を規定しました。ターニングポイントだったといえるでしょう。

米ソ対立、冷戦の開始は、占領下の対日政策に当然に影響を与えました。占領政策の方向性を示した「初期対日方針」においては、平和産業と占領軍への補給に必要でないものや現存する資本設備、施設を引き渡すことが指示されるなど、日本にとって厳しい内容が検討されていました。ですが、それは早々に米国の方針転換によって、とくに賠償政策が緩和されるなど経済面でゆるやかなものとなっていきました。なぜでしょうか。それは、従来の米国・国務省による「峻厳な講和」方針では共産主義の浸透・拡大に対抗できないとされたからです。米国は、東アジアにおいて何としても、日本の共産主義化を食い止めなければなりませんでした。だからこそ、本来ならば講和条約によって決定すべきであった日本の政治的・経済的安定化を、講和条約前に既成事実化するという方針に転換したのです。以降、米国の対日方針は基本的に冷戦の論理によって動き、講和は「峻厳な講和」から「寛大な講和」へと完全に転換していきました。

その後、米国国務省の方針は、冷戦状況においては「早期講和」こそが日本を共産主義陣営へ取り込まれずにひきとどめる唯一の方法だとして講和時期についても方針転換しました。早期講和への転換の背景には、1950年6月25日勃発した朝鮮戦争が関係していました。朝鮮戦争の勃発というアジアでの冷戦激化、さらに中国義勇軍の戦争への大規模介入は対日講和問題の展開に大きな影響を与えたのです。

また、朝鮮半島へ目を転じれば、朝鮮戦争の発端はそもそも植民地支配をどう払拭するかをめぐる戦いでした。(朴一(2015)「在日コリアンからみた朝鮮戦争」『アジア政治経済学会 アジア研究』第61巻第2号,p16。)また解放後も日本に留まることになった在日朝鮮人も日本においてこの戦争に翻弄されていました。このように、朝鮮戦争は、戦後日本社会において、朝鮮半島との関係と照らして見ても決して対岸の火事ではない問題だったのでした。

 では当時の日本社会では、朝鮮戦争をどのようにみていたのでしょうか。朝鮮戦争といえば「朝鮮特需」という経済的なもので間接的なものだったというのが、当時の一般的認識だったとされています。朝鮮戦争は、時間的にはアジア太平洋戦争とも朝鮮植民地支配とも隔離して認識され、空間的にも、日本は戦争の直接的暴力から地理的に隔離されているとみなされていたのです。(永井史男・脇村考平(2015) 「特集:朝鮮戦争と日本 序」『アジア政治経済学会 アジア研究』第61巻第2号,p1。)

 2015年の夏から秋にかけ、安保法制の論議が日本社会では盛んに行われた。その中で、安保法制に反対する人びとの間では、戦後の日本は、憲法9条により一切の軍隊を持たず、あらゆる戦争に関わらず、よって一人の戦死者も出さずにきた。一人も殺さずここまで来たのだから、これからも戦争のできる国にしてはならないと、いう声をよく聞きました。本当に、戦後の日本は、一切の軍隊を持たず、あらゆる戦争に関わらずに一人の戦死者も出さずに、殺さずにきたのでしょうか。実際は、そうではありませんでした。日米安保条約が締結され、米軍基地が固定化され、自衛隊を持つことと9条とは相矛盾した形で戦後一貫して存在してきたのです。特に、朝鮮戦争においては、占領下の日本は、朝鮮戦争に全く関与しなかったわけではありませんでした。

 朝鮮戦争は、ここまでみてきたように、日本の安全保障(在日米軍の固定化、再軍備)のあり方を規定し、朝鮮半島と日本との関係においても重要なターニングポイントでした。いわば、戦後日本社会の原点ともいえるのが朝鮮戦争です。にも関わらず、朝鮮戦争は、戦後の日本社会でほとんど注目されずに来ました。それはどうしてだったのでしょうか?私はこの問いを掲げながら、戦後の日本のあり方を規定した朝鮮戦争を当時の日本社会がどのようにみていたのか、様々な角度から検討していきたいと思っています。日本社会を構成する私たちにとって朝鮮戦争がなんだったのかを確認する作業を通して、日本の戦後そのものを問い直すことができたらと願っています。

 

