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帰国事業の痕跡をたずねる2〜旧武蔵野市役所敷地内の記念碑と木犀の樹

帰国事業の痕跡をたずねる

シリーズ「帰国事業の痕跡をたずねる」2回目の今回は、地元の、東京武蔵野市にある記念碑を紹介したいと思います。

 

帰国事業の記念碑が武蔵野市内にあるということは、あまり知られていないでしょう。

 

それは仕方のないことで、どうしてもみようとしない限り目に触れないわかりづらい場所にあるのです。それは現在の武蔵野市市民文化会館の敷地にあります。五日市街道沿い、成蹊学園より西側にあって市立中央図書館の向かい側に当たります。ここはかつて市役所庁舎のあった場所でしたが、老朽化のために1980年に現在の新庁舎が完成し、その跡地は現在の市民文化会館へと姿を変えたのです。

新庁舎が現在の場所に建てられた背景には、米軍宿舎・グリーンパークの返還が関係しているのですが、この点については、『軍と人びとー中島飛行機武蔵製作所の戦後史』で詳述しています。

nekohoshi.hatenablog.com

 

今回は、ここが武蔵野市役所であった1959年の12月。記念すべき第一船に乗って帰国する人びとと送る側の人びとの様子が描かれた記事をご紹介したいと思います。

 

“もくせいよ かおれ”と題された『武蔵野市報』1960年1月1日号の記事には、武蔵野市在住で今度帰国する人びとから贈られた帰国記念植樹の除幕式の様子が記されています。

 

 

 

“初めて祖国に帰るよろこびは何ものにも代えられません”と目に涙して多くを語りませんが、家財を処分しみんないづれは帰国してしまう隣の国の人たちです。

“これからもおたがいになかよくいたしましょう、市長さんはじめ皆さんも訪ねてきてください”と帰国者一同の記念植樹の碑が伊豆青の根府川石に刻まれ、朝日友好永久親善を祈っております。

 

 

 

実際には、一度帰国した人びとが日本との間を往来することは基本的には許されませんでした。現在もそれは変わっていません。ですが、この当時は、日本においても厳しい生活環境の中にあって、「祖国」へと渡る決心をしたのだろうと思います。

 

植えられたのは、木犀でした。「 “香り高い木犀を植えて来る秋も花季を忘れないで香るように”と1959年12月11日に市役所の門の傍に植えられ 」たのだそうです。今も、木犀は、市民文化会館の東よりの建物と隣の小学校の間でひっそりと佇んでいます。そして樹の手前には植樹の記念碑も街道に向かって静かに存在しています。

 

最後に、除幕式で送る側の職員コーラス部員が歌ったという歌を紹介します。

 

“さよならアリランアラリヨー

指折りかぞえ、幾年か

妻子をつれて はなれる日本

名残りはつきぬ 空の星“

 

この歌は、当時の民生部長が作詞し、「国際結婚、帰国船、平和の鐘」を歌っているそうです。帰国する人びとの複雑な心境が、どれほど送る側の人びとに伝わっていたのでしょうか。時代が過ぎて、今様々な経緯や状況を知っているからこそ、そんな風に厳しい目を向けてしまうのかもしれません。ですが、語られない中にある思いや背景を知る努力はいつの時代であっても心がけたいものですね。

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冊子臨時増刊号

ご要望がありましたので、

 

中島飛行機武蔵製作所と朝鮮人 戦前篇と戦後篇、

ナショナリズムからの解放を求めて(雑感)

 

を冊子化しました。

 

ご希望の方は、下記までご連絡ください。

 

また、冊子vol1.中島飛行機武蔵製作所の戦後史

をご要望の方も同じくこちらへご連絡ください。

よろしくお願いいたします。

 

nishiogiminami3@yahoo.co.jp

ナショナリズムからの解放を求めて(雑感)

 韓国釜山の日本総領事館前に平和の少女像(以下、少女像)が新たに設置されたことをめぐって、日本政府は韓国政府に対して駐韓大使を一時帰国させるなどして抗議の意思を示しています。

 一昨年、2015年の12月に外相間で交わされたいわゆる日韓合意。ここで、韓国の市民団体が設置した少女像を撤去することを要請(努力義務ではあるが)したにもかかわらず、今回、新たに設置されたことに対して、日本政府は合意の不履行だとして抗議をしたわけです。

 こうした事態を受けて、韓国政府、韓国の人びと、日本政府、日本の人びと、在日朝鮮人など、様々な立場で様々な態度や意思の表明がなされている状況です。その中で、わたし自身が感じていることを少しお話ししたいと思います。

