日本社会は朝鮮戦争をどう見てきたか〜日本人記者の記事(1951-1956)を通して考える〜

 

(昨年の秋頃に書いたもので、冊子『Let's』91号(2018年12月)に寄稿しています)

 

 

はじめに

 朝鮮半島の状況がいま大きく変わろうとしている。日本社会はそうした状況をどのように見ているだろう。3度目の南北会談を受けて出された9月20日朝日新聞社説では「和解の機運は広げたい」として和解ムードは歓待しつつも、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮と呼称する)の非核化への見通しには厳しい眼差しを向けた。日本社会でも同様の見方をする人が多い。こうした反応からは、和解の行く末を冷静に見守る姿勢の一方で、これまで朝鮮半島の戦争状況に日本がどのような眼差しを向け、関わってきたのか、そして今後の平和体制構築にどのように関わっていくべきなのか、といった問いやスタンスは見えてこない。日本社会がこのように距離を置いた少し冷淡な態度をとるのはなぜなのか。朝鮮戦争への日本社会の眼差しを振り返ることでその理由に接近できないか。以下では、休戦交渉の時期に、戦後初めて朝鮮半島へ入った日本人記者(朝日、読売)の記事の検討を通してその一端を示したい。

 

*戦後初めて朝鮮半島で取材した日本人記者

 日本の新聞社からの朝鮮半島(国交正常化交渉をした大韓民国(以下、韓国と呼称する))への正式な特派員派遣は1960年以降である。だが、それ以前の、1951年7月から56年10月にも日本人記者は韓国取材をしていた。朝鮮戦争休戦交渉に際して国連軍総司令部が許可したためだ。(1

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読売新聞1951年7月12日夕刊(1)

 休戦会談は1951年7月10日、開城で始まった。7月11日夕方、他の日本人記者団17名とともに、ソウル郊外の金浦飛行場に到着した朝日新聞の鈴川勇記者は、翌日、第一報を伝えた。

            

日本人には親しみ深い場所の中でも、京城(2銀座といわれた明治町はメチャメチャになっており、何一つ満足に立っていない。(中略)明治町という名前は朝鮮が解放された直後に、当時の朝鮮人の対日感情を反映して直ちに「明洞」と改称されてしまった。(朝日新聞1951年7月12日(1))

 

読売新聞の小平和勝記者の第一報は12日夕刊誌面で報じられた。ソウルの街で「始めてママ韓国人に話しかけれ」たときの様子を以下のように伝えた。

十六歳位の自動車の運転手が日本語で「日本の方ですか」と記者に話しかけたのである。「そう」と記者が少年の手を固く握り、「君にききたいことがあるんだがあしたまた会おう」というのに対して少年は「かしこまりました」と答えた。この答えを聞いた記者の目には涙が自然に湧き上がって来るのをどうにもできなかった。この悪夢のような戦争の後で、なにもかも破壊しつくされてしまった環境の中で、この少年は日本語を忘れずにいてくれた、われわれはお互いにまた理解し合えるのだという感を抱いて…(読売新聞1951年7月12日夕刊(1))

 

 両紙記者の第一報は非常に情感的だった。ほんの数年前まで「日本」であった「京城」を懐かしむ視点が前面に出ている。また、読売の小平記者による記事の「この少年は日本語を忘れずにいてくれた」という部分に注目したい。ここには、日本による統治に対して否定的ではない少年の態度に安堵する様がはっきりと現れていた。

 

*「朝鮮事変」の現実は日本と深く繋がっている。

休戦交渉中も戦闘は続いた。朝日の中村貢記者は、1952年11月16日の記事で、日本でつくられた兵器といすず、日産、トヨタ製のトラックが朝鮮戦線で使用されていることと、それに対する韓国人の反応を伝えた。

 

  軍需株はあがり、株主はホクホクし、そこに働く人々はまたこの冬のボーナスの皮算用に忙しいのだろう。(中略)「日本はうまくやっている。われわれが血を流して苦しんでいるのに、特需、新特需でヌクヌクと復興してきた。」相当親日な人でも、最後にはこういう。とやかくいわれる対日感情の根元はこんなところになるのだ。(朝日新聞1952年11月16日(1))

 

中村記者は、翌年1953年には現地報告を雑誌『世界』へも寄せている。

 