帰国事業の痕跡をたずねる2〜旧武蔵野市役所敷地内の記念碑と木犀の樹

シリーズ「帰国事業の痕跡をたずねる」2回目の今回は、地元の、東京武蔵野市にある記念碑を紹介したいと思います。

 

帰国事業の記念碑が武蔵野市内にあるということは、あまり知られていないでしょう。

 

それは仕方のないことで、どうしてもみようとしない限り目に触れないわかりづらい場所にあるのです。それは現在の武蔵野市市民文化会館の敷地にあります。五日市街道沿い、成蹊学園より西側にあって市立中央図書館の向かい側に当たります。ここはかつて市役所庁舎のあった場所でしたが、老朽化のために1980年に現在の新庁舎が完成し、その跡地は現在の市民文化会館へと姿を変えたのです。

新庁舎が現在の場所に建てられた背景には、米軍宿舎・グリーンパークの返還が関係しているのですが、この点については、『軍と人びとー中島飛行機武蔵製作所の戦後史』で詳述しています。

nekohoshi.hatenablog.com

 

今回は、ここが武蔵野市役所であった1959年の12月。記念すべき第一船に乗って帰国する人びとと送る側の人びとの様子が描かれた記事をご紹介したいと思います。

 

“もくせいよ かおれ”と題された『武蔵野市報』1960年1月1日号の記事には、武蔵野市在住で今度帰国する人びとから贈られた帰国記念植樹の除幕式の様子が記されています。

 

 

 

“初めて祖国に帰るよろこびは何ものにも代えられません”と目に涙して多くを語りませんが、家財を処分しみんないづれは帰国してしまう隣の国の人たちです。

“これからもおたがいになかよくいたしましょう、市長さんはじめ皆さんも訪ねてきてください”と帰国者一同の記念植樹の碑が伊豆青の根府川石に刻まれ、朝日友好永久親善を祈っております。

 

 

 

実際には、一度帰国した人びとが日本との間を往来することは基本的には許されませんでした。現在もそれは変わっていません。ですが、この当時は、日本においても厳しい生活環境の中にあって、「祖国」へと渡る決心をしたのだろうと思います。

 

植えられたのは、木犀でした。「 “香り高い木犀を植えて来る秋も花季を忘れないで香るように”と1959年12月11日に市役所の門の傍に植えられ 」たのだそうです。今も、木犀は、市民文化会館の東よりの建物と隣の小学校の間でひっそりと佇んでいます。そして樹の手前には植樹の記念碑も街道に向かって静かに存在しています。

 

最後に、除幕式で送る側の職員コーラス部員が歌ったという歌を紹介します。

 

“さよならアリランアラリヨー

指折りかぞえ、幾年か

妻子をつれて はなれる日本

名残りはつきぬ 空の星“

 

この歌は、当時の民生部長が作詞し、「国際結婚、帰国船、平和の鐘」を歌っているそうです。帰国する人びとの複雑な心境が、どれほど送る側の人びとに伝わっていたのでしょうか。時代が過ぎて、今様々な経緯や状況を知っているからこそ、そんな風に厳しい目を向けてしまうのかもしれません。ですが、語られない中にある思いや背景を知る努力はいつの時代であっても心がけたいものですね。

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冊子臨時増刊号

ご要望がありましたので、

 

中島飛行機武蔵製作所と朝鮮人 戦前篇と戦後篇、

ナショナリズムからの解放を求めて(雑感)

 

を冊子化しました。

 

ご希望の方は、下記までご連絡ください。

 

また、冊子vol1.中島飛行機武蔵製作所の戦後史

をご要望の方も同じくこちらへご連絡ください。

よろしくお願いいたします。

 

nishiogiminami3@yahoo.co.jp

ナショナリズムからの解放を求めて(雑感)

 韓国釜山の日本総領事館前に平和の少女像(以下、少女像)が新たに設置されたことをめぐって、日本政府は韓国政府に対して駐韓大使を一時帰国させるなどして抗議の意思を示しています。

 一昨年、2015年の12月に外相間で交わされたいわゆる日韓合意。ここで、韓国の市民団体が設置した少女像を撤去することを要請(努力義務ではあるが)したにもかかわらず、今回、新たに設置されたことに対して、日本政府は合意の不履行だとして抗議をしたわけです。

 こうした事態を受けて、韓国政府、韓国の人びと、日本政府、日本の人びと、在日朝鮮人など、様々な立場で様々な態度や意思の表明がなされている状況です。その中で、わたし自身が感じていることを少しお話ししたいと思います。