 

 まず、わたしは、日韓合意自体に反対の立場です。そもそも被害当事者の女性たちの声にきちんと耳をかたむけることなく政府間で強引に「解決」へと進めたことは許されないことです。さらに、これは今回の「慰安婦」問題に限らず、一貫して日本政府がしてきた、植民地支配の法的責任は一切とらないことを示したものであり、この点が、わたしが日韓合意に反対する最も大きな理由です。

 日本は、そもそも、日韓会談(1951年の予備会談〜1965年妥結)期間中より、ずっと、植民地支配は当時としては合法であった、すなわち日本には法的責任は一切ないという主張を貫いています。わたしはこの点に否という立場なのです。

 

 こうした立場を唱える人は、日本の「リベラル」の中でもそれほど多くはありません。当然、条約締結までなされた現在、これを覆すことは容易でないことはよくわかっています。ですから、残された道からより良い、より被害当事者に寄り添った選択を考えるという人たちの考え方もわかります。

 ですが、戦後の日本社会において、あまりにも植民地支配についての議論が足りなさすぎたように思うのです。日韓会談当時の「革新」、その系譜だといえるだろう「リベラル」の中では、そのような議論がもっと活発であっても良かったのではないかと。もちろんそのような問題意識を持った人がたくさんいたことも知っています。それでも・・・

 この点については、以前に書いたエッセイでより具体的に述べています。良かったらお読みください。

 

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『社会評論』181号(2015年7月)

敗戦後70年目の今年、日本社会は私が知っている限りにおいてかつてないほどに「戦後とは何だったのか」という問いを突き付けられ、そしてそれに向き合おうとしている。例えばそれは白井聡氏の『永続敗戦論―戦後日本の核心』や矢部宏治氏『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』がベストセラーとなっていることからもよくわかる。どちらも私たちが直視することを避け続けてきた戦後日本の核心をストレートに読者に提示している。

著者がこうした問いを提示せざるを得なくなったのも、多くの人がこの問いを受け止めずにはいられなくなっているのも、前号の鹿野政直氏のエッセイにあるように「戦後」がつぶされようとしている、雪崩れている状況に私たちが直面させられているからである。こうした状況は日本社会にとって厳しく辛くまた悔しいものであるが、こうなったからには見たくないものをどこまでも直視し自問自答することから始める以外にないのではないだろうか。

そうした中で、戦後日本を直視する際にどうしても抜け落ちがちな植民地支配責任の議論もこれを契機に広がってほしいと思っている。冒頭で述べた白井氏、矢部氏の著書では戦後日本がいかに対米従属のもとで生きてきたかということが書かれていたわけだが、まさにそのことは、日本がアジアの脱植民地化の過程に自覚的に主体的に向き合うことを回避してきたことと表裏一体の関係にあった。

だが1990年代以降に噴出した戦後補償裁判の中で植民地支配により被害当事者となった人々が声を上げたことで、日本社会は植民地支配責任についての応答をせまられた。戦後処理の中では冷戦という状況もあって米国をはじめとした連合国から不問にふせられた植民地支配責任について、厳然たる被害の事実を知ることによって私たちはようやく自覚的にならざるを得なくなったのである。とはいえそれが90年代当時も国民的議論にまで広がったとはいえなかったし、いまや被害当事者が声をあげたことで明るみになった「慰安婦」問題はその存在を否定し問題の矮小化を進める動きがある一方で、真の救済からはますます離れていっている。

昨年1月、大島渚の撮ったドキュメンタリー『忘れられた皇軍』(1963年放映)が約50年ぶりにTV放映された。ここで扱われていた「皇軍」は植民地支配によって「皇軍」とならざるをえなかった朝鮮人であった。彼らは日本人として「皇軍」として戦い、傷痍軍人として戦後日本社会を生きた。だが日本国籍者でないことを理由に日本政府から一切の補償を支給されないという理不尽な目にあうことになる。こうした状況を打破すべく様々な方面に訴えかける「皇軍」の姿をカメラは追った。番組のラストで、「皇軍」兵士のアップとともに「もっと大きな喜びが与えられるべきではないのか。しかし、今この人たちは何も与えられていない。私たちは何も与えていない。日本人たちよ。これでいいのだろうか。これで、いいのだろうか。」という怒りに満ちたナレーションが入る。これを聞いたとき、それまで私の心の中で静かに燻り続けていた思いと重なった。自分自身の怒りの向く先がどこにあるのか、その怒りがいかに強いものだったのか初めて自覚した。戦後70年間、私たちは向き合うべく問題をいかに放置しつづけてきたことか。すぐ近くにいる人々の声にさえ、きちんと耳を傾けてこなかった。