  朝鮮戦争が始つたとき、吉田首相が「神風だ」とか言つたという。日本人の朝鮮事変への感覚も、 「神風」か、海の彼方の出来事としてしか把えていない向きがある。しかし朝鮮事変の現実は日本と深く繋がっている。(中略)日本で日本人がつくつた一〇五ミリ榴弾砲があり、八五ミリ迫撃砲弾がある。(中略)ジープというジープもみんな追ツ濱で組みたてられたものであり、韓国軍部隊の前線にはトヨタがあり、イスズもニッサンもそのキャシャな車體を泥まみれにしていた。(中略)とにかく前線の砲火をみていると、日本の軍需産業資本家は三十八度線の前線で闘つているのだ、という誰かの言葉が實感として身に沁みる。(中村貢「板門店再開風景-現地報告-」(特集朝鮮動乱三年『世界』1953年6月号、岩波書店

 

 朝鮮特需にわく日本とその製品が使用される朝鮮半島とのギャップを切り取っている。また、前年の記事以上に中村記者の心情が出された。新聞記事と雑誌での個人報告という性格の違いはある。だが、一定の時間の中で、彼のうちに逡巡があったとも言えないか。いずれにせよ、日本と朝鮮戦争との関係性を目撃したことは、そのことに気付こうとしない日本社会に対する憤りにも近いもどかしさを彼に感じさせたのではないか。

 

*「反日感情」へのとまどい

 朝鮮戦争の休戦協定締結後も、日本人記者は韓国で取材、報道を続けた。朝日の津島記者は、1954年6月、休戦協定から1年目の朝鮮の状況について次のように報じた。

 

 現地で記者の目撃した反日ぶりはまさに想像を超えるすさまじさであった。日本への根深い不信、それから生まれた将来の「日本の脅威」に対する不安、過去の日本統治時代に対する反発(中略)それに李大統領自身の個人的な反日感情が加わった「日本排撃」の空気は救い難いほどのとげとげしさになっている。(中略)一年前には大いに語り合えた韓国の青年たちがいまでは会うことすら難しくなった。(朝日新聞1954年6月9日(2))

 

 「反日」態度に関する記事は、朝日の矢野記者も伝えている。強硬な態度の根底には、過去の日本への反発が根強くあるが、それは「国民意識の高揚や国内の地固めをねらって」のものだという解説がなされ、こう結んだ。

 

 韓国社会の底辺をなす民衆の多くは、その愛国心から来る微妙な意識や反発もあるが、それと同時に互恵平等を目指す日韓関係の改善を望んでいることは間違いないようである。それは京城の街のあちこちで会った人々が、あたりの第三者に気兼ねしながらも、ほとんど例外なくもらしてくれたことだった。(朝日新聞1955年6月23日(2))

 

政府と人びとの対日感情が必ずしも一致しないとの見方は、読売の竹下記者の記事にも見られる。1955年8月15日の「解放記念日」以来、韓国政府が反日声明、対日旅行制限及び対日貿易の全面的禁止などの「反日政策」を打ち出していることを受けて、韓国政府の真意は「強硬策」を推し進めることなのか、「単なるいやがらせ」なのか、「国民の目を外に向けようとする『苦肉の策』」なのかとして、「京城」の街や一般の人々にみる「反日」の様子を伝えた。政府の態度にもかかわらず「反日空気」はさほど感じられないとした上で、こう結んでいる。

 

 もちろん一部には極端な“日本ぎらい”もいるのであろう。しかし、多くの人々、とくに知識層や年長者たちはいまもって日本をなつかしみ、なにかとわれわれ日本人に親切にしてくれる。(中略)「どのみち韓国は日本とは離れられない」「日本との提携は韓国のため」ということは韓国人自らがもっともよく知っていることであろう。「被支配民族であったという気持ちはなかなか抜けるものではありません。だから何としても平等でありたいという気持ちもつきまとうのです。しかしそれでもとにかく日本とは仲良くしたいのです」と、ある韓国人はこう語っていた。(読売新聞1955年8月21日(2))

 

おわりに

 ここまで、戦後初めて朝鮮半島へ入った日本人記者の記事を通じて、戦後の日本社会が朝鮮戦争下の朝鮮半島をどのように見てきたかを検討してきた。(3

 両紙記者の第一報は、数年前まで「日本」であった「京城」を懐かしむ視点が前面に出ていた。休戦後には、韓国政府と一般の人びととの対日感情が必ずしも一致するものではないことを両紙ともに強調した。日本に対して批判的ではありつつも好意的な態度を示す人びとの発言を取り上げることで、政府の対日感情とのコントラストを示そうとする記者の意図が感じられた。そこには、その事象に自分自身が関与してきたことを見ないようにする意識が働いていたのではないのだろうか。目の前の事象や相手から応答を迫られ、それに応えようとすれば葛藤が生じ、苦痛を伴うことが予想されるとき、人はそれを回避しようとする。だが、朝日の中村記者が韓国の人びとの複雑な感情を受けてから半年後に吐露した心情には、取材時に告げられた言葉への応答があったようにも感じた。(4