 

 まず、わたしは、日韓合意自体に反対の立場です。そもそも被害当事者の女性たちの声にきちんと耳をかたむけることなく政府間で強引に「解決」へと進めたことは許されないことです。さらに、これは今回の「慰安婦」問題に限らず、一貫して日本政府がしてきた、植民地支配の法的責任は一切とらないことを示したものであり、この点が、わたしが日韓合意に反対する最も大きな理由です。

 日本は、そもそも、日韓会談(1951年の予備会談〜1965年妥結)期間中より、ずっと、植民地支配は当時としては合法であった、すなわち日本には法的責任は一切ないという主張を貫いています。わたしはこの点に否という立場なのです。

 

 こうした立場をとる人は、日本の「リベラル」の中でもそれほど多くはありません。当然、条約締結までなされた現在、これを覆すことが容易でないことはよくわかっています。ですから、残された道からより良い、より被害当事者に寄り添った選択を考えるという人たちの考え方もわかります。

 ですが、戦後の日本社会において、あまりにも植民地支配をめぐる責任についての議論が足りなさすぎたように思うのです。日韓会談当時の「革新」、その系譜だといえるだろう「リベラル」の中では、そのような議論がもっと活発であっても良かったのではないかと。もちろんそのような問題意識を持った人がたくさんいたことも知っています。それでも・・・

 この点については、以前に書いたエッセイでより具体的に述べています。良かったらお読みください。

 

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『社会評論』181号(2015年7月)

敗戦後70年目の今年、日本社会は私が知っている限りにおいてかつてないほどに「戦後とは何だったのか」という問いを突き付けられ、そしてそれに向き合おうとしている。例えばそれは白井聡氏の『永続敗戦論―戦後日本の核心』や矢部宏治氏『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』がベストセラーとなっていることからもよくわかる。どちらも私たちが直視することを避け続けてきた戦後日本の核心をストレートに読者に提示している。

著者がこうした問いを提示せざるを得なくなったのも、多くの人がこの問いを受け止めずにはいられなくなっているのも、前号の鹿野政直氏のエッセイにあるように「戦後」がつぶされようとしている、雪崩れている状況に私たちが直面させられているからである。こうした状況は日本社会にとって厳しく辛くまた悔しいものであるが、こうなったからには見たくないものをどこまでも直視し自問自答することから始める以外にないのではないだろうか。

そうした中で、戦後日本を直視する際にどうしても抜け落ちがちな植民地支配責任の議論もこれを契機に広がってほしいと思っている。冒頭で述べた白井氏、矢部氏の著書では戦後日本がいかに対米従属のもとで生きてきたかということが書かれていたわけだが、まさにそのことは、日本がアジアの脱植民地化の過程に自覚的に主体的に向き合うことを回避してきたことと表裏一体の関係にあった。

だが1990年代以降に噴出した戦後補償裁判の中で植民地支配により被害当事者となった人々が声を上げたことで、日本社会は植民地支配責任についての応答をせまられた。戦後処理の中では冷戦という状況もあって米国をはじめとした連合国から不問にふせられた植民地支配責任について、厳然たる被害の事実を知ることによって私たちはようやく自覚的にならざるを得なくなったのである。とはいえそれが90年代当時も国民的議論にまで広がったとはいえなかったし、いまや被害当事者が声をあげたことで明るみになった「慰安婦」問題はその存在を否定し問題の矮小化を進める動きがある一方で、真の救済からはますます離れていっている。

昨年1月、大島渚の撮ったドキュメンタリー『忘れられた皇軍』(1963年放映)が約50年ぶりにTV放映された。ここで扱われていた「皇軍」は植民地支配によって「皇軍」とならざるをえなかった朝鮮人であった。彼らは日本人として「皇軍」として戦い、傷痍軍人として戦後日本社会を生きた。だが日本国籍者でないことを理由に日本政府から一切の補償を支給されないという理不尽な目にあうことになる。こうした状況を打破すべく様々な方面に訴えかける「皇軍」の姿をカメラは追った。番組のラストで、「皇軍」兵士のアップとともに「もっと大きな喜びが与えられるべきではないのか。しかし、今この人たちは何も与えられていない。私たちは何も与えていない。日本人たちよ。これでいいのだろうか。これで、いいのだろうか。」という怒りに満ちたナレーションが入る。これを聞いたとき、それまで私の心の中で静かに燻り続けていた思いと重なった。自分自身の怒りの向く先がどこにあるのか、その怒りがいかに強いものだったのか初めて自覚した。戦後70年間、私たちは向き合うべく問題をいかに放置しつづけてきたことか。すぐ近くにいる人々の声にさえ、きちんと耳を傾けてこなかった。