日本社会で戦後補償問題が話題に上るときは「もう国家間の交渉で解決済み。終わった話なのに何をいまさら」という議論になりがちな状況はずっと変わっていない。そして国家間交渉における「解決済み」の中身が「経済協力」であったこと、つまりそこに植民地支配に対する評価の意味合いがなかったことを改めて問う視点はほとんど皆無である。

こうした状況の日本社会において、戦後70年議論されることのなかった植民地支配の問題についてここで改めて一から考えていくことが必要だと私は思う。そこではナショナルな枠を超えた視点で被害当事者を見つめることが重要である。例えば、被害当事者と日本国民である私において、ナショナル対ナショナルで問題を捉えるのではなく、同じ民衆という立場で被害当事者の声に耳を傾け、それに対してどのような責任があるのか、どのような補償をなしうるのかということを考えるのである。その上で私の所属する国家がその責任を回避しているのであれば、そのことを国家に対して追及するという責任が私に発生することになるだろう。そしてその際には、そもそも植民地支配責任とは何なのか、ということを問わなくてはならなくなるだろう。これは難しい問いであり容易にこたえは出ないだろう。だがすぐ近くに被害当事者の存在があるのである。私たちはまずその声に耳を傾けるところから始めていこう。この作業こそが戦後70年の中で回避しつづけてきたもう一つの戦後日本の核心を直視し乗り越えることにつながっていくと私は信じている。

 

 

 

 

 

 

 

中島飛行機武蔵製作所と朝鮮人*戦後編

戦前篇では、中島飛行機武蔵製作所の門前にあった飯場を中心に朝鮮人のコミュニティができていたことを述べた。そのコミュニティは戦後にも継続して残されることになった。その背景と、そこでの人びとの様子はどのようなものだったのだろうか。

 

〇戦後の朝鮮人集住地区〜学校づくりと団体結成

 日本の敗戦は、朝鮮の人々にとっては植民地支配からの解放と受けとめられ、内地にいた朝鮮人は解放の喜びに沸き立ち我先にと朝鮮半島をめざして大阪、神戸、下関、博多などの港湾周辺に集まった。日本国内に200万人近くいた朝鮮人は、1946年3月の人口調査では64万7706人となっており、解放後半年で少なくとも130万人が朝鮮半島へ帰ったことがわかる。(鄭栄桓(2013)『朝鮮独立への隘路 在日朝鮮人の解放五年史』、法制大学出版局。)帰還は1946年に入ると急激に鈍りはじめていった。その要因は、連合国軍最高司令部(以下、GHQ)が帰還に際しての持ち出し財産を少額に制限したこと、帰還者の再入国を禁じたこと、さらに当時の朝鮮が急激な人口増で住宅難・食糧難に陥り、帰還どころか日本へと戻ってくる人々が増えたためであった。日本政府による「計画輸送」も1946年末をもって終わった。帰還者の大半は徴用や戦時の経済需要に引き寄せられた集団「移入」労働者であった。それ以外の帰還対策は遅れていた。

 このように日本政府の帰還対策や救済措置が不備な中で、自ら現状を打開するための組織が自然発生的に誕生した。戦前の朝鮮人は協和会(注)など一部の親日団体以外は組織を持つことは禁じられていたが、戦後になると様々な団体が組織された。組織の結成は、初期段階においては戦時からの政治的・組織的なつながりー共産主義者民族主義者などーによって形成されたが、1945年10月15日には在日本朝鮮人連盟(以下、朝連)という全国組織に統一された。

 解放後、人びとがまっさきに取り組んだのは子どもたちのための学校づくりと自らの団体の結成であった。帰還希望者の中には、日本の植民地支配時代の同化政策の中で朝鮮語を習得する機会が失われていた「二世」や幼児期に移住してきた者がおり、こうした背景は朝鮮語習得のための「国語講習所」開設へとつながっていった。雨後の筍のように国語講習所は全国の朝鮮人居住地の至るところにつくられていった。その数は、全国でおよそ600〜700か所くらいであったと考えられる。人びとは個人の家や、キリスト教会、あるいは焼け残った倉庫などありとあらゆる場所を利用して学校を始めたのであった。朝連はその運営に力を入れた。(金徳龍(2004)『朝鮮学校の戦後史—1945〜1972[増補改訂版]、社会評論社