 自分自身との対話のプロセスを経ない態度表明には、どこか他人事という距離感や冷たさ、あるいは自己弁護の雰囲気が漂ってしまう。急いでこたえを出さなくてもいいのではないだろうか。自問自答の時間は、逡巡の時間は、他者との関係をきっと豊かにしてくれるのだから。

 

(1

1951年から56年の日本人記者の韓国派遣経緯の詳細は以下を参照されたい。五郎丸聖子(2014)「日本人記者が報じた日韓関係(1951-1956)『明治学院大学大学院国際学研究科紀要』第13号。

(2

ソウルは、戦前には京城と呼称されていた。また戦後においても、京城という呼称が一般的であった。本稿では、地域の呼称については現在の呼称に統一するが引用の際には原文のまま記載する。

(3

1951年7月から56年10月の朝日、読売両紙の朝鮮半島関連記事のうち、在韓記者による記事は、筆者が確認できた限りでは、朝日で44件、読売で12件とそれほど多くはなかった。そのうちのおよそ半分が朝鮮戦争関連。残りは政府、知識人、一般の人びとへの取材による韓国国内の様子を伝えるものであった。

(4

中村貢記者はじめ、本稿で引用した記者らのプロフィール、韓国派遣時、あるいは派遣後の心情についてはその詳細を十分に追えていない。今後の課題としたい。

 

追記*帰国事業の痕跡をたずねる2〜旧武蔵野市役所敷地内の記念碑と木犀の樹

以前、旧武蔵野市役所敷地内(現在の武蔵野市民文化会館)の記念碑と木犀の樹についてご紹介しましたが、

 

nekohoshi.hatenablog.com

実は、記事紹介をした昨年の時点で、すでに記念碑の場所が移動していたことがわかりました。

私が気づいたのは先月の下旬です。この間、文化会館の改修工事があり、建物全体が壁に覆われていたこともあって、記念碑が元の位置にないことにしばらく気づかずにいました。ところが、今回、記念碑も樹もなくなっていることがわかったため、市に問い合わせたところ、下記のことがわかりました。

 

●記念碑の位置の変化

2016年まで 文化会館の東側

2017年以降 文化会館の南側

文化会館の南側、武蔵野市立第一中学校との間に移設されています。

三鷹駅と五日市街道を結ぶ、かたらいの道、からも見える場所です。

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●木犀の樹について

・2016年時点であった木犀の樹は撤去されたが、そもそもその樹は1959年に植樹された樹ではなかったと考えられる。

・その理由として、2016年時点で植わっていた木犀は比較的若い木だったが、1959年に植樹されたのはその時点で樹齢100年ぐらいの古木とあったため。

 

確かに、私が、前回の記事を書くときに参照した「武蔵野市報」1960年1月1日号にも「樹齢百年ぐらいの古木ですが、」と書かれていましたから、2016年まであった木犀とかつてのそれとが同一のものかどうかはよく確認する必要がありました。


ここはもう少し調査したいと考えています。

 

・・・・・

武蔵野市民文化会館は、2年前から約1年、改修工事をしていました。

その工事のさいに、以前ご紹介した記念碑の位置(文化会館の東側・五日市街道に面したところ)にコジェネレーションを設置することになったとのことで、現在の位置に移設されたのだそうです。

 

前回の記事の写真は、2015年時点で撮影されたものでした。

 

それにしても、記念碑が撤去ではなく移設でほっとはしました。

結果としては以前よりも見やすい場所になりました。


 

 

 

 

 

冊子vol.4 朝鮮戦争と日本人船員(シリーズ朝鮮戦争と日本社会)

本日『猫が星見たー歴史旅行』vol.4を刊行しました。

テーマは「朝鮮戦争と日本人船員」です。

vol.2以降、朝鮮戦争と日本社会というシリーズで書いてきています。
vol.2とvol.3では「日本人にとっての朝鮮戦争」とはどのように受け止められていたのかということを
主に新聞などを通して検討してきました。

 