日本社会で戦後補償問題が話題に上るときは「もう国家間の交渉で解決済み。終わった話なのに何をいまさら」という議論になりがちな状況はずっと変わっていない。そして国家間交渉における「解決済み」の中身が「経済協力」であったこと、つまりそこに植民地支配に対する評価の意味合いがなかったことを改めて問う視点はほとんど皆無である。

こうした状況の日本社会において、戦後70年議論されることのなかった植民地支配の問題についてここで改めて一から考えていくことが必要だと私は思う。そこではナショナルな枠を超えた視点で被害当事者を見つめることが重要である。例えば、被害当事者と日本国民である私において、ナショナル対ナショナルで問題を捉えるのではなく、同じ民衆という立場で被害当事者の声に耳を傾け、それに対してどのような責任があるのか、どのような補償をなしうるのかということを考えるのである。その上で私の所属する国家がその責任を回避しているのであれば、そのことを国家に対して追及するという責任が私に発生することになるだろう。そしてその際には、そもそも植民地支配責任とは何なのか、ということを問わなくてはならなくなるだろう。これは難しい問いであり容易にこたえは出ないだろう。だがすぐ近くに被害当事者の存在があるのである。私たちはまずその声に耳を傾けるところから始めていこう。この作業こそが戦後70年の中で回避しつづけてきたもう一つの戦後日本の核心を直視し乗り越えることにつながっていくと私は信じている。

 

 

 

 

 

 

 

中島飛行機武蔵製作所と朝鮮人*戦後編

戦前篇では、中島飛行機武蔵製作所の門前にあった飯場を中心に朝鮮人のコミュニティができていたことを述べた。そのコミュニティは戦後にも継続して残されることになった。その背景と、そこでの人びとの様子はどのようなものだったのだろうか。

 

〇戦後の朝鮮人集住地区〜学校づくりと団体結成

 日本の敗戦は、朝鮮の人々にとっては植民地支配からの解放と受けとめられ、内地にいた朝鮮人は解放の喜びに沸き立ち我先にと朝鮮半島をめざして大阪、神戸、下関、博多などの港湾周辺に集まった。日本国内に200万人近くいた朝鮮人は、1946年3月の人口調査では64万7706人となっており、解放後半年で少なくとも130万人が朝鮮半島へ帰ったことがわかる。(鄭栄桓(2013)『朝鮮独立への隘路 在日朝鮮人の解放五年史』、法制大学出版局。)帰還は1946年に入ると急激に鈍りはじめていった。その要因は、連合国軍最高司令部(以下、GHQ)が帰還に際しての持ち出し財産を少額に制限したこと、帰還者の再入国を禁じたこと、さらに当時の朝鮮が急激な人口増で住宅難・食糧難に陥り、帰還どころか日本へと戻ってくる人々が増えたためであった。日本政府による「計画輸送」も1946年末をもって終わった。帰還者の大半は徴用や戦時の経済需要に引き寄せられた集団「移入」労働者であった。それ以外の帰還対策は遅れていた。

 このように日本政府の帰還対策や救済措置が不備な中で、自ら現状を打開するための組織が自然発生的に誕生した。戦前の朝鮮人は協和会(注)など一部の親日団体以外は組織を持つことは禁じられていたが、戦後になると様々な団体が組織された。組織の結成は、初期段階においては戦時からの政治的・組織的なつながりー共産主義者民族主義者などーによって形成されたが、1945年10月15日には在日本朝鮮人連盟(以下、朝連)という全国組織に統一された。

 解放後、人びとがまっさきに取り組んだのは子どもたちのための学校づくりと自らの団体の結成であった。帰還希望者の中には、日本の植民地支配時代の同化政策の中で朝鮮語を習得する機会が失われていた「二世」や幼児期に移住してきた者がおり、こうした背景は朝鮮語習得のための「国語講習所」開設へとつながっていった。雨後の筍のように国語講習所は全国の朝鮮人居住地の至るところにつくられていった。その数は、全国でおよそ600〜700か所くらいであったと考えられる。人びとは個人の家や、キリスト教会、あるいは焼け残った倉庫などありとあらゆる場所を利用して学校を始めたのであった。朝連はその運営に力を入れた。(金徳龍(2004)『朝鮮学校の戦後史—1945〜1972[増補改訂版]、社会評論社