 学校設立にかける在日朝鮮人の情熱にはすさまじいものがあり、貧しい生活の中から、なけなしの金銭を持ちより資材を購入し、率先して校舎の建設作業に参加し、運動場の整備に汗を流し、教材の購入にも心血を注ぎ込んだ。(金賛汀(2011)『非常事態宣言 在日朝鮮人を襲った闇1948』岩波書店、p10。)武蔵野の関前にも関前朝鮮学校(後に立川初等学院となり、さらに後には現在の西東京朝鮮第一初中級学校に統合された。)と在日本朝鮮人連盟関前分会事務所がつくられた。朝連事務所と学校が同じ建物を使用するケースは多かった。

 ところで朝連が日本共産党と密接な関係を持ち左翼化する中で、これをきらう在日朝鮮人もいた。彼らは1946年10月3日、在日本朝鮮居留民団(以下、民団)を結成する。民団は、朝連のように日本社会における権利擁護について直接的な行動をとるのではなく、日本政府と「協調」し、「本国政府の実力」をもって解決すべだと考え行動した。(鄭栄桓(2011)「「解放」後在日朝鮮人運動と「二重の課題」―在日本朝鮮人連盟を中心に」(五十嵐仁編著『「戦後革新勢力」の奔流―占領後期政治・社会運動史論1948―1950』、大月書店、p335。)

 

朝鮮半島の南北分断—2つの国家

 1948年8月15日、朝鮮半島南半部に大韓民国(以下、韓国)、9月9日には北半部に朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)が成立し、朝鮮半島に2つの国家が存在することになった。 

 同時期の日本国内では、教育基本法・学校教育法の制定にともない、GHQと日本政府は朝鮮学校の認可申請と教育の適格審査を求めていた。文部省学校教育長は1948年1月24日に通達「朝鮮人学校の取扱について」を出し、課外以外での朝鮮語教育を認めない。また、学齢児童・生徒を対象とする各種学校の設置も認めないと通知した。さらに同月26日には通達「朝鮮人の学校の教職員の資格審査について」によって教職員の審査を命じた。各都道府県では3月にかけて次々と学校閉鎖命令を出したが、朝連はこれに強く抗議した。4月24日には人びとが兵庫県庁に押しよせて知事に閉鎖命令の撤回を確約させた。このような事態を受けてGHQ第八軍は同日「非常事態宣言」を発令し、戒厳令下での徹底的な取り締りを実施した。(鄭栄桓前掲書、p341。)この「非常事態宣言」は占領下においてこのとき限りの発令であり、いかにGHQがこの事態を重くみていたかがうかがわれる。

 朝鮮半島では、戦後処理としての信託統治をめぐって米ソ間での交渉が不調に終わり、米国は朝鮮半島の戦後処理を国連に持ち込んでいた。そして国連の監視下による選挙が決定されるが、ソ連北朝鮮(半島北半部のこと)はこれを拒否。南朝鮮のみで選挙が実施されようとしていた。5月10日の単独選挙を控える中で、GHQは在日朝鮮人の抗議行動が単独選挙に対する南朝鮮での反対運動と結びつくことを極度に恐れていた。おりしも、4月3日、大阪の在日朝鮮人にゆかりの深い済州島で単独選挙に反対する武装蜂起(4.3事件)があったことから、日本における朝連の動きにGHQは非常に敏感になっていたのである。(水野直樹・文京洙(2015)『在日朝鮮人 歴史と現在』岩波書店、p114-115。)

 こうしたなか、朝連の在日本朝鮮人教育対策委員会と森戸文部大臣は、48年5月3日に朝鮮人教育についての「覚書」に仮調印した。正式調印は5日なされ、翌6日になると文部省は「朝鮮人学校に関する問題について」(「5.6通達」)を都道府県知事あてに発した。この通達は、設置基準に合致した朝鮮学校の私立学校としての認可、日本学校へ転学する朝鮮人への便宜供与、地方庁による朝鮮学校責任者の意見聴取などを定めたものである。だが、ここではあくまで教育基本法・学校教育法の枠内での「選択教科」「自由研究」「課外」としての朝鮮語朝鮮史教育、日本学校在学の朝鮮人児童については「放課後又は休日」の朝鮮語教育などを許容したにすぎない。しかも、このうち「認可」を受けた学校は弾圧前に比べて四割弱にすぎず、日本学校の校舎を借用していた学校のほとんどは強制閉鎖されることとなった。(小沢有作(1973)『在日朝鮮人教育論 歴史編』亜紀書房。)