今号では、朝鮮戦争に実際に関与した日本人船員について検討しています。

米軍への物資・人員輸送、上陸作戦に日本人が船員として動員されたことを知っている人はそれほど多くないと思います。
彼らは機雷掃海隊とは異なり公務員でなく、様々な雇用形態ではあったが、あくまでも民間の船員でした。

わたしが、朝鮮戦争に関わった日本人がいたことを知ったのは比較的最近のことで、友人に誘われてある船員の方の朝鮮戦争体験記をお聞きしたのが最初でした。2013年のことです。その方は民間のLST乗組員として朝鮮戦争に関わったのだと話してくれました。LSTとは「Landing Ship Tank(戦車揚陸艦)」の略です。戦車と兵員を積んだまま海岸に乗り揚げて、それらを揚陸させ、敵前に橋頭堡を築くために使用される船のことです。これに乗り組むということは、敵前上陸を敢行した場合、敵に攻撃されて艦と運命をともにするかもしれないということを意味しました。 

戦後の日本は、憲法9条を持つ平和国家でした。にもかかわらず、実質的に戦争に参加していた日本人がいたということは何を意味していて、またなぜ広く知られずにきたのでしょうか。そしてそのことを今どのようにとらえるべきなのでしょうか。

シリーズ“朝鮮戦争と日本社会”の二つ目のテーマは、朝鮮戦争に船員として関わった方が語られたこと、そこから受け止めるべきこと、ということになります。今回は、種々の海上輸送業務、船員の様々な雇用形態を整理確認した上で、乗船した人びとが朝鮮戦争に関わる中で何を感じ、どのような態度を示したのかというように船員という個人に焦点を当てていきます。後者については直接お話をお聞きしたことのある方の語りと記録を中心に、先行文献や他の船員の日記、証言記録なども含めて検討します。

 

今号をご希望の方はお手数ですが下記までご連絡ください。

なお、1部500円となります。
お支払い方法などは個別にご連絡させていただきます。
よろしくお願いします。
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冊子を置いていただいています→カフェひょうたん島

みなさんこんにちは。

 

『猫が星見たー歴史旅行』を国立のカフェひょうたん島に置かせていただくようになりました。よろしくお願いいたします。

 

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有限。(雑感)

有限

 

 わたしは、中央線沿いの西荻窪と吉祥寺暮らしています。幼少の頃にも今とほぼ同じ場所に数年住み、別の街を転々としてまた十数年前に戻ってきました。

 

 毎日、中央線の高架下や高架脇を朝、昼、夜と様々な時間に歩きます。目の前に映る景色は、幼少の頃とまったく変わっていなかったり、少し面影を残しつつ変化していたり、以前を思い出せないほどになっていたり、色々です。

 

 そんな景色を目にしながら日々を過ごすことで、わたしの意識は幼少の頃と今との時間を往来させられています。かつて母と離れて社会と関わることに怖れを感じ泣いていた日々、プールがこわくて雨が降って授業が中止になればいいと線路沿いに咲く雨降り朝顔を抜いていたある日の夕方、色あせた「外環道絶対反対」の看板を眺めていた真夏の昼間。毎日、目にする景色が、かつてのいろんな光景とその時の思いを呼び寄せるのです。

 

 そんな日常を過ごしていると、次第に、自分が生きてきたこれまでの時間を否応なく実感させられ、それは自分の人生の有限性への実感と繋がっていきます。

 

 この街に戻ってきてから、祖母と猫二匹と父の死に直面しました。死は、それまでの世界とその後の世界とを分け隔てる点のような存在ですが、でもそれを祖母の、猫の、父の生命が全うされた着地点だと捉えることもできます。

 

 生命は有限である、という当然のことを、愛する存在の命が全うされる姿を間近でみたことと、自分の生の時間を日々感じるなかで、自然と実感していくようになりました。

 

 過去の自分との交信は、これからも続いていくのでしょう。それは不思議で心地よい時間です。

送付方法について

みなさまへ

 

おしらせです。

冊子の送付については基本的には郵送とさせていただいていましたが、

何件かご希望がありましたので、

データでもお送りいたします。

 

どうぞ、ご検討ください。

よろしくお願いいたします。

冊子vol.3〜朝鮮戦争と日本社会〜

〜『猫が星見たー歴史旅行』vol.3を本日刊行しました。〜

 

「日本人にとっての朝鮮戦争」後編です。

多数の日本人にとって朝鮮戦争はどのように受け止められていたのかということにアプローチしてきました。 

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