 学校設立にかける在日朝鮮人の情熱にはすさまじいものがあり、貧しい生活の中から、なけなしの金銭を持ちより資材を購入し、率先して校舎の建設作業に参加し、運動場の整備に汗を流し、教材の購入にも心血を注ぎ込んだ。(金賛汀(2011)『非常事態宣言 在日朝鮮人を襲った闇1948』岩波書店、p10。)武蔵野の関前にも関前朝鮮学校(後に立川初等学院となり、さらに後には現在の西東京朝鮮第一初中級学校に統合された。)と在日本朝鮮人連盟関前分会事務所がつくられた。朝連事務所と学校が同じ建物を使用するケースは多かった。

 ところで朝連が日本共産党と密接な関係を持ち左翼化する中で、これをきらう在日朝鮮人もいた。彼らは1946年10月3日、在日本朝鮮居留民団(以下、民団)を結成する。民団は、朝連のように日本社会における権利擁護について直接的な行動をとるのではなく、日本政府と「協調」し、「本国政府の実力」をもって解決すべだと考え行動した。(鄭栄桓(2011)「「解放」後在日朝鮮人運動と「二重の課題」―在日本朝鮮人連盟を中心に」(五十嵐仁編著『「戦後革新勢力」の奔流―占領後期政治・社会運動史論1948―1950』、大月書店、p335。)

 

朝鮮半島の南北分断—2つの国家

 1948年8月15日、朝鮮半島南半部に大韓民国(以下、韓国)、9月9日には北半部に朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)が成立し、朝鮮半島に2つの国家が存在することになった。 

 同時期の日本国内では、教育基本法・学校教育法の制定にともない、GHQと日本政府は朝鮮学校の認可申請と教育の適格審査を求めていた。文部省学校教育長は1948年1月24日に通達「朝鮮人学校の取扱について」を出し、課外以外での朝鮮語教育を認めない。また、学齢児童・生徒を対象とする各種学校の設置も認めないと通知した。さらに同月26日には通達「朝鮮人の学校の教職員の資格審査について」によって教職員の審査を命じた。各都道府県では3月にかけて次々と学校閉鎖命令を出したが、朝連はこれに強く抗議した。4月24日には人びとが兵庫県庁に押しよせて知事に閉鎖命令の撤回を確約させた。このような事態を受けてGHQ第八軍は同日「非常事態宣言」を発令し、戒厳令下での徹底的な取り締りを実施した。(鄭栄桓前掲書、p341。)この「非常事態宣言」は占領下においてこのとき限りの発令であり、いかにGHQがこの事態を重くみていたかがうかがわれる。

 朝鮮半島では、戦後処理としての信託統治をめぐって米ソ間での交渉が不調に終わり、米国は朝鮮半島の戦後処理を国連に持ち込んでいた。そして国連の監視下による選挙が決定されるが、ソ連北朝鮮(半島北半部のこと)はこれを拒否。南朝鮮のみで選挙が実施されようとしていた。5月10日の単独選挙を控える中で、GHQは在日朝鮮人の抗議行動が単独選挙に対する南朝鮮での反対運動と結びつくことを極度に恐れていた。おりしも、4月3日、大阪の在日朝鮮人にゆかりの深い済州島で単独選挙に反対する武装蜂起(4.3事件)があったことから、日本における朝連の動きにGHQは非常に敏感になっていたのである。(水野直樹・文京洙(2015)『在日朝鮮人 歴史と現在』岩波書店、p114-115。)