 さらに1949年9月8日、吉田内閣は、朝連に団体等規正令を適用して解散に追い込んでいった。朝連の活動は、GHQだけではなく日本政府にとっても共産主義勢力の日本移入の防止という観点から注視されていた。以下の法務府特審局の「朝連について(1949年6月)」という調査報告書を見ると、当時の日本政府が朝連をどのように見ていたかがよく分かる。

 

 中国における共産主義者の国内での勝利はアジア各地をゆさぶる「赤い解放線」に重大な影響を与えている。中国に直接隣接する朝鮮に対する影響はいっそう深刻なものがあるようである。…伝えられる米軍の南朝鮮からの撤退説をめぐって、朝鮮における右派・左派の抗争は将来において深まり、強まると考えられる。そしてこの朝鮮情勢を前にして…朝連に関連する団体の活動を注視するならば、彼らが密かに共産主義陣営の一翼として、北朝鮮の最新の動きに応じて、日本の共産分子と秘密裡に連絡をもって、地方で日本国民の扇動のため術策を弄しつつ、この国の革命成就の機会を待っていると想定される。(法務府特別特審局(1951)『朝鮮人団体の動向(自1949年6月至1960年9月)』法務府、p1。)

 

 解放された朝鮮人が熱意をこめてつくった学校はGHQと日本政府により強制的に廃校にさせられ、朝連も団体等規正令により解散させられ、在日朝鮮人は厳しい状況に置かれた。

 こうした状況下で関前の在日朝鮮人はこのころどのような生活をしていたのだろうか。証言によれば、関前のほか、北裏や千川上水べり、東伏見早大グラウンドに面した土手の上などには軒の低いバラックが連なり、ニコヨンや土方、失対などで暮らしていた人々が多かったという。

 

「自分たちで建てたおもちゃみたいな家に住んで、みんな貧しかったね。朝鮮戦争が始まって日本は戦争特需にわき、間もなく戦前の水準まで経済が回復したけど、朝鮮人にはその余禄がなかった。企業に就職できるわけじゃないし、仕事といったら男は土方、女は闇米を売ったり、ぼろ拾い、ドブロク作りかな。じめじめして日当たりが悪くて、水道もないところにかたまって住んでましたね。」(武蔵野市女性史編纂委員会編集前掲書、p163。)

 

 さらに翌50年には朝鮮戦争が勃発し、解放のよろこびもつかの間、「祖国」は戦場となってしまった。その同じ朝鮮戦争によって日本の経済は回復し、特需に日本社会は湧いた。 

 

(注)協和会について

 戦前篇で述べたように、日本政府は労働力の補てんのために朝鮮人労働者の内地受け入れに舵を切ったが、そのことで様々なトラブルが起こることを懸念していた。そのため労務動員実施以前からその対策を準備した。朝鮮人管理のための組織、協和会発足と全国設置もその一環であった。そこでは、自主的な朝鮮人の活動を抑圧しつつ、朝鮮人を組み込み、そのもとで生活習慣の同化や日本語教授、日本国家への忠誠心教化が実施された。指導の中心は警察官であり、抗日意識を持つ人びとの監視も彼らの重要な任務であった。
日中戦争開始以降にはこの対策はさらに重要性を増し、全国的な組織整備が国家の施策として推し進められた。1939年6月には厚生省管轄の財団法人中央協和会が発足する。各都道府県(朝鮮人の少なかった沖縄県を除く)に設置。以降、労務動員により日本内地にやってきた朝鮮人は協和会に強制加入させられていった。また厚生省管轄の団体といっても協和会の運営には引き続き警察が関与した。職場での労使紛争も含めて朝鮮人が何か問題を引き起した場合にいつでも弾圧できる体制が築かれたのである。(外村前掲書、pp51-52。)

中島飛行機武蔵製作所と朝鮮人*戦前編

『猫が星見たー歴史旅行』冊子vol.1では「軍と人びとー中島飛行機武蔵製作所の戦後史」と題し、中島飛行機武蔵製作所の跡地における戦後の出来事を通じて、現在、日本社会が直面している安全保障のあり方、自衛隊をはじめとした軍のあり方を、個人の視点で検討しました。米軍宿舎グリーンパークをめぐる様々なアクターの態度や行動に焦点をあてたために、冊子では取り上げることができなかったことも出てきました。そこで今回と次回は、武蔵製作所周辺に居住し、労働した朝鮮人について、戦前篇と戦後篇と2回にわたってを書いていきたいと思います。

 

 なお、冊子vol.1「軍と人びとー中島飛行機武蔵製作所の戦後史」をご希望の方は、お手数ですが、こちらまでご連絡ください。nishiogiminami3@yahoo.co.jp

 

中島飛行機武蔵製作所と朝鮮人*戦前編

かつて関前(現在の八幡町三丁目)には朝鮮人の登録住所が集中していた。戦前そこは、中島飛行機武蔵製作所の門前にあたる場所だった。宮本組、武田組、白山組など比較的大きな飯場には、朝鮮人の親方のもとで中島飛行機関係の土木作業、運搬作業を担う朝鮮人労働者がいた。こうした飯場は多くが若い単身男性のためのものであったが、その飯場を切り盛りしたのは親方や労務者の妻である女性たちであった。

 

「巨大な兵舎のような建物があり、中はベニヤ板一枚で20~30坪ほどの各区画に仕切られていて、それぞれに家族とともに5、6人の人夫たちが一緒にくらしていた。床はパネル貼りの上に厚めのござを敷いていた。台所は土間造りで、竈が三つ作られていた。長い飯台とベンチ状の椅子があり、人夫たちはここで食事をしていた。」(武蔵野市女性史編纂委員会(2004)『武蔵野女性史 通史編』p111—112)

 

武蔵製作所は中島飛行機の各工場の中でも中核をなす拠点工場のひとつであったが、日中戦争が進み戦局が悪化すると青壮年従業員の多くが出兵し、その穴は学徒、挺身隊、報国隊、応徴士らの戦時動員者が埋めることになった。応徴士とは徴用された者をさし、ここに朝鮮人も含まれていた。

在日朝鮮人と私たちが当たり前のように呼ぶ人びとは、どのように「形成」されてきたのか。普段、そのようなことはあまり意識することがない。どこから来て、どのような時を過ごして、今に至ったのか。当然、在日朝鮮人は多数いて、そこには様々な人生や家族、親族の歴史があるだろう。私の住む武蔵野市にも在日朝鮮人がいた(いる)。そのルーツを垣間知る、見ることが数年前にあった。武蔵野の在日朝鮮人について調査研究されていた在日朝鮮人2世の方からそのお話を伺ったことがきっかけだった。自分の住む町には様々な人びとの思いや暮らしが折り重なっているのだなと感じた。当たり前のことだけど、頭ではなく体で感じたような気がしたのだった。

 

 

◯総力戦へ

1937年の盧溝橋事件(1937年7月7日。「支那事変」と称された日中戦争の発端。)を境に、日本は中国での戦争を全面的に展開。総力戦を戦うことになった。総力戦とは国の人的・物的全資源をあげて戦争に動員し、戦うこと。これにより、何よりもまず軍事・軍隊が重要視しされ、青壮年は兵士に徴兵され、産業では軍需産業が最優先された。

総力戦にそなえて日本政府は翌1938年に国家総動員法を施行した(日本内地では1938年5月5日、朝鮮では5月10日に施行。)同法によって日本政府は戦時ないし戦争に準じる事変の際に国が人的及び物的資源を統制運用のために必要な措置を可能とする根拠が与えられた。そして手続きなどの詳細規定は議会の承認を必要としない勅令で定めることとなった。以後、各種の総動員についての勅令が次々と出されていった。(外村大(2012)『朝鮮人強制連行』、岩波書店、p38。)

1939年7月には国民徴用令(日本内地では7月15日、朝鮮では10月1日施行。)が、また徴用の前提としての国民登録(自己の就業場所、居住地などの職業紹介所への登録)、徴用とは異なる各動員業務への協力、職場移動の制限、賃金統制といった勅令が出され、人びとの生活は縛られていった。

国家総動員法が施行されたのちに政府は厚生省を新たに置き、労働市場の統制を行うこととした。また職業紹介法を改正(1938年施行)。職業紹介所を国営化し、政府以外が職業紹介をすることを原則禁じた。

一方、朝鮮人の労務動員計画はどのように進められたのだろうか。1939年7月4日、労務動員実施計画が閣議決定。これはその年度に必要とされる戦争遂行のための労働力の需要とその給原を記したもので、その中に、日本内地の炭鉱等に配置するべき労働力の給原として朝鮮半島からの労働者85000人分が計上された。これが日本帝国による日本内地にかかわる朝鮮人労務動員政策の最初の決定であった。(外村前掲書、p42。)この決定は日中戦争初期段階まで朝鮮人労働力活用に慎重だった方針が大きく転換したことを意味した。転換の後押しをしたのは、戦争の長期化の見通しと労働力不足の進展であった。だが、動員計画策定の調整に入った時点においても、政策当局者のすべてが朝鮮人労働者活用に積極的であったわけではなかったことは確認しておきたい。