 こうしたなか、朝連の在日本朝鮮人教育対策委員会と森戸文部大臣は、48年5月3日に朝鮮人教育についての「覚書」に仮調印した。正式調印は5日なされ、翌6日になると文部省は「朝鮮人学校に関する問題について」(「5.6通達」)を都道府県知事あてに発した。この通達は、設置基準に合致した朝鮮学校の私立学校としての認可、日本学校へ転学する朝鮮人への便宜供与、地方庁による朝鮮学校責任者の意見聴取などを定めたものである。だが、ここではあくまで教育基本法・学校教育法の枠内での「選択教科」「自由研究」「課外」としての朝鮮語朝鮮史教育、日本学校在学の朝鮮人児童については「放課後又は休日」の朝鮮語教育などを許容したにすぎない。しかも、このうち「認可」を受けた学校は弾圧前に比べて四割弱にすぎず、日本学校の校舎を借用していた学校のほとんどは強制閉鎖されることとなった。(小沢有作(1973)『在日朝鮮人教育論 歴史編』亜紀書房。)

 さらに1949年9月8日、吉田内閣は、朝連に団体等規正令を適用して解散に追い込んでいった。朝連の活動は、GHQだけではなく日本政府にとっても共産主義勢力の日本移入の防止という観点から注視されていた。以下の法務府特審局の「朝連について(1949年6月)」という調査報告書を見ると、当時の日本政府が朝連をどのように見ていたかがよく分かる。

 

 中国における共産主義者の国内での勝利はアジア各地をゆさぶる「赤い解放線」に重大な影響を与えている。中国に直接隣接する朝鮮に対する影響はいっそう深刻なものがあるようである。…伝えられる米軍の南朝鮮からの撤退説をめぐって、朝鮮における右派・左派の抗争は将来において深まり、強まると考えられる。そしてこの朝鮮情勢を前にして…朝連に関連する団体の活動を注視するならば、彼らが密かに共産主義陣営の一翼として、北朝鮮の最新の動きに応じて、日本の共産分子と秘密裡に連絡をもって、地方で日本国民の扇動のため術策を弄しつつ、この国の革命成就の機会を待っていると想定される。(法務府特別特審局(1951)『朝鮮人団体の動向(自1949年6月至1960年9月)』法務府、p1。)

 

 解放された朝鮮人が熱意をこめてつくった学校はGHQと日本政府により強制的に廃校にさせられ、朝連も団体等規正令により解散させられ、在日朝鮮人は厳しい状況に置かれた。

 こうした状況下で関前の在日朝鮮人はこのころどのような生活をしていたのだろうか。証言によれば、関前のほか、北裏や千川上水べり、東伏見早大グラウンドに面した土手の上などには軒の低いバラックが連なり、ニコヨンや土方、失対などで暮らしていた人々が多かったという。

 

「自分たちで建てたおもちゃみたいな家に住んで、みんな貧しかったね。朝鮮戦争が始まって日本は戦争特需にわき、間もなく戦前の水準まで経済が回復したけど、朝鮮人にはその余禄がなかった。企業に就職できるわけじゃないし、仕事といったら男は土方、女は闇米を売ったり、ぼろ拾い、ドブロク作りかな。じめじめして日当たりが悪くて、水道もないところにかたまって住んでましたね。」(武蔵野市女性史編纂委員会編集前掲書、p163。)

 

 さらに翌50年には朝鮮戦争が勃発し、解放のよろこびもつかの間、「祖国」は戦場となってしまった。その同じ朝鮮戦争によって日本の経済は回復し、特需に日本社会は湧いた。 

 

(注)協和会について

 戦前篇で述べたように、日本政府は労働力の補てんのために朝鮮人労働者の内地受け入れに舵を切ったが、そのことで様々なトラブルが起こることを懸念していた。そのため労務動員実施以前からその対策を準備した。朝鮮人管理のための組織、協和会発足と全国設置もその一環であった。そこでは、自主的な朝鮮人の活動を抑圧しつつ、朝鮮人を組み込み、そのもとで生活習慣の同化や日本語教授、日本国家への忠誠心教化が実施された。指導の中心は警察官であり、抗日意識を持つ人びとの監視も彼らの重要な任務であった。
日中戦争開始以降にはこの対策はさらに重要性を増し、全国的な組織整備が国家の施策として推し進められた。1939年6月には厚生省管轄の財団法人中央協和会が発足する。各都道府県(朝鮮人の少なかった沖縄県を除く)に設置。以降、労務動員により日本内地にやってきた朝鮮人は協和会に強制加入させられていった。また厚生省管轄の団体といっても協和会の運営には引き続き警察が関与した。職場での労使紛争も含めて朝鮮人が何か問題を引き起した場合にいつでも弾圧できる体制が築かれたのである。(外村前掲書、pp51-52。)