なぜ積極的ではなかったのか。日本内地における当問題の関係省庁は、厚生省と内務省のほか、産業政策担当の商工省があった。このうち商工省は当初から朝鮮人導入に賛成だったのに対し、厚生省と内務省は1939年の段階でも賛成しなかった。両省の担当行政内容から考えれば、戦後における失業問題や民族的葛藤を含む治安への影響の懸念が関係していたといえるだろう。また官僚だけでなく民間にも朝鮮人導入への否定的意見があった。『東洋経済新報』1939年5月27日号は「朝鮮人労働者移入問題 将来永遠の立場より見て極めて慎重なるを要する」と題した社論を掲載している。ここでは、すでに日本内地に住む朝鮮人数が同化しうる量ではないこと、平時となった際の失業問題への懸念、さらに「日本国家にとつて、果して彼等が健全なる構成分子と言へるかどうかも疑問」だとして、安易に朝鮮人労働者導入を進めるべきでないことが主張された。(外村前掲書、p42-44。)

だが、結局は、こうした消極論をも圧倒するほどに日本内地では炭鉱等での労働力不足の現実が差し迫っていた。これ以降、朝鮮人は計画的な労力移動の対象となり年々その数は増やされていくことになる。だが、消極論での懸念は内地で払拭されたわけではなく、そのことは朝鮮人労働者への内地における労働環境へ少なからず影響を与えることになった。朝鮮人の戦時動員は、動員方法、移入方法、動員先配置、労務管理、賃金・環境などの諸待遇、残された家族への援護策、敗戦後の処理など、さまざまな面で日本人と異なる扱いがなされた。

軍需産業、工場などへの朝鮮人労働者「調達」は、敗戦間近の戦局が悪化する1942年ごろから始まった。中島飛行機武蔵製作所ではどれくらいの朝鮮人がどのように労働していたのだろうか。そのことがわかる資料は戦後にほとんど残されなかったが、女性史研究家の梁裕河によって警察関係資料から手がかりとなるものが発見された。内務省警保局の「特高月報・昭和19年11月<朝鮮人運動の状況>」によれば、

 

 「武蔵野署管内に於ける労務者の状況、中島飛行機武蔵野工場に於ては第八十七部隊監督の下に目下同工場拡張土盛り工事の為朝鮮人土工約250名を使傭し、又中島飛行機工場に於ては朝鮮人職工二百名就労中なるが、十一月二十四日の空襲時に於ては、同所付近に数弾投下せるも敵機来襲と共に全員を防空壕に退避せしめたる為工場内に僅少の被害ありたるが、周辺に一人の被害者もなく敵機の脱すると共に平常の如く従業し何等動揺なし」

 

とあり、少なくとも1944年(昭和19年)当時に、工場拡張工事に250名、工場内に200名の朝鮮人が労働していたことがわかる。どのような労働環境だったのだろうか。当時の朝鮮人労働者の様子を元中島航空金属の学徒だった方は以下のように証言している。

 

「朝鮮の男の子たち、私たちと同い年くらいでしたが、大勢来ていましたね。彼らは最も低い身分で、まるで牛馬のような、いや、それ以下の扱いをされていました。…その見張り番を私たちがさせられたりもしましたよ。当時、朝鮮人というと一段低く見る習慣がありましたが、私たちはそのころ考える力もなく、そういう考えを批判する目もなかったんです」(梁裕河(2013)「ノート・中島飛行機朝鮮人」『武蔵野市 女性史 あのころそのときー国策に絡め捕られてー』p45。)

 

 「まるで牛馬のような、いや、それ以下の扱い」をされていた朝鮮人の少年の労働環境とはいかに過酷で差別的であったことだろう。一方で、中島飛行機青年学校生は「青年学校の寮に入っていて、寮では酒が飲みたくても飲むことが許されなかった」中で、寮から「朝鮮飯場にドブロクを飲みに行」くということもあったそうだ。また、「畑の野菜を分けてあげると、飴を作って持ってきてくれた。甘いものが少ないところだし、嬉しかったのと、飴造りが上手だなあと思ったことを覚えている」といった古くから関前の住人であった方の証言もある。(梁裕河(2013)前掲書。)

 軍需工場・武蔵製作所では労働力不足を補うために朝鮮人労働者が多数従事した。またその周辺には、同製作所に関連した土木作業、運搬作業を行う飯場が集まり、朝鮮人の親方のもと、ここにも多くの朝鮮人が労働従事した。このように軍需工場があったために、この場所に朝鮮人コミュニティが生まれ、それは戦後にも受け継がれていくことになる。

 

帰国事業の痕跡をたずねる1〜JR鶴見線・鶴見駅ホームの時計

帰国事業の痕跡をたずねる

横浜の鶴見からは多くの人が帰国事業で北朝鮮へ渡った。JR鶴見駅鶴見線ホームでは帰国者から贈られた時計が今も使用されている。

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全国各地に帰国事業の痕跡が残されている。シリーズ「帰国事業の痕跡を尋ねる」では全国各地に今も残されている帰国事業の痕跡を紹介していきたい。まずは東京近郊から少しずつ・・・。

 

以下では、そもそも帰国事業とは何だったのか、記しておきたいと思う。

 

帰国事業とは何だったのか。

日本と朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮と呼称する。)両政府の了解のもと、両国の赤十字社による帰国協定に基づき1959年12月にはじまり1984年で終了した「帰国事業」では延べ93340人の在日朝鮮人とその縁者となる日本人(や中国人)が北朝鮮へ渡った。その多くはルーツが朝鮮半島南半部であった。それなのになぜ北朝鮮へ渡ったのか。

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従来、日本政府は帰国事業には消極的だったといわれてきた。「人道問題」のため受け入れはしたが日韓国交正常化交渉への配慮から国際赤十字委員会を仲介とした交渉を条件に事業実施を承諾したほどに。だが、実は日本政府は在日朝鮮人の「追放」を検討し、むしろ帰国事業推進に熱心であった。(このあたりについてはテッサ・モーリス=スズキ(2007)『北朝鮮へのエクソダス「帰国事業」の影をたどる』、朝日新聞社、に詳しい。)

1950年代の日本。恒久的失業を強いられた在日朝鮮人生活保護に頼るしかなく受給者は日本人の10倍以上であった。このような中で、厚生省が在日朝鮮人生活保護受給調査を熱心に取り組み、打切りと減額を断行したことは、在日朝鮮人が日本を去ることを後押しすることとなった。

こうした状況を背景に、1958年8月11日、在日朝鮮人による「集団帰国決議」が出されたことを契機に、在日朝鮮人総聯合会は大規模な帰国運動を展開。これに、金日成首相は帰国の熱烈歓迎を表明。南日(ナムイル)外相は帰国希望者即時引き渡しを日本に要求した。

一方、日本国内では、1958年11月17日に超党派による「在日朝鮮人帰国協力会」が結成され、積極的に帰国事業を推進。地方議会での帰国要求支持決議が相次ぐなど全国的に運動は盛り上がった。

 

これは単なる過去の出来事であり、日本にいた朝鮮人とその家族が当時「地上の楽園」とうたわれた北朝鮮へと自らの選択によって渡った出来事だったとだけで終わらせていいのだろうか。私は決してそのようにくくって終わらせてはならないと思っている。

先ほど、少し触れたように、戦後も日本に残った朝鮮人、在日朝鮮人が日本社会で非常に生きづらい中で生活の安定を目指して北朝鮮へ渡ったことは、日本社会の彼ら彼女らへの態度と強く関係していたのではないのか。そのような視点を持って、現在に生きる私たちは過去のこの出来事を見る必要があるのだと思う。さらには、「祖国」にわたることを選択した当時の人びとの心境に思いをはせることができたらと。

「祖国」を失ったことのない私には、どうしたって同じ思いを共有することはできないが、それでもそれに近づこうとすることで何か違った景色が見えてくるように思うのだ。

 

各地域では旅立つ人びとを送る会が開かれ、帰国する人びとは記念碑や記念樹をその地へ贈った。その痕跡は多くが今も全国各地で遺されている。

帰国を選択した人たちにも、送った人たちにも様々な思いがあっただろう。帰国事業は、多様な主体の思惑がからみあった複雑な状況の中で進行していた。

 

 

                              

冊子vol.1。

猫が星見たー歴史旅行vol.1を本日刊行しました。

 

今号では、「軍と人びとー中島飛行機武蔵製作所の戦後史」

ということで、現在の武蔵野市にある中島飛行機武蔵製作所跡地における

戦後の出来事を通じて、

 

いま現在、日本社会が直面している

安全保障のあり方、自衛隊のあり方について、

個人の視点で考えました。

 

今号をご希望の方はお手数ですが下記までご連絡ください。

なお、初号のみ無料にて配布しております。

nishiogiminami3@yahoo.co.jp

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